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 次の日、アインデッドはいつになく緊張していた。言葉にはしていなかったが、張り詰めて切れそうな糸のような雰囲気が彼を包んでいたので、アルドゥインはできるだけ明るい声を出した。
「アイン、あんまり緊張するなよ。俺がついてるだろ」
 振り返ったアインデッドは、傭兵斡旋所に行った日の朝に見せたのと同じ、頼りなげな表情を浮かべていた。
「俺、絶対すげえ情けねえ顔してる」
 実際その通りであったが、茶化す気にもなれなかった。そうするにはアインデッドが少々深刻すぎたのだ。枕に顔を埋めて、アインデッドは呟いた。
「あああ、隊長に言いに行った時より緊張してる」
「魚が欲しけりゃ海に飛び込めって言うだろ。いいかげんにしないと遅刻するぞ」
 アルドゥインの最終通達に、アインデッドはやっと体を起こした。気合を入れるように、彼は両手で頬をぴしゃんと叩いた。遅刻をして事態を悪化させても仕方がないと判っていたので、アインデッドはそれ以上愚痴を言うのをやめて階下に降りていった。
 今日の当番はアティアの刻からネプティアの刻までだったが、交代式の時間まで一度もジャンを見かけていなかった。アルドゥインの当番も同じ時間になっていたので、二人は一緒に宿舎を出て、太后宮前に行った。
 交代式を待つ警備兵たちの視線を一身に受けながら、アインデッドは少し肩身を狭そうにしていた。それでもきっぱりと顔を上げて立っていた。ジャンとトゥイユは宿舎ではなく、市内に自宅があるのでそこから通っている。そのため彼らよりも少し遅れて来た。
「おはよう、アルドゥイン」
「おはようございます、トゥイユさん」
 アルドゥインが挨拶を返すと、トゥイユは不思議そうな顔をしてアインデッドの髪を見た。隣のジャンはというと、挨拶すら忘れたようで、呆然といった感じであった。アインデッドも、見るからに強張った表情をしていた。
「……おはよう」
 やっとジャンはそれだけを言った。
「おはようございます」
 ジャンはますます怪訝そうに眉をしかめて、きっちりと束ねて後ろに垂らされているアインデッドの髪をしげしげと見つめた。だがそれ以上は何も言わずに、列に並んだ。交代式が済み、皆がそれぞれの持ち場に向かう途中、ジャンがまた口を開いた。
「傷はもういいのか」
「はい。腕はまだ少し不自由ですが」
「そうか。災難だったな。この警備隊も上が代わったので少しごたごたしていた」
 それから、どういう話題を出したらよいのか判らなくなったように、ジャンはまた口を閉ざした。今日彼らが巡回するのは宮殿の裏側であった。詰所に入っても二人はどちらも沈黙を破れないままであった。
「……その髪は」
 ジャンが怪訝な顔をしてアインデッドを見上げた。
「染めたのか」
「いいえ、染めていたのを落としました」
 次の言葉までにはゆうに十秒(ジン)はあった。
「ということは、もともと赤毛だったということか」
「そうです」
 アインデッドの答えに、ジャンはどう言ったものかと考えたようで、髭をつまみながらしばらく黙り込んでしまった。アインデッドは全てを打ち明けるつもりでいたので、ちょっと深呼吸をしてから口を開いた。
「今まで黙っていてすみません」
「………」
「俺は、ティフィリスで生まれ育ちました。母親は……アルが言うにはジャニュア人じゃないかってことですが判りません。でも、父親はティフィリス人です。だから髪はもとからこの色です」
 言いおえると、また沈黙が襲ってきた。太后宮の方から人の声が流れてくるが、それでも静かなものだった。
「アインデッド」
 ジャンの声に、アインデッドはびくっとした。平静を装ってはいたが、内心では本当に緊張していたのだ。予想に反して、ジャンは頬のかたすみに微笑みを浮かべてアインデッドを見ていた。
「お前が何人だろうと私はかまわないぞ。お前は、良い奴だ。それにそうして全てを打ち明けたというのは、私を信頼してくれたということだろう。私は騎士だ。信頼を裏切るような真似はしない」
 アインデッドはがらにもなく目頭が熱くなるのを感じて、うつむいてしまった。
「……ありがとうございます」
 こんな姿だけは絶対に、アルドゥインたちには見せられないと思いながら、アインデッドはしばらくそうして俯いていた。ジャンは鷹揚にそれを見守っていた。
