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 エトルリアのラトキア侵攻、征服の知らせはあっと言う間に大陸中に広がっていった。中原最大の情報網を持つクライン、その首都カーティスではその日のうちに、メビウスでもやや遅れて、そして沿海州には翌日に、というふうに。ラトキア特産の花で、香水の原料となる高価なセラミスや、高品質のアーフェル果を取引していた沿海州では早速沿海州議会が開かれることになった。
 沿海州の中でも得意先の貿易相手というものが、ティフィリスはロスと香辛料を、セルシャはエルボスと鉄などの金属を、ダリアはラトキアとセラミスを、というようにだいたい決まっており――もちろんそれに縛られることもなかったのだが――ラトキア国内が混乱してセラミスやアーフェル果の値が高くなってしまうと取引先としてはかなりの痛手となってしまうのである。
 今回の沿海州議会はダリアの首都テアで開かれた。ダリア大公トールは妻ルシーザとともに会議に臨んだ。ティフィリスは病の国王に代わり、王太子フリードリヒが出席し、セルシャ王エミールはマナ・サーリアと共に来ていた。その他のメンバーとしてはラストニア国王ギース、アスキア総督クロヴィス、ダキア市長ライ・エン、ファロス大公ドジェ、ベギア市長トレモリー、ラエル議長デーン、ティミシア市長アドルファスといった面々であった。
 彼ら沿海州の代表たちはテア城の広間に集まり、円卓についた。壁際には書記官や、書類を持った秘書官たちが座っている。
 沿海州同盟の盟主は権力集中を防ぐために五年ごとの交代制であり、今回の議長はラストニア国王ギースであった。沿海州の人間は黒髪と黒目、浅黒い肌を持っているので、その中ではティフィリス、ダリア、セルシャの赤髪や金髪はひどく目立っていた。それもなかなか、傍目からは面白い眺めであったに違いない。
「この度は大変なことになりましたな、トール殿。さぞや大変でしょう」
 フリードリヒはあっさりと言った。
「ええ。ラトキアがどうなろうと、そちらは関係ないでしょうが、ダリアではラトキアを第一の取引先としていましたからね。そちらで言えばロスみたいなものですよ」
 トールの言葉にはフリードリヒに負けず劣らずのとげがあった。普段仲が悪いわけではないのだが、ティフィリス王太子フリードリヒという人物はこういうときはかなり嫌なことばかりを言う性格だった。
「フリードリヒ殿に、義兄上、この席で口論はおよしください。今はそんな場合ではございません。ギース殿、続けてください」
 エミールが気兼ねしながら口を挟んだ。
「その通りだったな、エミール殿」
 フリードリヒが乗り出していた体を引いた。トールも、何か言おうとしていた口を閉じたので、エミールはほっと息をついた。ギースが立ち上がり、咳払いを一つしてからおもむろに喋り始めた。
「それではあらためて議会を始めます。議長は私、ラストニア代表ギース・ラスティエがつとめさせていただく。まず、ラトキアの第一の輸出品目、セラミスについて。これはフェリス地方で栽培されるものゆえ、戦乱の影響はなく今のところの供給はとだえておりません。しかしながらこのセラミスをエトルリアが独占し、自由に関税をかけて売ることになった場合、どこまで譲歩するかです」
「その前に、フェリス地方が戦場となる可能性は? 供給が途絶えてしまうようなことにはならないのか」
 ティミシア市長アドルファスが唐突に口を挟んだ。ティフィリス側の秘書官がそつなく答えた。
「もろもろの事情にかんがみても、その可能性はありません。フェリス地方は田園地帯ですし、すでにラトキアは全面降伏の姿勢を取っています。さらに、フェリス伯爵はこのたびのシャーム市街戦において捕らえられており、実質的にフェリス騎士団を率いて戦うほどの人物もおりません」
「ならば、セラミスの元値が上がることはまずないと考えてもよさそうだな」
「そのようです」
 アドルファスは考え込むときのくせらしく、口ひげをひねった。
「しかしあまりに上げすぎた場合、こちらも買わない、という方策を採ることも必至でしょう」
「それでは困る。他にセラミスを輸出している国はラトキア以外にないわけだし、セラミスはクラインにしろメビウスにしろ、何よりも高く売れる花だ。これを全くなくすことはどこであれかなりの損失になるだろう」
「では貴殿、エトルリアの言いなりになっても良いと?」
「そのような意味で言ったのでは……」
 議論は白熱していくようだった。
 堂々巡りにも近いその議題をどうにか解決し、アーフェルについての談義も終わった。半テルの休憩ののち、また議会が始まった。沿海州としてラトキアに援軍を送り、助けるか、それともエトルリアの支配を黙認するか、ということである。順序としてはこちらを先にすべきだったのかもしれないが、ともかく商業上の話のほうが長引きそうだったので、あえてギース議長がそれをあとまわしにしたのである。
「……ラトキアに援軍を送れないだろうか」
