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                                 *



 憲兵所での事情聴取は三人まとめて行われ、大した時間もかからなかった。友人を早く助けたかったのだという理由に情状の酌量があったし、エコンヤに呼ばれて来たクロタールが、彼らが間違いなくアインデッドの友人たちだということを認めたので、セシュスの部下ではないかという疑いもすぐに晴れた。
 ただ、憲兵に報告をせずに自分たちだけで地下牢に入っていったことに関して、厳重な注意を受けただけにとどまった。アルドゥインに関しては、アインデッドとともにセシュス伯爵のユーリ王女拉致未遂に関わっていたので、サライとアトがもう行ってもよろしい、と告げられてからもその場に残っていた。
 この建物の一室で事件の証人であり、被害者でもあるアインデッドは治療を受け、寝かされていた。まだ意識は戻っていなかったので、サライは面会するのを差し控えた。それで、廊下に置かれた椅子に座って、意識が戻るのを待つことにした。
 アインデッドは、夢を見ていた。
 それは彼自身も忘れていた遠い昔の夢だった。
 ティフィリス市、ゼフィール港。波の音と、海の色。海を溶かしたような、何処までも高く青い空。優しい潮風。幼いころからアインデッドは夜明けの海が好きだった。それは彼の母が好きだったからだ。気が向くと、母は彼の手を引いて波止場を歩いたものだった。
(アインデッド)
 今はもう思い出の中にしか残っていない、淡い茶褐色の髪の、美しく若い女が彼を見下ろしていた。その瞳は彼と同じ深い緑色、顔も生き写しと見えるほど似ていた。彼女が、彼の母親だった。
 あんなにも早く別れなければならなかったと知っていたなら、もっとたくさん、何もかもを覚えておけばよかったとアインデッドは思った。その手の温かさも、柔らかさも、優しさも言葉も全てを。
(いいこと、アイン。いつでも誇りを忘れてはいけないわ。どんな時でも、あなたはお母さまとお父さまの息子なのだから)
 彼の母親――ルネはゆっくりといとおしそうに彼の髪を撫でた。それは遠い昔のことだったのに、まるで今ここに母親がいて、彼の髪をそうして撫でてくれているかのような錯覚を覚えた。
 場面がぼんやりと薄れてゆき、最後に残っている母の思い出が蘇ってきた。それは十九年前の冬のことだった。いつになく寒かった冬のこと。あの日はたしか、雪が降っていたはずだった。彼ら親子が住んでいた酒場の屋根裏部屋で、雪が窓に叩きつける音が小さく聞こえていた。
 ルネはやつれてはいたが美しさは少しも衰えることはなかった。あの時、まだ彼女はたった二十三の若さであった。熱のために火のように火照った手を握り締めて、アインデッドは母の顔を見上げていた。
(アインデッド……お父さまを恨んではいけませんよ。お父さまが私たちを捨てたのでは……ないの。お母さまが、お父さまを一人残して置き去りにしてしまった。あなたを道連れにするべきではなかったわ……)
(お母さま、なに?)