「それはそうと、王女殿下をお助けもうしあげたそうだな。それが原因で今回の災難に遭ったというのは皮肉だが」
 もう話が広まってしまっているのかと、アインデッドは驚いた。
「ええ……そうですね」
「やはりお前は良い男だ。私はお前の国が少し好きになった」
 ジャンは顔中で笑った。ユーリにも同じような事を言われたのだったと思い出した時、アインデッドはとうとう涙を抑える努力を諦めた。本来感情を抑え込むのには長けていなかったし、どちらかというと激しやすい質だったのだ。
「俺も、ジャニュアが好きです」
 二人は顔を見合わせて笑み合った。アインデッドの目に少し涙が浮かんでいるのを、ジャンは見て見ぬふりをした。そういう時の涙は恥ずべきものでもなければ隠さなければならないものでもなかったが、やはり照れくさいものだったからだ。
 あるじを失ったセシュス伯爵邸ではこの所人の出入りもほとんどなく、使用人もいつのまにか辞めていってしまう者が後を絶たなかった。だもので、すっかり寂れたようになってしまっていた。
 カヴェドネのサンルームでは、そんな人間たちの動きもさて知らず、花たちが鮮やかに咲き誇っていた。何があろうともカヴェドネは花の手入れを欠かすことをしなかった。そば仕えの者たちの予想に反して彼女は兄の投獄を知っても取り乱したり寝込むこともなく、ただ淡々と日々を過ごしていた。その意味では、もしかしたら兄よりも彼女の方が苛烈な性格であったのかもしれなかった。
「カヴェドネ様、王城からの使者が参っておられます。お通しして宜しいでしょうか?」
「そうしていただいて」
 体が弱く、寝たきりの彼女が客の所に出向くということは滅多にない。使者も彼女が病弱であることを熟知していたので、それをことさら無礼だとか騒ぐことはなかった。侍女がその伝言を持って下がると、カヴェドネは車椅子を動かして、寝椅子に戻った。
「アト、アーフェル水をちょうだい。使者の方にはカーファ茶を」
「かしこまりました」
 もう覚えてしまった配分で手早くカヴェドネの好みのアーフェル水を作り、差し出してからカーファ茶の粉を挽く。たちまち、花の香りの中に香ばしい薫りが混じりはじめた。カーファ茶を入れるには少々時間がかかるので、まだ半分も入っていないところで使者がサンルームに案内されてきた。
 中年男性の使者は、この花だらけで色彩に溢れた部屋に一瞬気圧されたようだったが、すぐに態勢を戻した。寝椅子に横たわって、クッションで上体を持ち上げたカヴェドネは、首だけを少し曲げて会釈をした。
「お役目ご苦労さまにございます。このような姿での無礼をお詫びいたします。そこにおかけになってください」
「いえ、姫のお体のことはそれがしも存じておりますれば、さようなお気遣いは無用。……どうも」
 最後の言葉はカーファ茶を出したアトに、座りながらかけられたものだった。茶を出してしまうと、アトはさっさと後ろに下がって、自分は人形だとでもいうような顔をして扉の横に立った。
「して、どのような御用向きで? 兄のことでしょうか」
「いいえ、本日は女王陛下からカヴェドネ姫への任命書を持ってまいりました」
 カヴェドネは目を一回大きく瞬かせた。
「任命……?」
「かの事件によりソルトワ殿の伯爵位を剥奪されたことにつき、妹であらせられるカヴェドネ姫に新たに女伯爵の位を授与する旨の書状でございます。これにございます。お確かめください」
 手渡された書状をざっと見て、もういちど今度は一文字一文字確かめるように読んで、やっとカヴェドネはこれが現実であるということを確認した。何事にもほとんど動揺を見せなかった彼女だが、書状を持つ手がかすかに震えているのをアトは見た。
「私が、兄に代わりセシュス伯爵を名乗ると……?」
 興奮したためかカヴェドネは急に咳き込んで、それが鎮まるとアーフェル水を一口のどに流し込んだ。
「ですが、兄は反逆にもひとしい罪を犯した咎人、その親族である私たちは、お咎めこそあれそのような……」
「女王陛下は、ソルトワ殿の罪はソルトワ殿一人のもの、姫や母御らには罪はなく、同じく被害者のようなものであり、これまでと変わらぬよう遇する、と仰っておいででございます」
「陛下にマナ・サーラの恵みが十重二十重にあらんことを!」
 カヴェドネはかすれた声でつぶやいた。祈るように目を伏せてから、使者に消え入るような微笑みを投げかけた。
「謹んでお受けいたします」
 使者は貴婦人への礼をとってから立ち上がり、退出した。ナカルからの書状を胸に抱きしめて、カヴェドネは誰に言うでもない独り言を言った。
