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     白き翼の死と安息の女神サーライナよ
     汝に召された我が愛しき者の魂を
     汝のその白き死の翼に包み
     暗き死の苦しみと嘆きより救い出し
     永遠の安息に導き給え
              ――死者への祈りの歌




     第三楽章 二人の公女の鎮魂曲




 エトルリアの首都サッシャ。セルシャの首都ゾフィアと並んで《水の都》とよびならわされるそこは、エルボスの文化圏に入るので中原文化とは一風変わったエキゾチックな風景をもっている。中原最大の湖サリア湖の湖畔にたたずむサッシャの街には、いたるところに運河や水路が張りめぐらされ、主な交通手段は小船に頼っている。物売りの船が狭い水路を行き交う姿や、朝未だきの湖水に漁師が網を投げている姿などはなかなかに抒情的であり、詩心のある旅人ならばなにか歌でも作りたくなるような眺めである。
 若い女はみな黒髪を頭の上でまとめあげて布で巻き、足首できゅっとすぼまるクンツをはき、袖のないチュニックの上からふわふわと透ける布のベストのようなものをまとっている。年取った女は大きなヒスイのイヤリングをぶら下げている。男たちは前合わせにして帯で結ぶ筒袖の上着に、女たちの着ているのよりもずっと動きやすい、ぴったりしたクンツをはいている。
 海かと見まごうほどに広いサリア湖であるからこそ、沿海州の文化ともまた違った独特の風俗がそこに根付いている。大きな都市から離れると、あとは水田が広がり、エトルリア名物である香辛料を育てる農家が並ぶ田園地帯が湖を取り囲んでいる。これも名物であるカズの木には酸っぱい実がなり、エトルリアのものでなくとも、沿海州でも実を揚げたての魚にしぼって食べる。さわやかな香りと酸味が魚とよく合うのだ。竹の林がうっそうと茂っているところもあり、その実は嗜好品として好んで食されている。
 サッシャから少し離れた東には快楽の都ラスがある。有名な遊郭が軒を連ね、さまざまな国の美女、美少女はともかく、美青年や美少年だけをそろえたシルベウスの民御用達の店もあり、またいかなる嗜好の客にも応えることができると言われる。
 エトルリアの貴族の子女は年頃になるとラスの遊郭に一年間勤めて、それによって美と典雅と快楽の洗礼を受けるのだ、と人々は噂する。ほかにもさまざまな、いくつかの蔑みと羨望まじりに囁かれる噂――それも、エトルリアでは高級娼婦は最高の貴婦人として遇され、宮廷でも高い地位を占める、エトルリアの主だった重臣はみな、大公の稚児姓出身である、といったものばかりである。
 むろん、それですべて真実であろうはずもない。しかし全くの嘘というわけでもなかった。「エトルリアの娼婦」とは、最高の快楽を与え、最高の代価を奪い取る女の代名詞であるし、美しい女が快楽をもっておのれの価値とするように、男もその肉体を磨き、この国の国技である格闘と剣技を競い合い、ときには体に油を塗ってその鍛え抜かれた体を貴顕の前に見せびらかす。それに熱っぽい視線を向けるのは、特産の絹に包まれ、絹よりもすべっこい肌をした貴婦人たちであり、彼女たちは花や果実を選ぶようにしてその夜の相手を選ぶのである。
 むろん、すべてのエトルリアの人々がこのような頽廃と爛熟を享受しているというわけではないし、このように闘技に金をかけたり、名誉をかけることが一般化している結果、快楽の都の名とはうらはらに、エトルリアの軍事力はなかなかばかにできぬものがあった。しかし、クラインを学問と魔道の都といい、ラトキア――いまはなきラトキアを尚武の国というように、エトルリアといえば世界の人々はたちまち、快楽の都、剣闘士の国、のイメージを浮かび上がらせるのである。
 シャームの戦いで敗れ去り、エトルリアの虜囚となったラトキアの公女たちがその処遇を委ねられることとなったエトルリア大公国とは、そのような国であった。
 首都シャームの近郊で捕らえられ、武装解除されたのち、シェハラザードとその主だった部下たち、フェリス伯、ナハソールらの諸将はただちにラスに送られた。ひきいていたラトキア兵たちがどうなったのか、シェハラザードには知る由もない。
 ラスでの日々は短く、二日のちに特別船がしたてられ、シェハラザードはとうとう部下たちとも引き離されて、たった一人サリア湖を渡ってサッシャの大公城雪花宮に護送されたのである。
