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     その日ラトキア公国は
     再度エトルリアの支配下に置かれることとなった。
     救国の英雄が現れるには
     十二の月が巡り終わるを待たねばならなかった。
                   ――ゼーア年代記




     第一楽章 ラトキア哀讃歌(一)




 大陸の東に位置するゼーア三大公国。
 その前身、もとであるゼーア帝国は暗黒時代の最大版図はクライン、メビウスまでも広がり、ほとんど中原すべてを手に入れたといっても過言ではない大帝国を築いた。しかし今は既にその過日の面影はなく、形骸化したゼーア皇家の血筋は老帝ウジャス三世一人によって辛うじて保たれ、皇帝の直轄領はペルジア公国の一部ゼーア皇帝領のみとなっている。
 かつてのゼーア帝国の領土はゼーア人からなるペルジア公国と、エルボスからの移民によって作られたエトルリア公国の二大公国に分かれ、三十年前にエトルリアのラトキア伯ツェペシュによってゼーア人の土地だったラトキアが分離独立し、今のゼーア三大公国体制が成立した。
 その新興国ラトキア公国は新大陸歴一五四三年、すなわち赤豹の年アティアの月二十七日に、建国三十周年を迎えた。首都シャームは建国記念日を祝い、賑わっていた。三大公国の中でも歴史の浅い国、武辺の国、田舎よ、とことさら低く見られるラトキア公国であるが、むしろ人々はみずから尚武の民であることを誇りにしていた。ことさらにそれを強調してみせるふしがあったのも事実である。
 あちこちで三十という数字にあやかった物が並べられ――たとえば三十という花文字を飾った樽だとか、三十本ずつまとめた花束といった――市の大通りではいつもよりたくさんのみやげ物や食べ物の屋台が立ち並んでいた。
 しかし――
 ――国境付近のエトルリア軍の気配がおかしい――
 エトルリア側の国境、アクラに兵が集められていると、国境警備を主任務とする黄騎士団からの報告である。この不穏な動きを気にしていたのは官僚ではたった一人しかいなかった。
 今年で齢六十一を数えるラトキア宰相グリュン。
(たかがエトルリアが国境に近づいただけで……)
(こんな時に攻め込むはずもないだろう)
(いくらなんでも、向こうだって礼節をわきまえた国だ)
 幸せなお祭騒ぎの最中で、人々は希望的観測も手伝って、そんな不安の種を押し隠してしまっていた。
 だが、気にしていたのは彼だけではなかった。
「じいや、エトルリアには油断できないわね。いくら相手も文明国を名乗るとはいえ、いったい何をしかけてくるものかわからないもの」
「ええ。仰せのとおりでございます。ちい姫様」
 グリュンは老いて小さくなった体をふかふかしたソファに沈めた。そうするのが彼は好きだった。そして今ではすっかり大人びてしまった《ちい姫様》とこういった議論をすることも彼の楽しみだった。
「ちい姫様はよしてよじいや。わたくしはもう子供ではないわ」
 ラトキアの第三公女、シェハラザードは苦笑した。大公家の特徴である、銀の雫のような髪の毛を桃色のリボンで結び、バイオレットの瞳は知的な輝きを放っている。たおやかな姉二人とは対照的に男勝りの彼女は、昼食の時間をグリュンから政治的な話を聞くことに費やしていた。
 父のツェペシュは彼女以外の娘が政治に立ち入ることをあまり望んでいない。いつか娘たちが他国に嫁いだとき、政治に関心があることを嫌って娘たちを婿に殺されてしまうのではといった親心がそこにある。
 しかしシェハラザードにとってそんなことはどうでもよかった。
 シェハラザードの上の二人の姉、二十一のエスハザードと二十のドニヤザードには似合いの年頃の王族はいない。同い年のメビウス皇子パリスはクラインの第一皇女ルクリーシアとこのたびめでたく華燭の典をあげ、これをもって中原で年頃の王子を持つ国はなくなってしまったのである。
