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                                *



「さて、余のことではないが、シェハラザード姫」
 しばらくしてサンの言った言葉は、あまりにも普通なものであった。
「ラトキアはもとよりエトルリアの領土であったもの。ツェペシュ殿がそれをラトキア公国となし、独立を宣言したものの我々はそれにうべなうわけにはゆかなかった。ツェペシュ殿は稀に見る傑物、この時代に二人と出ぬであろう、一代の英雄であった。しかしながら我々の領土奪回のさいに病でみまかられたとか。我らとしても遺憾に思う」
 シェハラザードは機械的に会釈した。
「して」
 サン大公は笏を持ち直した。
「ラトキア公女はこれよりどのような身の振り方をなさるおつもりかな?」
 それは残酷な問いであった。エスハザードとドニヤザードは唇を噛んだ。そして、ここは唯一政治的な能力を持っている妹に任せることにした。シェハラザードは軽く微笑んで、サンを見上げた。
「わたくしは、ラン公子とファン公子の手によって敗北を喫した、敗軍の将でございます。ですからわたくしの身柄はわたくしのものであって、わたくしのものではございませぬ。身の振り方は存じませぬ――大公閣下は、わたくしたちの身の振り方をどのようにお決めくださるつもりでございましょうか」
「なに……」
 ざわっ、とかすかに人々がざわめいた。大公はびくっとしたようだった。シェハラザードの口調にはほんのわずかの反発も、恐れも、媚びもなかった。
「ふむ――そう言われるとな……」
 サン・タオはわずかに困惑したような表情を見せた。
「そなたたちの身の処遇を決めるのは、わし一人の権限ではない。ご存知のとおりゼーアは三大公国の連邦、当然ペルジア、ウジャス皇帝陛下のご裁量も仰がぬわけにはゆくまい――」
「ではわたくしたちは、ただいまのところエトルリアに一時お預けの身となっているのでございましょうか?」
 大公はぐっとつまった。エスハザードは、広間の何処からか「ほう」という声を聞いた。よもやシェハラザードがこれほどの政治手腕を見せるとは誰も思っていなかったのだ。エトルリアに一時預かりの身になっていると言われて、そうだと答えれば公女達の処刑や処分の権限を失うことになる。かといって違うと言えばそれは廷臣たちの前で、エトルリアがラトキアに対して抱く野心、おかした背信を認めることに他ならない。
「それは、な。人それぞれの見方というものがあるのでな。ともかくもツェペシュ殿亡きあと、そなたたちいずれか――エスハザード姫かが、ラトキア代表ということになる。少なくとも、ラトキアの犯した罪の責任はそなたたちの身にかかるわけになるようだな」
「ラトキアの犯した罪とは?」
「言わずと知れた――エトルリアへの反逆」
「……」
 シェハラザードはわずかに首を傾げた。
「さきにも話したとおり、もとはエトルリアの領土であったラトキアをツェペシュ殿は自らの大公領としてこの国に逆らった。――それが公女、そなたの罪と言うのはもちろん不当だが――しかし、そなたは確か、シャームの戦いにおいて総大将として全軍を指揮していたそうだな」
「さようにございます」
「なら、あながち年若、女の身をもって罪なきを強弁するわけにもゆくまいな。どう思われる? 姫」
「わたくしは裁判を受けるのでございますか?」
 シェハラザードは反問した。
「それはまだしかとは言えぬが」
「では申し開きは裁判の折りにいたすことにしようと存じます。むろん、わたくしはラトキア軍をひきいて歯向かった身、強弁によって言い逃れようとは思っておりませぬが」
「いさぎよい言われようだ」
 大公はうすく笑った。シェハラザードはサン大公と、あくまで対等の立場を崩すことなく渡り合っている。それは、エトルリア側にも明らかに感じ取られていた。その何よりの証拠には、すでにこの広間の中で、彼女をたった一人の無力な何もできぬ虜囚、何の権力も持たぬただの女と見たり、そう扱おうとする目や態度はどこにも見いだせなかったのである。