 そこで初めてシェハラザードは先に護送されていた姉姫たちに会うことができた。彼女たちの身柄は大公の右腕、リー・ルン千龍将軍の管轄に移され、そのまま大公の一族の者が謹慎の罰を受ける場所である、通称ため息の塔に連れてゆかれた。そこは牢獄というよりはむしろ華やかな客間に監禁されているようなものだった。それが、この三人の公女の当分の――場合によっては終の住処であった。
 エスハザードはシャームからサッシャまでの四日にわたる旅のために体調を著しく害していた。そのため「ため息の塔」に監禁されてすぐに臥せってしまっていた。ドニヤザードの方も疲れた顔でラトキアの方角を見つめてばかりいた。二人とも、泣く涙も枯れ果てたといわんばかりに無表情で、喋ることも少なかった。もしそこにシェハラザードがいなかったら、二人はそのまま身投げをしていたかもしれない。
 姉妹は別々の部屋に監禁されていて、一人ずつにエトルリア人の侍女が何人かついた。姉妹同士、塔の中を自由に歩いて会うことはできたが、それにはその侍女たちがいつもついてまわっていた。ここに収容された最初のうち、シェハラザードは侍女の内に味方となってくれそうな者はいないかと探っていたが、残念なことにエトルリア人はラトキア人に負けず劣らずの愛国者であった。
 ようやくエスハザードが起きて歩けるようになったのは、シェハラザードが雪花宮にうつされて二日目のことだった。とはいえ、エスハザードは完全に回復したというわけではなく、二人の妹に両肩を支えられて椅子にぐったりともたれかかった様子は、〈憂国の美女〉と銘打たれた一枚の絵のようであった。大公からの呼び出しがかかったのも、その日であった。
「ラトキア公女シェハラザード。お召しだ」
 前触れもなく扉が開き、エトルリア人の将校と、兵士数人が入ってきた。
「無礼な。女性の室に入るときにはそれなりの礼儀を尽くすもの。――第一、一体どなたが、何の用でお召しなのか、それをうかがいましょう」
 その物言いに少なからずむっとしたシェハラザードが気丈に言い返した。いまやかよわい姉二人の代わりに、ラトキアを背負ってゆかねばならないとあらたに決意を固めた彼女には、悲しみに打ちひしがれている暇もなかったのである。
 ドニヤザードが幾分青ざめた顔で妹の横顔を見た。うろこをつらねたような鎧の上から、長いマントをひいた将校は、シェハラザードの抗議に何の注意も払わず、うるさそうに言った。
「大公閣下じきじきのお召しだ。光栄に思うがいい。さあ、急ぐのだ」
 将校はうながして出ていこうとする。シェハラザードはここで逆らっても無駄なこととわかっていたので、おとなしく腕を掴まれるまま立ち上がった。いきなりのことに、慌てたのは姉たちだった。
「お待ちください、わたくしたちもついてゆきます」
「お前たちのことは聞いておらぬ。ここで待っておれ」
 エスハザードに続いて、ドニヤザードが必死の形相で訴えた。
「いいえ、どうか! 妹が一人引き立てられてゆくのに、姉のわたくしたちが呼ばれぬとは余りに不自然。たとえ用向きがどうあれ、わたくしたちは一緒です。あなたも同じゼーアの人間なら察してください。わたくしたちは敗れたりとはいえ、いまだラトキアの公女です。すなわち、エトルリア大公とはいわば同じ身分。それを、一方が勝ち、一方が敗者になったからといって、卑しい罪人のように、かよわい娘をたったひとり尋問の場に立たせようとは、あまりに没義道という仕打ち!」
「いくさとは、そういうものなのだ、姫」
 将校はかすかに笑って言った。しかし、二人の必死の頼みには少なからず心を動かされたらしい。
「まあ、よかろう。では一緒に来るがいい。一人が三人になったところで、大した変わりはあるまい。ことに若く美しい娘ならばな」
 そんなわけで三人の公女はともに引き出されることになった。この先に待っていることへの恐怖よりも、この数日のあいだに父親を亡くし、故国を失い、すべてを奪われたエスハザードとドニヤザードにとって、三人のうち誰か一人でも欠けてしまう恐怖のほうがずっと耐えがたかったのである。シェハラザードのほうはそんなふうに感じているようでもなかったが、三人は寄り添うようにらせん階段を降り、廊下を渡り、兵士たちに導かれていった。
 雪花宮の名に恥じず、この宮殿は全体が白大理石で作られている。構造としては高殿としてつくられ、その下に池や、水路が巡らされている。廊下はしばしば橋となって水路を渡り、そこここが水晶で張られた床となって、下の澄んだ水の様子がのぞかれる。将校がからかうように言った。
「我が国では罪を犯した小姓や侍女などは、ここに放り込んで魚の餌にしてやるものなのだぞ」
 それは、趣豊かな、美しく一風変わった人目を引く建築だったのだが、いまの三姉妹には、その風変わりな美しい宮殿の豪奢など何一つ目に入りはしなかったし、将校のからかいも耳に入っておらぬようだった。