(あなたはいつか、自分の運命に気づくでしょう。……そのとき、お母さまを、お父さまを恨むかもしれない。けれどもこれだけは覚えていて。あなたは……愛されて生まれてきたのよ……)
 荒くなってゆく息の下、ルネは絞り出すような声で言った。
(アイン……アインデッド。あなたは私の《唯一の運命(アインデッド)》だった)
 力なく咳き込んで、ルネはアインデッドを見つめた。熱に潤んだ瞳から、涙がひとすじ滴り落ちた。
(愛しているわアイン、愛しているわ、私のフリート……)
 それきり、彼女の呼吸は静かになった。赤らんでいた頬がだんだんと冷えて、青白くなっていくのをアインデッドはじっと見ていた。それが、彼が初めて目の当たりにした人の死だった。
「お母さま……」
 自分自身の呟きで、アインデッドは目を覚ました。そして、自分が寝ている場所が地下牢ではないということに気づいた。
(助けられたってことか……それにしても)
 懐かしい夢を見たものだった。母親の最期の言葉など、自分自身ではすっかり忘れたと思っていた。
(ここは何処だろう)
 起き上がろうとして腕を動かそうとした瞬間、貫くような痛みが走った。
「つッ……!」
 その痛みに呼び起こされたかのように、全身の傷が痛み出した。自分が拷問にかけられていたのだということを、アインデッドは今頃になって思い出した。今回は本格的に気を失ってしまったのだ。
(そうだ、確か変なふうに腕を捻じられたんだ。そのうえ吊るされてたから、関節がイカレちまってんだ。くそっ)
 声を上げたのが外にも聞こえていたらしく、ぱたぱたと足音がして、扉が開いた。どうやら入ってきたのは医者らしかった。アインデッドに近づいて、乱れてしまった掛け布を直した。
「目が覚めましたか。腕をあまり動かしてはいけませんよ。関節が外れる一歩手前だったんですから」
「俺はどうなったんです。ここは何処ですか」
 アインデッドはとりあえずのところの疑問を口にした。
「ここは憲兵所の中です。それより、傷は痛みますか」
 医者は簡単に答えた。その答えで、セシュスが逮捕されて、自分は助けられたのだろうということが飲み込めた。
「じっとしている分にはそう痛くはないです」
「なら薬はいいですな」
 ほっとしたように医者が言って、部屋を出ていった。だが、またすぐに扉が開いた。今度入ってきたのは心配顔のサライと、何とも言えないような表情のアトとアルドゥインだった。
「よかった、目が覚めたんだね」
「ひどい目に遭いましたね、アインデッドさん」
「お前、俺たちに感謝しやがれよ。助けてやったのは俺たちなんだからな」
 それぞれ違うことを言いながら三人は寝台のわきに来た。包帯だらけでベッドに寝かされていて弱々しい感じのアインデッドは、いつもの彼に慣れていた彼らにとって、何だか調子が狂うものだった。それでも元通り髪が赤かったので、特徴的な面では違和感を感じなかった。
「お前らが助けにきたのかよ」
 アインデッドは事態がどういう展開をみせていたのか、みせているのか全く判らないといった様子であった。急展開があったときに閉じ込められ、気を失っていたのだからそれは当然であった。
「まあ、いろいろ面倒なことがあったんだよ」
 サライが言い、かいつまんで説明をした。アインデッドは神妙な顔でそれを聞いていた。三人が憲兵よりも先に地下牢に乗り込んで彼を助けたのだと知ったとき、彼の顔はいやに困ったような表情を浮かべた。
「ああそうだ、これを返しておくぜ」
「?」
 アインデッドは目をしばたたかせたが、アルドゥインがかくしから例のペンダントを取り出したのを見て、あっと小さい声を上げた。持たせておくわけにもいかなかったので、彼の頭をちょっと持ち上げて、かけてやった。それから何を言うのかと見ていたら、アインデッドは恥ずかしそうに呟いた。
「……ありがとうな」
 三人が驚いたことに、アインデッドは素直に礼を言ったのだった。アルドゥインが彼を横抱きにして運んだと教えられたら、また違った反応をしていたかもしれなかった。しかし彼に素直に礼を言われるというのは非常に気分がよかったので、このことはしばらく黙っておこうとアルドゥインは決めた。
「でも、俺がティフィリス人だってことはこれで関係者全員が知っちまったわけだな。髪の色も落ちちまったし」
「大した騒ぎにはなってねえから、安心しな。なんてったってお前は被害者だし、ユーリ姫の恩人なんだから」
 アルドゥインの言葉に、アインデッドは小さく頷いた。それから、太后宮警備のほうはどうなっている、と尋ねた。
「お前がティフィリス人だってことは伝えてねえけど、セシュス伯爵の事件に巻き込まれて怪我をしたから当分出仕できないってことは伝えてある。籍もまだ置かれているから。どのみち動けるようになったら裁判で証言しねえとならないんだから、追い出されるようなことはねえよ」