 シェハラザードはいまや、このエトルリアの首都サッシャの雪花宮、敵の首都の真ん中で、堂々とラトキア大公国を代表してエトルリアの大公とわたりあう次代の女大公であった。いまやついえ去ったラトキアであったが、シェハラザードがいるかぎり、それは滅びていなかった。彼女のほっそりした体、かぼそいしっかりした肩にラトキアの重みがかかっていた。いや――彼女は、いまや失われようとしているラトキア大公国それ自体であり、彼女はラトキアそのものとして強大で傲慢なエトルリアに敢然とたちむかっていたのである。
「いかにもそなたはラトキアを代表して裁判を受けることになろう。それが、もっともあるべき成り行きというものだからな。しかしだ、シェハラザード姫」
 さりげないようすを装って、サン大公が言っていた。
「これはわしの、一方的な考えかも知れぬ――が、これはそなたにとっても決して、悪い考えではないと思うのだが――」
「はい――?」
「つまりだな。そなたは――いや、三公女はいまだラトキアの公女であり、形の上ではラトキアは征服されたとはいえいまだそなたたちのものだ。まあ、いまのそなたにははっきり言って何もできぬ――兵は取り上げられ、部下と引き離され、このエトルリアの手中にあって、我々の思惑しだいの生命でしかない。――が、そこはそれ、国際政治というもの」
「……」
「そなたにせよ、亡国の公女としてゼーアの裁判にかけられ、断頭台の露と消えるのは口惜しかろう。その若さだ――その美しさだ。まだ死ぬには早い年だ」
 次第に、大公はひそめていた舌鋒を表しはじめていた。
「ありていに言おう。シェハラザード姫。わしは初め、我が手におち、何の力もなくなった敗残国の公女の生死など何も気にかけておらなんだ。どうせラトキアの代表として首を切り、さらすだけだと。――が、こうしてそなたと言葉を交わしてみて気が変わった。……そなたの首を切るよりも、もっと有用な利用法があるのではないか、と思えてきた」
「…………」
 シェハラザードは黙っていた。しかし彼女の紙のように白いおもてからは、すでにあの死んだような無表情の仮面はきれいにぬぐい去られている。その目はいまや紫色の炎であった。さながらサン大公と剣を交え、力の限り戦っているかのように、その青白い頬は紅潮し、その目はらんらんと燃え、一語も聞き逃すまいと神経を尖らせていた。
 しかしなお彼女は冷静で、沈着を保っていた。
「そなたはなかなかのものだ。ただの美しい人形のような公女ではない。このような境遇に置かれても、堂々このわしと渡り合うだけのものをその若さで持っておる。――わしはそれを惜しむ。わしは、ラトキアを再建することができる――わかるか、公女」
「エトルリアの了承のもと、ラトキアを蘇らせてくださると――?」
「分かりが早いな」
 大公は笑った。
「そなたを裁判にかけたり、断頭台に登らせたところでエトルリアに何の得がある? ウジャス陛下はペルジアの言いなりだ。ペルジアは当然ラトキアをつぶし、領土を他の二国で割譲するように要求してくる。そのためにもそなたもそなたの姉たちも死なねばならぬ――しかし、そなたからウジャス陛下に嘆願書を出し、エトルリアに保護を求め、代わりにラトキアの後見権をゆだねたとあらば――」
「ペルジアは武力に訴えてまで、いまここでラトキアをめぐりエトルリアと争う気はないというのですね」
「おそらくな。ウジャス陛下は気が弱い。そなたからの、正式な書状があり、形式が整っていてなおペルジアにいくさを許す度胸もあるまい。――が、これはそなたにとって悪い話ではあるまい。というより、そなたはこれを受けるしかなかろう。ラトキアという国名がこの地上に残るためには、そうするしかないのだからな」
「傀儡とは、ひとたびその用が済めばあっさりと切り捨てられるもの。裁判を受けて半年のちに首を切られるのも、三年後には用が済んだとて片付けられるのと――死ぬのにどのような違いがございましょう。わたくしはここで父の責任を取り、死を以ておわびいたします、と申しましたら?」
「これはまた思いもかけぬことを」
 サンはふいに首を仰け反らせ、大声で笑い出した。
「なるほど、そなたは見上げた女子だ。いよいよ、あっさり死なせては惜しい。この立場におかれて、なおそれさえも逆手にとってこのわしを脅迫するとはな。――よかろう。そなたを殺したりはせぬよ。エトルリアはラトキアの人形遣いで満足し、名実共に支配者になろうとはせぬ、と約束してやろう」
