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 そして出発前夜。
 青騎士団団長ネフィ・ステラの屋敷を訪れた者がいた。訪問者はネフィに丁重に迎えられて彼の子息、マギード・ステラの部屋に案内された。はおっていたマントを脱いで小姓に渡してしまうと、それが女性であることはすぐにわかった。
 背はあまり高くないが、襟の大きく開いた菫色のドレスからすんなりと伸びた腕はなめらかで、ほっそりした首も白鳥を思わせる。腰まであって、上のほうを三つ編みしてまとめた髪は銀色で、瞳は明け方の空のような青色だった。肌は抜けるように白かったので、菫色のドレスに身を包んで、そうして暗い廊下に立っている彼女はまるでけむるようにはかなげに見えたのだった。
 ラトキア国内の貴族で、銀色の髪を持つものといえば大公家をおいてほかにいない。そして、たぐいまれな美貌を持って生まれるものも。たしかに、美しい娘というならば、国中探せばいくらでもいただろうが、これほどはかなく風が吹けば散るような美しさを持っているものも珍しかっただろう。
 父大公ツェペシュはペルジア人であったが、その血筋には自由国境地帯のセラード人の血が混じっている。その妻ユリア大公妃もまた、セラード人の血を引いていた。その微妙な混血が、ゼーア人の青い瞳とセラードの銀髪をもつこの美女を作り上げたのだと言われれば、誰もが納得したに違いない。それが、〈ラトキアのエウリア〉ドニヤザードだった。その姉姫〈ラトキアのロザリア〉エスハザードもまた銀髪と青紫の瞳を持ち、これまたタイプは違うが素晴らしい美女だった。末の姫シェハラザードも〈ラトキアのセラミス〉とあだ名される華やかな美少女であり、その故をもってラトキアの三公女を〈ゼーアの三輪の花〉と呼び習わすものも多い。
 そしてこれはまた、相手がたにとっては非常に噴飯物であったに違いないだろうが――対照的にこれでもかというほどの醜女ぞろいに生まれついてしまった不幸なペルジア三公女たちを《ゼーアの三大美女》と呼んで馬鹿にしているものすらいたのである。
「ドニヤザード様がおいでなさったぞ」
 ネフィはそれだけ言うと戻っていった。残されたドニヤザードは扉越しにかぼそい声でマギードに呼びかけた。
「マギード、お話がしたいのです。開けてください」
 細く扉が開けられ、暗い廊下にさっと光が差し込む。エトルリア系の黄色みを帯びた肌の、端正な顔が心配そうにのぞいた。
「ドニヤザード様……こんな夜中に……。大公閣下が心配なさいます。今夜はお帰りください。城までお送りいたしますゆえ」
 決して突き放すような言い方ではない。相手を気遣う優しさのある声だった。それはこの青年の性格そのものだった。ドニヤザードは白い手をもどかしそうにもみしぼりながら、おとなしくそこに立っていた。
「入れてくださいませ」
 ドニヤザードの声は震えていた。マギードは目を閉じた。目の前に彼女がいてもいなくても、それだけでドニヤザードのセルリアンブルーの瞳や輝く銀の髪が手に取るように思い描ける。そして細い肩を震わせて今にも泣きそうに瞳を見開いているのも。ほんの数秒の沈黙のあと、ドアが大きく開いて、マギードは主君の娘を招じ入れていた。
「どうぞ」
 マギードの家、ステラ家はもともとエトルリアの貴族だった。彼の父、ネフィは当時のラトキア伯ツェペシュの部下だった。そのために、マギードもまたエトルリア系の黒髪に、黄色みを帯びた肌を持っていた。男には美男の少ないエトルリア人であるが、マギードは容姿には恵まれており、美形揃いで名高い大公家の次女であるドニヤザードと並んでもおかしくはない容貌を持っている。
 ドニヤザードとマギードは同年の主君の娘と臣下の息子として親しく育ち、いつしか互いを愛するようになっていた。ツェペシュとネフィもそれを知って、今年の春に婚約が正式に整い、晴れて結婚できることになったのである。
 ドニヤザードは菫色のドレスをなびかせて、部屋の中にすべりこむように入ってきた。マギードに勧められるままクッションの上に座ってから、彼女は思い出したようにまた泣き出した。
「ドニヤザード様……どうなさったんですか」
 そっと肩に触れたマギードの手をドニヤザードはいくぶん公女らしからぬしぐさで振り払った。
「様など付けないでください。わたくしは貴方の妻になる女ですわ。どうしてそんなふうにわたくしを扱うのです? わたくしのことを愛してはくださらないのですか?」
「違います。……ドニヤザード……」
 マギードの苦しげな声を聞いて、彼女もやっと平常心を取り戻した。
「わたくし……ばかなことを申しましたわ」
「気になどしていません。ただ、僕も辛いのだということを判ってください。そして、いついかなるときでも僕は貴女だけを愛しているのだということを」
「忘れはいたしませんわ。でも、明日、行かれるのね。わたくしをおいて」
「僕も一応は青騎士ですから、行かないわけにはまいりません」
 マギードは困ったような微笑みを浮かべ、ドニヤザードと少し距離を置いて隣に腰を下ろした。
「無事に帰ってきてくださいね」
「ええ。必ず生きて戻ります。そうしたら、ディアナの神殿で式を挙げましょう」
 ドニヤザードの手をとり、マギードは唇を押し当てた。それがゼーアでは求婚を意味するしぐさだった。
「きっとですよ? わたくし、待っていますから」
