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 ラトキアにエトルリア軍が侵入してから既に一ヶ月が経っていた。
 シャームの大公の居城に掲げられていたラトキアの国旗も、全てエトルリアのものに取って代わられていた。シャーム市南大門には、病死した大公ツェペシュと、このたびの責任をすべて背負って処刑されたフェリス伯爵ハイラードの首級が、槍に突き刺され風雨に晒されるままとなっていた。
 ラトキアを陥落させたランとファンの二公子のうち、ファンは本国に戻ってゆき、今残っているのはランであった。
 彼とともに残ったエトルリア兵たちは市街で略奪を幾度となく繰り返したため、かつてはダリアとの貿易で物に溢れていたシャームの街はすっかりさびれ、その元凶であるエトルリア兵たちはそのいでたちからひそかに《銀色鬼》と呼ばれている。
 捕らえられた公女達はランたちによって全員サッシャに送られ、その生死すら定かではなかった。上の二人の公女、エスハザードとドニヤザードが自殺したなどとは、誰も知り得なかったのだ。
 シャームの人々は皆、大公亡き後の希望であったナーディルと彼女らを彼らから奪い去った《銀色鬼》を心から憎んでいた。街では既に地下組織が作られていて、そのメンバーには城下町に住み、一番最初に略奪の被害に遭い、面白半分に家族を殺されたものが多かった。
 第三公女シェハラザードの必死の交渉で街は極力焼かれずに済み、人々は暗く、まだ不安もあるものの新しい生活を始めることができた。公子ナーディルが公女達によって何処かへ落ち延びていることを誰も知らなかった。ただ、殺されたが死体が見つからないだけだとエトルリアからの通告があり、それを信じるしかなかったためである。
 昔から根強かったシェハラザードを大公にという世論はこの事件をもとにますます高まっていっていたが、その彼女が敵の手に落ちた今、その願いも空しいだけであった。
 そんなシャーム市の一角に、略奪に遭って滅茶苦茶にされた一軒の小料理屋があった。ただそれだけならばそんな建物は市内の至る所にあったが、ここは違った。壊れた椅子や酒樽に隠れた地下室の入口からわずかに光が漏れている。
「ミリアムのとこじゃ、五歳の娘が殺されちまったってよ」
 絶望しきっていて、それでもなおその奥に相手に対する深い憎しみを込めた声だった。地下室は漆喰で壁を塗り固めてあり、床には使い古した絨毯をじかに地面にしいてある。その部屋の真ん中で、小さなランプがちらちらと光っている。狭い部屋の中には十人ほどの男女が床にじかに座り、車座を作っていた。
「でも、ミリアムは生きていられたんだから、不幸中の幸いさ。一家皆殺しのところなんか幾らでもあるんだから」
 最初の声よりも若い男の声が答えた。数人が同意を示す。
「グリュン様はどうお考えですか」
 その男が隅にひっそりと座っていた老人に話を振った。
 城が占拠される前に逃げ延びたグリュンは、従者のダンの家にかくまわれていた。遠くに逃げるよりも、シャーム市内にいたほうが相手の意表をついていて、めったに見つかることもあるまいと考えてのことであった。
 そしてそのダンの家は地下組織の会合の場でもあった。
「もともと……ラトキアはエトルリアの領土の一部で、ツェペシュ様がそこを独立国とされたのが起源。いわば我々はエトルリア側から見れば反逆者。それが、街もほとんど焼かれず、略奪をされはしたもののいま復興の道が開けたことも事実。そして全てが姫様の尽力であることもまた事実なのだ」
 話題とは全然違っていたが、グリュンはぼそぼそと言葉を紡いだ。グリュンの従者であり、この酒場の主人の息子でもあるダンがグリュンの言葉を引き取る。
「姫様とは……シェハラザード様でございますか」
「そう……。シェハラザード様は、ナーディル様を救うため、ひいてはラトキアの安寧たる未来をかけて、あのお美しい銀色の髪を切ってしまわれた。なんと痛ましい姿であったことか……」
 最後は嗚咽に変わり、グリュンは皺だらけの手で顔を覆った。言っている事は老人の繰り言でしかなかったのだが、誰からともなくすすり泣きの声がもれる。
「グリュン様、大丈夫です。姫様はお強い方です。きっと今にナーディル様が銀色鬼からラトキアを救い出してくださるでしょう。ですからそれまで我々は……我々は公子殿下と公女殿下が戻られたときのためにも、このシャームをもとの活気溢れた街に戻すのが先決でしょう」
「ダン、ありがとう。その通りだ」
 グリュンはダンの手を握り締めた。メンバーの中にも温かい雰囲気が流れた。ラトキアの民はもともと郷土愛が強い。そのためなら命すら惜しまないほど、国の独立というものにエネルギーを傾けた三十年前の独立戦争でその愛国心はますます強くなっている。