「閣下。なぜ、お心のうちを明かされないのです」
 シェハラザードは鋭く言った。
「もっと異なることを閣下はお考えのはず――わたくしは十八歳、姉は二十一と二十で、ラトキアの公女なのです。若くて、独り身で――そして、閣下には、未だ娶られぬ弟君と二人のご子息がいらっしゃる……」
「シェハラザード姫」
 大公はゆっくりと手を挙げて、彼女を遮った。
「そなたが聡明なことはよくわかった。が、そなたはまだ若い。それを、わしの口から引っ張り出すのはよいが、そなたが言い出してはならぬ」
「……」
「わしは何も聞かなんだ。――この件については、いずれまた話をしよう。長旅と心労で、さぞかし疲れたことであろう。ゆるりと休むがよい――また会うまでな」
 謎めいた言い方とともに、大公は合図をした。その黒い瞳はひどく奇妙な、なんとも得体の知れぬ表情を浮かべてじっとシェハラザードに当てられていた。
 三人の公女はまた、もときた道を通って、ため息の塔に連れ戻された。今度は護衛の将校も兵士たちも、一言も口を利かなかった。あてがわれた部屋に入るなり、後ろで戸が閉められ、重く錠が下りる音が響く。
「シェハラザード――」
 エスハザードは妹の肩に手をかけた。膝ががくがくして、立っていられそうになかった。と、思ったときだった。
 シェハラザードはいきなり、姉の胸に顔をうずめ、わっと泣き出したのであった。
 二人はうろたえた。
「シェハラザード、シェハル……」
 何を言っていいのかわからなくて、二人は交互に妹の名を呼び、短い髪を撫でてやった。今まではりつけてきたものが一気に崩れてしまったように、彼女は激しく嗚咽しつづけた。しかしやがて、その声は低いすすり泣きに変わり、それもついにやんだ。彼女は最後の涙を振り払うと、エスハザードの顔を見上げた。
「ごめんなさい、姉様」
 彼女は言った。
「わたくしばかりが取り乱して」
「何を言うの。お前は私たちが何も言えぬ分頑張ってくれたわ。あの大公と対等にわたりあい、私たちの命の保証を取り付けてくれた」
「もう大丈夫です。二度と取り乱したりいたしませんわ」
 シェハラザードはほとんど三日ぶりに姉たちに話しかけた。
「わたくしたちはこれから、肩を寄せ合い異国の地で生きてゆかねばならないのですもの。わたくしたちも強くならなくてはいけないわね、シェハル」
 ドニヤザードは微笑んだ。
「剣を振り回すのも、あんな立ち回りをするのも、わたくし一人でけっこうですわ。姉様たちには絶対、彼らに指一本触れさせはしない。だって、ドニヤザード姉様には……マギード兄様がいるのだもの」
「まあ」
 ドニヤザードはセルリアンブルーの瞳を見開いた。シェハラザードが先程、公弟と公子の妻に、三人をめあわせてはどうかということを言いかけた、と思い出したのだ。
「でもシェハル。そんなロマンティックなことは言っていられないわ。あなた自身がそう示したでしょう? わたくしたちはたとえ大公の娼婦となりはてたとしてもラトキアの公女なのですよ」
「そうね。覚悟はしなければ」
 エスハザードは強く言った。
「もうよしましょう姉様たち。とりあえず当面の危険は去ったのですもの」
 シェハラザードはエスハザードとドニヤザードの手を取り、にっこりと笑った。その心の中に、いま一人のラトキアの遺児、弟のナーディルのことがよぎらなかった、と言えばそれは嘘になったが。
 それからの数日は、大公からの呼び出しもなく静かな日々が過ぎた。何事もないのが逆に嵐の前の静けさを思わせて、時にシェハラザードを不安にさせた。それは二人の姉姫にとっても同じことであったようだ。大公の引見後、一時は晴れた三人の顔はまたしても愁いに曇りがちとなった。ドニヤザードは窓の外ばかりを見つめ、エスハザードとシェハラザードは言葉少なく何かにじっと考えをめぐらせているようであった。
 三姉妹がそれぞれに違う沈黙に落ちていたときであった。ふいに前触れもなくドアが開き、近習が顔を覗かせた。
「エスハザード公女にお目にかかりたいというお方が見えておられます」
「どなたです?」
「右丞相ハン・マオ殿下です」
「あ……」