「なんと寛大な処置なんでしょう……。アト、車椅子を持ってきて」
「はい」
 籐製の車椅子に戻って、カヴェドネは隣の自室まで押させていった。書き物机にその書状を宝物をしまうようにしまいこむと、また深いため息のような息をついた。
「私はこれから頑張らなくてはならないわね。陛下とユーリ殿下にこの恩をお返ししなければ。ともあれこの体でできることも限られているでしょうけれど……少しずつ、外に出ることにも慣れるようにするわ」
 ひとり言のようだったので、アトは答えたものかどうかと考えたが、相槌を打つことにした。
「カヴェドネ様はきっと良い伯爵になられます。こんなに美しい花を咲かせられるのですもの。人というのも同じです」
「ありがとう」
 カヴェドネは薄く微笑んだ。彼女が女伯爵を授与されたというのはその日のうちに邸内全てに知れ渡った。場合が場合だったので、盛大に浮かれて騒ぐというようなこともなく、普段と変わらぬ夜だったが、やはり皆どこか幸せそうになっていたのは事実だった。
 《伯爵護衛団》という名前の護衛団はそのまま存続することになったし、辞めてしまったらどこに勤めようかと思案していた者たちにとってこの知らせは、まさに天からの助けであった。
「これからはカヴェドネ姫の護衛団か」
「姫の護衛っていうなら、いかにも護衛って感じだね。僕らよりはハルマー女史のほうがぴったりだけど」
 ルーイは自分で言って自分で笑った。サライもつられて笑った。もともとほとんどが名目だけのようなものだったが、しかし役職がなくならずに済んだので、護衛団員たちはここ最近の重いムードをやっと一掃することができた。夕方の練兵が今までで一番力が入っていたのは言うまでもなかった。
「ソルトワ様がああいうことになったのはショックだったけど、カヴェドネ様が新しい伯爵になるっていうのは悪くないな。優しい姫君だし、守り甲斐があるし」
「何を言ってるんだよ、ルーイ」
「サライは硬いなあ。こういう時なんだし、少しくらい本音を言ったっていいじゃないか。もう辞めようかと思ってたんだから」
「君も?」
 サライはびっくりした。
「ちょっとだけだよ。団長と副団長には内緒にしといてくれよ」
 ルーイは人差し指を立てて、ウインクして見せた。ユジェーヌとアランが、このところばたばたと辞めていく団員に腹を立てたり嘆いたりしていたのはサライでなくても誰だって知っていることだった。もしそんな話がどちらかに知れたら、どれほど怒るかは目に見えていた。
「もちろん。実を言うと私もなんだ」
「なーんだ」
 ルーイはサライの肩を親しみを込めて叩いた。その日の午後にアインデッドが訪れて、ジャンが自分を良い奴だと言ってくれたこと、ティフィリスが好きになったと言ってくれたことを嬉しそうに話しにきていた。子供のように手放しで喜ぶアインデッドに、サライまで不思議に嬉しくなった。
 そこで彼は初めて、ジャンの態度如何でアインデッドとアルドゥインがジャニュアを出立することを決めていたと知らされた。自分には内緒にしていたことを最初は怒りもしたし、仲間はずれにされたような気もしたが、今となってはそれも笑って許せた。それぞれに滞在の理由ができたのだから。
(エレミルの月までは、ジャニュアにいられるってことだな)
 サライは、自分を同等に扱ってくれる仲間がいること、自分の居場所があるというのが、こんなにも心地のいいことだと久しく知らなかったような気がした。
(私は多分、この十一年間で一番幸せなんだ)
「サライ、どうかしたのか?」
 ちょっと押し黙ってしまったサライに、ルーイが心配そうに尋ねた。サライは照れもせずに答えた。それはルーイだけに向けられたものではなく、世界に向かって向けられた心からの言葉だった。
「私は幸せだな、って、思っていたんだ」



「Chronicle Rhapsody5 マナ・サーラの涙」 完


楽曲解説
「アルマンド」……「ドイツ風の」の意味。組曲の冒頭に置かれることが多い。緩やかなテンポ。
「諧謔曲」……スケルツォ。バロック時代では軽い娯楽的な声楽曲を意味する。
「オード」……頌歌。特定の人物や物に寄せた調子の高い抒情詩。実は曲ではない。
「奏鳴曲」……ソナタ。対照的な気分、調の章からなる楽曲。


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