 この時代、男児を持つ王家は少なかった。大国クラインもとうとう皇子には恵まれず二人の皇女がいるのみ。メビウスには皇子がいるものの一人だけ、同じような大国ジャニュアはすでに女王がたち、一粒種はユーリ王女である。沿海州の大国ティフィリスもとうとう世継ぎには恵まれず、国王の二人の弟も外交と悪魔退治にあけくれて婚期を逸したフリードリヒ王太子と、あとはかの有名なシルベウスの病もちであるルートヴィヒである。そしてペルジア公国には《三大ぶす》の異名をとる三公女、ラトキア公国には《三輪の花》三公女とその弟にして次期大公のナーディル。
 唯一、二人の公子と公弟にめぐまれたエトルリアも、結局はペルジアの美女たちを娶る気にもなれず、かといって宿敵ラトキアの公女たちを娶るわけにもいかず、クラインの皇女とメビウスの皇女にははなから断られ、結局は独身のままである。
 ともかくも、ラトキア公女で唯一王族で嫁ぎ先になりそうな相手がいるのはシェハラザードただ一人である。しかしその相手というのは弟のナーディルと同い年のダリア公子クルースであった。
「わたくしはあんな所に嫁ぐのはまっぴらごめんよ。たしかにダリアは重要な取引先だってこと、わたくしだって知ってはいますけど、年下の……ナーディルと同じ年の夫を持つなんて」
 シェハラザードはいつもその言葉で父大公を困らせている。
「姫様……。エトルリアの動き、どう思われますか」
 グリュンがシェハラザードの思考を途中で遮った。彼女はデザートのカディス果を丁寧に皮をむいてから口に含んだまま答えた。
「このラトキアをもう一度支配下に置きたいのかしら。だとしたら困りものね」
 カディス果を飲み込み、次に手を伸ばす。
「何としても護るわ。父上の興したこの国を」
 シェハラザードは十八にしてはませた意見を口にした。
(そう……たとえ昔支配していた国でも、ラトキアに手出しはさせない)
 グリュンは目を閉じた。三十年前の今日、彼らはエトルリアからの独立を手に入れた。それは今でも昨日のことのように鮮やかに蘇る思い出だった。
 ラトキア公国の三十回目の建国記念日は二人の懸念をよそに、華々しく過ぎていったのだった。大公をはじめ諸侯たちが事の重大さに気づいたのは、その日も暮れた夜になってからだった。
「エトルリア軍がジェナに近づいているだと!」
 獅子公との異名を取るラトキア大公ツェペシュは声を張り上げた。三大公の中でもいちばん若く、セラード人の血を引く銀髪からは老いを感じられないが、その秀でた額にはすでにくっきりと皺が刻まれている。
「はい。敵はジェナの自警隊およびジェナ黄騎士団と衝突中という事です」
 伝令は震える声で告げた。ツェペシュには怒り出すと手下のものに切りつけるという癖があった。そのために、彼は命を落とすかもしれないと身を硬くしていた。
「そうか……。きゃつらめ、もう一度ラトキアを支配しようというのか」
 静かな声だった。しかしその中にはもっと大きな怒りが隠されている。
「貴様ら、この事態に対し何も考えておらなんだか!」
 ツェペシュは諸侯らを一喝した。気にしていなかった彼らも、気にさせなかったツェペシュもどっちもどっちであるのだが、この際臣下の不手際ばかりが責められるのはいつの世も致し方ないところであった。
「恐れながら父上」
 ふいに、その場の沈黙を破るものがいた。シェハラザードだった。彼女はつかつかと大公の椅子に歩み寄ると、ひざまずきもせずに大公に向かった。
「何だシェハラザード。お前には何か意見があるのか」
 ツェペシュは呆れたような表情を見せた。このどこをどう間違えてこんな性格に育ってしまったのかと父や教育係を嘆かせる姫の突飛さにはすでに慣れていたのである。
「はい。父上はこの度のエトルリアの動きを見ていなかった諸侯の方々を責められますが、それは筋違いでございます」
 ツェペシュの眉が引きつった。
「何を申すか。こやつらが気をつけておらぬからこのようなことになったのだぞ」
 居並んだ諸侯たちは深くうなだれた。どうにも、言い返しようがないのは事実であったのだから。