 エスハザードはごくりと息を呑んだ。ためらい、どうしたらいいかと迷って妹たちのほうを振り向き、そして毅然と言ってもいい態度で答えた。
「お目にかかりましょう」
 別室にエスハザードだけが彼を迎えるために赴いた。入ってきたハン・マオは、護衛も家臣も、誰も連れてきていなかった。どうせ女一人、かりに何かあったところで何ができようかと軽く見ているのだろう。
「ようこそおいでなさいました」
 尚武の国、野蛮な国よと言われても、さすが王族として仕込まれた礼は典雅である。ハン・マオはじろじろと室内と、エスハザードを見ていたが、
「一応の調度は整っているようだが、何か、いるものでも?」
 口を開いた。思ったより、丁寧な言い方だった。
「何かあれば言ってください。兄は、貴方たちをもはや、ただの虜囚とは考えておらぬようだ」
「……」
「まあ、いい」
 ハン・マオは目をすがめて、なおもじっとエスハザードを見つめていた。
「――やはり、美しい方だ。ラトキア女など、エトルリアの女、クラインの女とはくらべるべくもないと聞いていたが、これなら充分はりあえるどころか、エトルリアでも非常な美人でとおる」
「ありがとうございます」
 エスハザードはまた微笑んだ。
「私はあまり曲がりくねった言い方は好まぬので率直に言わせてもらう。あなたたちの命は我々が握っている。そして兄が言っていたとおり、エトルリアはラトキアに傀儡政権を打ち立てて、それを後ろから操ることを望んでいる。――兄は先日ああは言ったが、むろん、二人の息子と私にそれぞれあなたたちをめあわせる気だ。そこで姫。貴女には私を選んでいただきたいのだ」
「……」
「兄は多分、形だけでも三人を並べて貴女たちに選ばせるという方法をとるだろう。そうなればランはエトルリアを継ぐ身ゆえ――下のファンは若いゆえ――といった形をつけて、私は一応穏やかにラトキア大公、ないしは女大公の夫となってエトルリアを出ることができる。貴女は美しいから、私はけっこう良い夫になれるだろう。醜い女には我慢ならないのでね」
「ずいぶん、本当に思ったことをお言いになられるのですね」
 エスハザードは笑った。
「私の甥たちには、もう会われただろう」
「はい。シャームの城にて」
 ハン・マオは彼らを嫌っている、ということを少しも隠さなかった。
「奴らはどうせ、貴女や妹君を自分のものにしようとでも思っているだろう。そもそもラトキアに兵を出すように何度も言っていたのはランだったのだから。貴女にも何度か妻に、という要求を出していたことだろう」
 これには彼女は無言で頷いただけだった。
「どうだ、エスハザード姫。私なら年は三十五、貴女は二十一……かなり離れてはいるがそれぞれ年長者どうし、仲良くやってゆけると思うのだが」
「わたくしもそう思います」
 エスハザードはゆっくりと目を上げて、ハン・マオを見つめた。彼は少し、彼女との間を詰めた。
「答えは」
「ずいぶんと性急におっしゃいますのね。すぐに、とは。わたくしはまだあなたのことを何も存じませんわ」
「これから知ればいい。ともかく、私と組むか組まないか、教えてくれ」
「……」
 ハン・マオは立ち上がり、エスハザードが話しているあいだずっとかけていた椅子に近づいた。そして、膝にそっと組まれて置かれていた手を握った。
「これから……ですか」
 彼女は言いながら、目の前の男の顔を見上げた。それから、探るような瞳をちらりと走らせた。その青紫の瞳が鋭い光を帯びた、と見えたのは一瞬であった。やにわに彼女はハン・マオが腰にさしていた短刀を奪い取り、抜き放った。ハン・マオが弾かれたようにあとずさる。
「なっ……何を……」
 自分が襲われるのではないかと、ドアの向こうにひかえているはずの近習を呼ぼうとした。だが、その切っ先はエスハザード自身の首筋に当てられていた。それに気づき、ハン・マオはつとめて優しく言った。
「止せ、エスハザード姫」
「わたくしにも、選ぶ権利というものはございますのでしょう?」
 エスハザードは艶然と笑った。ハン・マオは凍りついたようにその場を動かなかった。そしてふいに、ぴたりとエスハザードは目の前の男を見据えた。その瞳は何の感情も示してはいなかったが、獅子公と呼ばれた男の娘である、ということを納得させるほど鋭く、そして厳しかった。