「それから、女王陛下がユーリ姫の礼を言いたいって仰ってたよ」
 サライが言い添えた。
 言わなければならないことは全て言ったし、アインデッドにはこれ以上尋ねることはないようだったので、三人は部屋を出た。何しろ彼は拉致されてからほとんどの時間拷問にさらされていて、両肩を脱臼寸前になるまでねじられていたのだから、休ませてやるのが先決であった。
「お前ら、これからどうするんだ?」
 アルドゥインはサライとアトに尋ねた。
「とりあえず屋敷に戻るよ。護衛団が解散したわけでは無いし、セシュス伯爵の処分が決まるまでは動けないからね」
「私も、カヴェドネ姫付ですから、戻ります」
「そっか。じゃあまたな」
 彼は納得したように頷いた。憲兵所の玄関で、三人はそれぞれの方向に別れた。彼らが帰ってしまい、日も落ちた頃、カトレアヌとメリディーヌに付き添われたユーリがアインデッドにあてられた部屋を訪れた。
「ここで待っていて頂戴。二人で話をしたいのです」
 ユーリは侍女たちを廊下で待たせて、部屋に入った。アインデッドはちょうど起きていて、彼女が入ってくるのを見て目を丸くした。
「ユーリ……王女」
「申し訳ありません、アインデッドさま。わたくしのためにこのようなむごい目に遭われたと聞き及びまして、一言お詫びをと思いこうして参りました」
 ユーリはドレスをちょっとつまんで頭を下げた。それにはアインデッドも慌てた。一国の王女に頭を下げられて、当惑したのだ。起き上がろうかとも思ったのだが、腕は動かせず腹筋で起き上がるのも傷のせいで不可能だったので、彼はぼそぼそと寝たままであることへの謝罪を口にした。
 その事に対して、ユーリは何も言わなかった。
「わたくしのことを、さぞお怒りでしょうね」
「そんなことは――大体、セシュス伯爵が勝手に俺たちを逆恨みしてたわけだろう。今度の事件は。それより、王女様を立たせたままっていうのは何だろ、そこに椅子があったと思うが……」
 ユーリは涙で潤ませた悲しそうな目でアインデッドを見て、それからわきの椅子に腰掛けた。彼女がこの事にたいへん心を痛めているというのがアインデッドにも判った。何を言って慰めようかと、アインデッドは考えた。しかし、ユーリのほうから別の話題を持ち出してきた。
「アインデッドさまは、ティフィリス人なのですね。母から聞きました。それに、もとの髪は赤いのですね」
 この質問にはちょっと戸惑った。しかし彼をまっすぐに見つめるユーリの目には嫌悪の色はなかった。それに、今更嘘はつけなかったので、彼は曖昧に頷くような素振りをして答えた。
「ああ……混血だから、目は緑だけど……染めていた。だますつもりはなかったんだ」
「それは、わたくしにも判ります。ここはジャニュアですから」
 ユーリはちょっと首を振った。
「アインデッドさま、貴方とわたくしはどこか似ていませんか?」
「え?」
 この幼い王女が何を言いたいのか判らなくて、アインデッドは眉を寄せた。首を傾げたりといった動きができなかったのだ。
「わたくしはジャニュア人であってそうではなく、貴方はティフィリス人であってそうではない。ジャニュアにいては、わたくしはクラインの血の混じった王女……クラインではジャニュアの血の混じった王女。ジャニュアとクライン。そのどちらにも、わたくしはなれない。わたくしたちはどちらつかずの哀しい存在なのです」
 寂しげに笑った顔に、アインデッドは目を奪われた。それは十四歳らしからぬ笑いだった。今まで見てきた頼りなげで危うい少女の表情ではなかった。
「どちらつかずというわけでは……ないと思うよ。ユーリ姫」
 アインデッドはおもむろに口を開いた。
「……セルシャのラティン将軍っていう人、知ってるか? あの人はティフィリス人なんだが、ずっと若いころセルシャに移って、ローベルト王に剣を捧げたんだ。生まれ育った国はティフィリスでも、彼はもう、一人のセルシャ人だよ。そういうふうに、なろうと思えば俺たちは何にでもなれるんだ。たとえその国の人間でなかったとしても」
「……」
 ユーリはしばらく黙りこくっていた。やがて、その唇が笑みを浮かべた。
「アインデッドさまの仰るとおりですわね」
 やっと屈託なく笑ってくれたので、アインデッドはほっとした。何しろ、彼女に対して抱いていた、妹のような、守ってやりたいような感情は相変わらずだったから。
「早く良くなって下さい。それに……ジャニュアを嫌いにならないでください。ほんとうはとてもいい国なのです」
「ああ、判ってるよ。みんないい人ばかりだ」
 ユーリは立ち上がり、もう一度ちょっと会釈をして部屋を出ていった。

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