 トールがつぶやくように言った。ダリア公国にとって、ラトキアを失うことは痛手であった。もちろん、エトルリアの支配下にあるからといってラトキアとの貿易が滞るわけではなかっただろうが、それでもツェペシュ大公が即位して以来ずっと第一の貿易相手としてやってきたし、第三公女シェハラザードと公子クルースの縁談話もあっただけに、ダリアとしては相当に肩入れしたい気分もあったのだろう。
「たしかに……」
「宣戦布告もなしにいきなり攻め込んだのはエトルリアだということでしたな」
「だが、宣戦布告がかならず必要と決まっているわけではないし、それでエトルリアを責めるわけには」
「これを申し上げては、敵の思うとおりになってしまうとは思うのですが……しかし、あえて言わせていただきたい」
 エミールが幾度かためらったあとに発言した。列席していた代表たちがはっとしたようにこの青年王を見た。
「敵の思う通りとは、どういうことかな。エミール殿」
 ファロス大公ドジェが怪訝な顔をした。数人が無言のまま頷く。
「これは国内でも内密にしておいたことですし、皆様も口外なさらぬようにお願いいたします。先日、我が妻エリスペスを拉致しようとした輩がおりました。幸い、事は未遂に済み、エリスペスも無事でありましたが、その首謀者がどうやらエトルリアかペルジアの者らしいのです」
「エリスペスを?」
 まず驚きの声を上げたのはトールだった。もちろん、セルシャ王妃がダリア大公の姪であり、幼くして両親を失った姪をトールが目に入れても痛くないくらいに可愛がっていることは沿海州のものなら誰でも知っていることであった。トールの言葉にエミールが頷いた。
「実行犯のものはすでに捕らえ、獄中にありますが、首謀者であった魔道師は捕らわれる前に自ら命を絶ちました。その魔道師の名はガザーリー、どうやらゼーア系の魔道師らしく、調べたところ数年前にギルドを追放処分になったものでした。それがどういう経緯でこの事件に関わったのかはわかりませんが、マナ・サーリアの見解によれば、これはセルシャの――いえ、沿海州全体の対外政策を慎重にさせ、その国がわれわれと貿易している他国を侵略するのを容易にするためではないか、と……」
「ふむ」
「その他国というのが、ラトキアであり、エトルリアであったということか……?」
「あるいはセルシャのみを本当に狙っていたとして」
 マナ・サーリアが発言を求めた。
「それもやはり、沿海州同盟に影響することを考えれば妥当かと」
「たくらみ深いな……」
 ダキア市長ライ・エンがつぶやいた。
「しかし、その魔道師を送り込んだ国がエトルリアだとして、いくら国交がないといっても、セルシャだけに間者を送り込むような馬鹿な真似はしないだろう。多分、沿海州すべてに送り込んでいるはずだ。エリスペス殿を狙ったのだとすれば、王族や大公家にゆかりの者を害することがいつでもできるのだと我らに示し、動きを封じるつもりなのだろう」
 フリードリヒの言葉に、全員がうなずいた。
「だとすれば早々に中原にかたらい、エトルリアを討つべきでは」
 アスキア総督クロヴィスは立ち上がりかねない勢いだった。
「しかし、クロヴィス殿」
 狷介なことで知られるティフィリス王太子フリードリヒがそれをおさえた。また、全員の目が彼に注がれる。
「エトルリアがやったという明確な証拠はないか? エミール殿」
「はい。その可能性が一番高いということだけは確かですが」
「ならば」
 彼は一同をゆっくりと見回してから口を開いた。
「それだけでエトルリアを討つことはできまい」
「ラトキアを捨てろ、とおっしゃるのね」
 それまでじっと沈黙を守っていたダリア大公妃ルシーザが口を開いた。一同は一斉にフリードリヒから彼女のほうへ振り向く。振り向かずにはいられない、ある種の魅力と威厳に満ちた声だった。
「ティフィリスの海軍は強うございますが、陸軍は名ばかり……それほどでもございませんでしたわね。これは無理を申しました。セルシャも……ラティン殿お一人の肩にかかっておりましたわね。わたくしから夫に代わってご無礼をお詫びいたします。このダリアも誇るべき軍隊など持ち合わせておらぬゆえ、皆々様に頼ろうなどといたしましたのが間違い。お許しくださいませ。沿海州同盟は自ら利するのみ、他に利することはない、そういう結束なのですわね。そうでございましょう皆様? そして人道にもとるエトルリアの行いを見過ごすことも沿海州の美徳なのでございますわね?」
 セルシャ人女性らしからぬ、気の強いルシーザの言葉は辛辣だった。
「気分が悪うございますわ。わたくし、失礼させていただきます」
 彼女はにっこり笑うとそのまま退出していった。
「会議は終わりですな。ラトキアに援軍は送らぬということで」
 ギース議長が口重く言い、出ていった。それに続いて各国代表も広間を退出していく。エミールは何を言えばいいのかわからなかった。王になって初めての、気まずい会議であった。


「マナ・サーリア、あの者たちなら何と言うだろう」
「わかりません。きっと、思いもかけないことを言うのでしょうが」
 二人がセルシャに帰還するためにリーヴアリア港に向かう途中、フリードリヒとともになった。隣にティフィリスの船が停泊していたな、とエミールはその時気づいた。彼の招きで、フリードリヒがエミールの御用馬車に同乗する事になった。