「わたくしは誰のものにもならない」
 鈍い、腱や筋の断ち切れる音。エスハザードの銀髪が噴きあがる鮮血とともに化鳥のように跳ね上がり、そして真っ白い床にみるみるうちに赤い染みを広げていった。彼女は横にまっすぐ自らの喉を切り裂いていた。
「あっ……うわあああっ!」
 自分が死ぬことでラトキアの公女はシェハラザードとドニヤザードの二人だけになり、とうぜん三人の間で二人をめぐって争いが起きるだろう。そうなれば二人の価値はずっと上がり、何よりも公子と公弟の派閥争いにまで発展するだろう。その隙があれば、賢いシェハラザードならつけこんでエトルリアを裏で操れるようになるかもしれない。エスハザードがその瞬間考えたのは、そのことだった。
 ハン・マオに向かってエスハザードは血まみれの微笑を投げかけ、そしてそのままぱったりと後ろに倒れた。


 姉がそんなことになっている間に、今度はファンがドニヤザードに会いにきていた。これもまた理由は明白だったのだが、彼は二人きりになりたいとは言わず、シェハラザードもそこに同席したまま唐突に話を始めた。
「シャームを攻めた折に手荒に扱ったことはここでお詫び申し上げる。ドニヤザード姫、シェハラザード姫」
 開口一番、彼が言ったのはそれだった。
「そんなこと、わたくしは気にしておりませんわ。いくさの非情と申すものなのでございましょう?」
 ドニヤザードは微笑んだが、言葉に小さな棘を含ませた。
「まあ、そんなところだ。そのことについてはお互い忘れよう」
 ファンもあえてそれ以上は言わなかった。
「私がここに来た理由は判るだろう、ドニヤザード姫」
「わかりませんわ。わたくしは妹ほど賢くも、勇気があるわけでもないのですから」
「そんな謙遜を」
 ファンは言ったが、それを額面どおり受け取っていいものかはわからなかった。
「私はあなたが欲しいのだ、ドニヤザード姫。私ならば叔父や兄をさておいてラトキアの大公か、もしくは女大公の夫になってエトルリアを離れることができる。兄はエトルリアを継がねばならないし、もうあなたたちのうち誰かと結婚するとしても姉姫が似合いの年頃だろう。叔父は……あの年を考えてみればペルジアの姫を娶るのが一番だろうと父も言っていることだし。だからこそ、私と結婚したほうが得策だとは思わぬか」
「さあ、わたくしには何とも」
 ドニヤザードは首を振った。
「それに、わたくしにはもう心に決めた方がおります」
「なんだって」
 ファンは目を剥いた。ラトキアの公女が、そんなあっさりと自分をふるはずがないと思っていたのを完全に裏切られた形になったのだから、それも当然だっただろう。ドニヤザードは相変わらず静かに微笑んでいるだけだった。
「残念ですわ、ファン様。そのお申し出なら、妹にしてくださいまし」
「姉様、そんなことをおっしゃっては……」
 シェハラザードはうろたえたが、今度はドニヤザードが冷静になる番だった。
「わたくしは覚悟をした、と申し上げておきましょう。そしてわたくしは……ファン様。わたくしは生き延びてラトキアを再興することよりも、みずからの愛に殉じるのをよしとする愚かな女なのです」
 その言い方には、どこか小昏い哀愁がただよっていた。
「待て、ドニヤザード姫……」
 はっとファンが気づいた時にはもうすべてが手遅れになっていた。監視無しでは開けてはならないはずの窓が、ファンが来たときに開かれていたのだ。ドニヤザードのほっそりとした姿は、あっと言う間にその切り取られたような空に舞い、視界から消えた。
「いやああああ! ドニヤザード姉様!」
 シェハラザードは初めて――エトルリアに来てから初めて、声の限りに叫んだ。窓に駆け寄ろうとした身体を、ファンが後ろから太い腕で手繰り寄せて引き止めた。
「無駄なことだシェハラザード姫。ここからでは助からぬ……」
「わかっています。でも……でも……」
 彼女はそこで涙のために何も見えなくなった。その震える唇から、細く途切れがちな旋律が流れた。それはラトキアで必ず歌われる鎮魂歌だった。
 歌声は風に乗り、ラトキアまで届くかのようだった。

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