「ですが父上。グリュンは父上にこの事を奏上いたしました。それを一笑に付したのは、父上でございます。たしかに諸侯らを責められるは当然でございますが、それより先にグリュンの上申を無視なさった父上がおおもとではございませぬか」
 シェハラザードは毅然と頭を上げ、父である大公を見据えた。
「む……」
 ツェペシュは唸った。確かにそのとおりだった。
「お前には負ける。たしかに、儂にも不行き届きがあった」
 深いため息とともにツェペシュは非を認めた。
「失礼を申しました」
 シェハラザードは一礼して席に戻った。いならぶお歴々から、ほっと安堵のため息が漏れて広間を満たした。ラトキア大公の怒りを真っ向から受け止め、言い返せるものといったらグリュンのほかにはシェハラザードぐらいしかいなかった。その点だけでも、彼女の勇気は賞賛に値するだろう。
 そんな賞賛が世継ぎの問題に発展するには長くはかからない。次期大公の公子ナーディルよりも第三公女の彼女を大公に、という声は前からあった。今、この重要な会議に出席を認められている大公の嫡子はナーディルとシェハラザードだけだった。しかしナーディルは末っ子ゆえか、次期大公であることにしがみついているだけの子供であった。父を恐れ、姉のシェハラザードのように振る舞うこともできなかった。
(ナーディルはわたくしを嫌っているでしょうね)
 シェハラザードは心の中でつぶやいた。十六歳であるのに、末っ子として、世継ぎの公子として大事に育てられた彼は、まだまだ子供っぽいところを残していた。まだほっそりとして少女のように可憐な顔立ちだが、それもあと二年もあればおいおいに姿を消し、立派な一人前の武人、ラトキア次期大公としてふさわしい青年になるだろう。
 何といっても獅子公の血を受け継いだ息子である。剣の腕もめきめき上達していて、十本中五本までは父から剣を取れるまでになっている。しかし今はまだ、子供っぽい嫉妬からシェハラザードを避けるようなふしがあった。シェハラザードは女らしい寛容さでそれを許していた。
「皆のもの、どうする」
 ツェペシュが沈黙を破った。
 将軍アクティバルが即座に答えた。
「追い返すべきです」
 他の者もそれに従った。戦いを、の声は次第に大きくなっていく。
「判った。ではエトルリアともう一度戦わねばなるまい」
 国の危機ではあるが、ツェペシュは溌剌としていた。戦いは彼のもっとも好きなものであった。
「エトルリア軍の様子はどうなのだ?」
「は……第一公子と第二公子が共に千龍隊、千虎隊、千狼隊約一万を引き連れている模様です」
「そうか。では赤騎士団、青騎士団、白騎士団は儂と共に奴らを迎え撃つ。黒騎士団はここに残り、首都の警備を行い公子たちを護ること。明日の朝出陣だ!」
 ツェペシュは大音声で命じた。一同がそれに和する。
 彼の血は熱くたぎっていた。久々の戦だったが、勝たねばならない。このラトキアはもう二度と他国の支配下などに置かれたりしない。それを見せ付けねばならないのだ。
 シェハラザードとナーディルは互いに顔を見合わせた。こういう時ナーディルは素直に姉を頼りにしてくれる。
「シェハル姉様、僕は出陣できないの?」
「そうね。父上に頼んでみたら。でもねナーディル、これは必ず勝てるような小競り合いとは全く違うし……あなたの初陣なら、もっと安全で確実な戦いにしたほうがいいでしょう。それに、今の時期に大公と次期大公が同時に首都を離れてしまったら、その間誰が政治をとるのか考えて御覧なさい」
 ナーディルは少し黙ったあとで、わかったというように首を縦に振った。
「姉様の言うとおりだ。僕はシャームで父上の留守を預かるよ」
「そうすべきだわ」
 シェハラザードは頷いた。シェハラザードはこんな時、ナーディルが大公になったとき、補佐しなければならないのは自分だと強く感じるのだった。

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