「何を話しておられたのかな。ずいぶんと楽しそうに思えましたが」
「たわいないことです。……エリスペスの誘拐を未然に知らせ、協力してくれた者たちがおりまして、彼らならこのような時どうするだろうかと」
「彼ら……?」
「ええ」
「誰ですかそれは。大いに興味がありますね」
 フリードリヒは組んでいた脚をただし、エミールに尋ねた。エミールは助けを求めるようにマナ・サーリアに目配せし、マナ・サーリアが答えることになった。
「クラインのサライ・カリフとその友人です」
 その名前を聞いて、フリードリヒは大げさと思えるほど驚いてみせた。
「サライ・カリフ……ですか。そういえば、皇帝の不興を買って国外追放になったということでしたね。第二皇女から書状が来ましたよ」
「そちらもですか」
「彼はいまセルシャにいるのですか」
「いいえ。残念ながら、行ってしまいました。引き止めたかったのですが」
 エミールは残念そうに首を振った。マナ・サーリアはその様子を見て、フリードリヒと目を見交わした。
「若者なんて――いやもちろん、エミール殿もお若いが、彼らは風や水みたいなものですよ。とどめていてはよどみ、濁っていってしまう。自由に吹きすぎていくからこそ、若いんです」
(そう……アインデッドのように、皆どこかへ飛び立ってしまうんだ。そして故郷には戻ってこない。あいつがいれば、あの会議でも何かいい案が出たかもしれない……もっともあいつは戦うことしか考えない奴だけれど。あんな事さえなければ一緒に旅ができたのにな……)
 ふと、エメラルド色の神秘的な瞳を持った少年のことを思い出し、フリードリヒは思い出すままに家族として暮らした懐かしい日々を追っていた。その時、マナ・サーリアも何故か、サライの連れだった、彼に似つかわしくないくらい陽気で、それでいて何処か謎めいた高貴さを持っていた青年を思い出していた。
「フリードリヒ様……」
 彼がティフィリスのアインデッドと名乗っていたので、知っているかをマナ・サーリアが尋ねようとしたとか、馬車が止まり、馭者が港に着いたことを知らせた。
「マナ・サーリア殿。何か今尋ねなかったかな」
「いえ、何も」
 マナ・サーリアは馬車から先に降りて、フリードリヒのいた右側のドアを開けた。フリードリヒは降りてから、もう一度マナ・サーリアを見た。
「……何か? フリードリヒ殿下」
「いや、相変わらず男前な方だと思ってね」
「ご冗談を」
 マナ・サーリアは軽く笑って済ませた。その時フリードリヒは何とはなしに、アインデッドを知っているか尋ねたかったのだが、可能性のあまりの低さを思ってその質問は取り下げた。
 フリードリヒとアインデッド――ティフィリス大公にして王太子と、公子である父子――をつなぐ線は限りなく近づいていたものの、また離れていてしまったのだった。エミールとマナ・サーリアとは、青地に真珠と剣を組み合わせたセルシャの国旗がはためく船と、同じように赤地に剣の十字架をあしらったティフィリスの国旗を掲げた船とに別れて、フリードリヒは長年親しんできている〈ブリュンヒルデ〉に乗り込んだ。
 船員たちに指示を出していた青年が彼に気づき、近づいてきた。鮮やかな金色の髪と水色の瞳でセルシャ人だとわかるが、語尾の子音を強調する話し方はティフィリスなまりだった。
「なんだか浮かない顔してますね、何かあったんですか、おやっさん」
「何でもないんだが、あいつのことを思い出しちまってね」
 フリードリヒのちょっと疲れたような顔を覗きこんで、青年は微笑んだ。共通する思い出を持つ者同士の微笑みだった。
「ああ、アインですね。ノイン、ノインって俺のこと呼んでくれてましたね……。あの子には色々と助けてもらったし。今頃どこでどうしているんだろう」
「あいつのことだから、ラトキアにでもいて傭兵をやっていそうで怖いんだよ」
「そうだとしたら、そのうち世間をあっと言わせますよ。例えば、ラトキア救国の英雄、ティフィリス出身のアインデッド将軍……」
 ついつい話につりこまれて、フリードリヒは頷いた。
「そうかもな。救国の英雄アインデッドか……そうなったら国こそ違えどまさに名前どおりだな……って、おいおい、ばか言っちゃいけねえよ、ノイン。無事に生きてるかどうかも知れたもんじゃないのに」
「おやっさん、なんて事言うんです。アインは絶対に生きてますよ」
「まあ、あいつの悪運の強さはヤナスというよりはサライルに祝福を受けたとしか思えないからな」
「もし会えたとして、あの頃はただの水夫だった俺が、今では〈ブリュンヒルデ〉の艦長だなんて知ったら、びっくりするでしょうね」
 ノインは日に焼けて小麦色になった顔をほころばせた。
「だろうな。――さあ、出航だ!」
 フリードリヒは頭を上げて、甲板中に響き渡る大声で命じた。フリードリヒはまさか、その言葉が本当になるとは夢にも思っていなかった。それが判るのはまる一年が経ってからだった。

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