「あなた、そろそろ終わりにしたほうがいいんじゃなくって? 今日はお店を片付けるんでしょう」
 ダンの妻のミカルが上から声をかけた。営業を再開するために、荒らされた店内を片付けるからその手伝い、という名目で彼らが集まっていた。《銀色鬼》は夕方のルクリーシスの刻くらいに街を巡回するので、その時間帯だけは上でそれらしいことをしていなければならない。
 ダンをはじめ地下組織の面々は上の店に戻ると床に散らばった椅子を壊れたものと無事なものに分けたり、木屑を拾い集めたりしだした。半テルもしないうちにエトルリア兵の鎧の音が近づいてきた。
 エトルリア兵が窓のわきを通り過ぎるのを見ていたダンの黒い瞳は暗い憎悪の炎を宿していた。それは皆も同じであった。
 しばらくすると足音はまた遠ざかっていった。
「いっちまったかい?」
 足音が聞こえなくなるのとほとんど同時に二階から弱々しい声が聞こえた。
「ああ父さん。大丈夫だよ。降りてこられる?」
 ダンは階下から声をかけた。素早くミカルが階段を上り、盲目の老人の手を引いて降りてきた。
「全く銀色鬼の奴らめ、人のいいマノアさんをこんな酷い目にあわせるなんて、ひどい奴らだ」
 ダンの隣で、壁にかけた絵を直していたエノシュが苦々しげに言った。
「命があっただけましだよ」
 ダンがエノシュを慰めるように言った。確かにダンの言うとおりで、マノアは運のいいほうではあったが、彼の顔の半分はひどい火傷を負い、目は完全に失明していた。略奪のさい、店を守ろうとしたマノアの顔をエトルリア兵が松明で殴りつけたためであった。エノシュとダンのやり取りを聞いて、マノアは力なく笑った。
「わしは別にかまわんよ。せがれの嫁が優しいんでね」
「まあ、義父さんたら、お世辞が上手くなったのね」
 ミカルはマノアに揺り椅子を勧めながら笑った。
「わしがもっと若かったら、ダンなんぞにやらんで、わしの奥さんにしたかったな」
「何さあんた、あたしが優しくないって言いたいのかい」
 それまで黙々と床を磨いていたが、聞き捨てならない、と言った感じで反駁したのがマノアの妻、ダンの母であるデリラであった。痩せた夫と対照的に、恰幅のよい体をしたデリラは顔では怒っていたが声は笑っていた。
 皆がそれを見て笑い出した。笑われているはずのデリラとマノアもつられて笑い出した。さっきまでの深刻な話を忘れてしまうのではないかと思えるくらいに彼らは明るく笑い続けていた。それでも、グリュンの胸には連れ去られていったシェハラザードたちのことが重くのしかかっていた。
 所変わって、最初の戦場となったジェナの町では、外壁の修理作業が続いていた。完全な敗北ののちに抵抗する力はないとふんで、最初の占領地であったにもかかわらずここに駐屯するエトルリア兵はいなかった。それはエトルリアにとって大きな誤算だった。武力での抵抗は無理だったが、ラトキア人の愛国心は並大抵のものではなかった。
 ここに、死体が見つからず、その首に莫大な懸賞金のかかった武将が二人いた。
 青騎士副団長マギードと、白騎士団団長ハディースの二人であった。二人は運良く――名誉の戦死という言い方をするならば運悪くだったが――負傷はしたものの無事であった。二人は森の中で三日ほど過ごし、エトルリア兵のいなくなった頃合を見てジェナの町長のもとに隠れ家の提供を求めにいった。
 おめおめと生きて、などとは言われなかった。たった二人でもラトキアの誇る武将が生き延びていたことをジェナの人々は心から喜んだ。そんなわけで、マギードとハディースはジェナに隠れ住んでいた。シャームとはかなり離れているため情報が届くのは遅かったがそれを除けば最高の隠れ家であった。
 ハディースの足の怪我は大したことはなく、医者にかかってすぐに回復し、今では町民とともに壁作りに携わっている。マギードの方は胸に受けた衝撃で骨にひびが入っていて、治るまで運動は控えたほうが良いということになっていた。
 無為に過ぎていく日々をマギードはただ一つのことだけを思って暮らしていた。
 出陣前に、ディアナの前で結婚の誓いをあげようと堅く約束して別れた恋人。泣きそうな瞳で見送ってくれた優しい、愛しい恋人。
(ドニヤザード、エトルリアでむごい目に遭わされてはいないか? もしも彼女に何かあったら、アレク、メグ、ティシィ――エリニスよ、僕はどうなってもいい。必ずその者に彼女が味わった苦痛以上の物を味わわせてやってください……)
 窓から見える空は晴れていた。空は必ずつながっていると教えられたことを思い出して、ドニヤザードも見ているのだろうかとマギードは思った。

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