「ラトキア公女シェハラザードほか二名、召し連れましてございます」
 三人が連れてこられたのは、謁見の間であるようだった。ふいにまぶしい光が溢れ、おそろしく大勢の人間が居並んでいるかのような錯覚を起こした。それが誰であるのか見定めるよりも、自分たちがどう映っているのか、それを彼女たちは知りたかった。
 自殺を懸念してかどうか、エトルリア側が彼女たちに支給したのはどれも同じデザインの、えりを大きくくった、袖の長い、上から下までぴったりしたドレスだった。身を飾る宝石の一つもない。色はまったくの白一色で、いかにも囚人か、病人じみていたが、さすがに名産というわけなのか、地は上等の絹でできていた。
 出陣のおりにぷっつりと首のところで切りそろえた髪は、結うすべもなく、かざるものも無かったので、まるで少年のようにそっけなくシェハラザードの顔にまつわりついていた。何一つかざりのない白い服をつけ、リボン一筋、首飾り一つないまま、ラトキアの三輪の花たちの首は大きな襟ぐりの上にむき出しになっていた。
 三人は、寄り添ったまま広間の中央に立ち尽くしていた。そこには大勢の人々が並んでいた――正面の玉座に、どっかりと腰を据え、興味ありげに身を乗り出している壮年の男を中心に、その両脇にやや小さい椅子が幾つか並び、さらにその両側に二列になって、エトルリアの廷臣たち、武将たちが立ち並んでいる。
 広間は深みのある赤で統一され、壁に沿って大きな、モザイクをはめ込んだ窓が連なっており、天井はちょうどエトルリアの特徴ある兜のように、球の頂上をつまみ上げたような形になっていた。床は水晶で張られており、その下の水が透けて見える。夜ともなればこの下に灯がともされ、目にもあやな美しい光景が広がるのだろう。
 中央の玉座にかけている男――いうまでもなくエトルリアの支配者サン・タオ大公であったが、彼はかっぷくのいい、倣岸で威圧的な酷薄な顔立ちと、鉄色の髪、とがったかたちに刈り込んだ髭をたくわえた壮年の男で、その黒い瞳は無情な、冷酷な光をたたえて三人の公女たちの上にすえられていた。エルボスでは皇帝の動物とされる龍を金糸で縫い取った、エトルリアの色である純白のビロードの筒型衣が、そのがっしりした体を包んでいる。鉄灰色の髪にはラトキアのそれと同じ円い大公の帽冠をのせ、右手に長い錫杖をもっている。
 彼の両脇にかけているのは明らかに、名高い《エトルリア二公子》の次男ファンと、公弟にして右丞相のハン・マオであろう。ファンは二十七、八、大公とは二十以上も歳の離れた弟であるハン・マオは三十五であったが、二人は兄弟のように似ていた。
 髪は短く整えられ、大柄で、ファンは父親譲りの黒い瞳であったが、ハン・マオは前大公ゆずりのペルジアの青灰色の目をしていた。ファンのほうがずんぐりとしており、ハン・マオのほうがいくぶん顔はましだった。
 ファンは兄のランとともにラトキア侵略の軍をひきいていたので、三人の公女達は会うのは初めてではなかった。しかしほかの者たち――大公も、重臣たちもすべて、彼女たちは初対面であり、相手もそうであるはずだった。
 サン大公が咳払いをした。彼は、このラトキアの公女をどのように扱うか、いやしい罪人としてか、国を失った一介の小娘としてか、それとも敗戦国の戦利品として遇するか、ひそかに内心で迷っているように見えた。
「ラトキア公女エスハザード姫、ドニヤザード姫、シェハラザード姫」
 その声はまだ何も語ってはおらぬ。
 言葉を次ぐ前に、シェハラザードは優雅にまっすぐのびた首を白鳥のようにもたげ、服の裾を軽くつまみ、正式の――しかしいくぶんそっけない礼をした。その菫色の瞳は無表情なままだった。
「お初にお目にかかります。サン・タオ閣下」
 彼女は正確な、無感動な声で言った。
「あ……」
 サン大公は、ちょっととまどったように彼女を見た。機先を制せられた、と思ったのかも知れぬ。
「そうであったかな」
(まあ……シェハラザード)
 エスハザードは驚いたように末の妹の背中を見つめていた。ずっと年下の、まだ成人してもおらぬ妹が、急に心強く思われてきたのである。
 大公のほうは、なおも心を決めかねているように見える。シェハラザードの沈着と、その平静な態度とが大公を迷わせたのだ。彼女がわっと泣き崩れたり、激昂して罵る言葉を投げつけたりすれば、すぐにもこの酷薄な目と口を持った男は、かよわい虜囚をかさにかかって責めつける非情な征服者の顔をあらわにしただろう。だがシェハラザードは何の感情も示さなかったので、それがサン大公を戸惑わせたに違いない。

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