 承諾した返答に、口付けされた手に自分も口付けして相手の胸に触れた。二人は微笑み合い、ドニヤザードは立ち上がると夜分に押しかけた失礼を詫びた。
「ご武運を、マギード。ナカーリアのご加護がありますように」
「ありがとう。貴女にもヤナスのご加護がありますように」
 マギードは馬車を用意させて、ドニヤザードを送らせた。
 この時はまだ二人とも、これが今生の別れだとは気づいていなかった。ただただ、いくさが終われば会えると信じていたのだった。
 そして、シャーム城では。
 騎士団団長の宿舎の一室に、こうこうと灯がともっていた。すでに他の団長は自宅に帰るか、明日に備えて眠ってしまっている。グリュンは散歩がてらそれを見かけて、そっと覗いてみた。そこには壮年の男が一人、机にゼーアの地図を広げて何やら考え事をしているようだった。
「精が出ますな、ハディース殿」
「おお、グリュン宰相」
 黒髪とややつり上がった黒い瞳、小麦色にやけた肌。白騎士団長ハディースは人当たりの良い微笑みを浮かべて振り返った。エトルリア人の特徴を全て持っているが、彼はラトキア人である。もとは傭兵であったのだが、その腕と知力を買われて白騎士五千を預かる団長にまで出世した。
 傭兵上がりであるが、彼はおのれの力ばかりをたのみにするような猛将タイプではなく、あれこれと策をめぐらせて勝つ方策を探る智将タイプである。そういった武官はラトキアには少なかったもので――大公であるツェペシュですら、智将とはいいかねたので――重宝される存在であった。
 もとより、ラトキア人は単純だと言われる。もちろんそれは、ぐねぐねと回りくどい物言いをしたり、陰謀をめぐらせたりするような他の中原国家からみれば、の話である。良いふうにとれば、歯に衣着せぬ、とか爽やかな、とさえ言えただろう。しかし何分尚武をもって誇りとする国柄であったから、それを野蛮と取られてしまっても致し方ないところであった。
「何をなさっておいでだね」
「ジェナ付近の地形を確認していたんです。あのあたりは一面が草原の丘陵地帯ですからね。伏兵などを隠しておくにちょうどいい場所や、野営に適している場所を今のうちに探しておこうと思いまして」
「何も貴殿がするほどのことでも」
「いやなに、それがしの趣味ですよ、宰相閣下。どうにもこのようなちまちましたことが大好きなので」
 ハディースは白い歯を見せて笑った。しかしこれも考えようによっては将軍自身がするようなことを下の騎士団長がやっている、というのはなかなかに危ういことであったかもしれない。
「それにしても、今日のシェハラザード姫はすごかったですなあ」
「ああ……謁見のときの」
 ハディースは地図を畳んで書棚に戻した。
「まさか大公閣下にあそこまで言い返すとは。さすが獅子公のご息女というだけのことはありますな。はは、シェハラザード様もいずれどこかへ嫁がれるだろうが、嫁にもらった男はどうなることやら。ユリア様ゆずりのお美しい姫だが、何分気性のほうはツェペシュ様ゆずりですからね」
「これ、ハディース殿」
 グリュンはしッ、と人差し指を唇に押し当てた。ハディースもしまったというように左右を見回してから笑いをひっこめた。
「今のはお見逃しを」
 ハディースは片手を挙げてグリュンを拝む真似をした。
「それはわしも心配していることなのだ。あまり言わないでくれ。まったく、胃が痛くなってしまうわい」
 グリュンはやれやれ、とため息をついた。ハディースが近くの戸棚からグラスを二人分と酒の瓶を取り出した。
「まあまあ、宰相閣下。あのとおりの姫様でも、将来ナーディル殿下が二代大公になられたとき、良き補佐になられるかもしれませぬゆえ」
 グラスにはちみつ酒をそそいで、差し出す。グリュンはそれをしばらく見つめていたが、やがて一気に干してしまった。ハディースのほうは本当は火酒が良かったのだが、はちみつが入っているのでしつこいくらい甘ったるいそれを味わうようにゆっくりとすすっている。
「明日ですよ、グリュン閣下」
「ああ」
「正直、不安なのですよ。私は三十年前はまだ子供でしたし、独立戦争のことはよく知らないのですが……あのころの主な武将のかたはアクティバル将軍とグリュン閣下以外、既に亡くなられていたり、引退なさったりしていて、今はそう……言っては失礼ですが、それがしも含めてあまりぱっとしないものですからね。これといって中原に名を馳せている武将というものがいない。だから、心配なのです」
「めったなことは……」
 グリュンは言いかけて、やめてしまった。確かにハディースの述懐は事実だったので、どう言い返したものかと詰まってしまったのだ。
「たしかにわがラトキアは尚武の国として知られていますが、クラインなら、かつてはサライ右府将軍、メビウスならアルマンド海軍大元帥、ペルジアにすらトティラ将軍がいます。各国それぞれ、誇る英雄というものがいるでしょう。しかしラトキアには……ツェペシュ閣下も獅子公と呼ばれてはいますが、我々武官にはそれほど有名なものもいないわけです。エトルリアでも、公子将軍などといって第一公子ランがのさばっていますからね。誰か一人ぐらい、そんな英雄がいてくれてもよさそうなものを」
「あまり貴殿が嘆かれることもあるまい、ハディース殿。一人ばかりが強かろうと、その軍自体には関係のないこと」
 燭台の火がふっと揺らめいた。

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