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     ああリナイスよ
     夜を統べし天の女王よ
     その蒼白き光もて
     我が心を照らせよ
     君が優しき光もて
     我が道を照らせよ
        ――オルフェ詩篇より
              「月の讃歌」




    第三楽章 月の姫によせるオード




 ナカルは執務室に戻り、ほっとため息をついた。
(ほんとうに、あれでよかったのだろうか……)
 そんな思いが胸をよぎる。二十四年前に、そして十年前に失われたと思われていたジャニュア王家の傍系。その最後の生き残りがあろうことかティフィリスの血を引いているという事など、ナカルは認めたくなかった。
(ユーリのことさえなければ、喜んで迎えられたかもしれないけれども。今のこの状態では認めないほうが我が王家にとってはいい)
 まるで頭痛を起こしたように、彼女は額を押さえた。そこには略式冠の緑玉が輝いている。その緑玉はナカルが生まれたとき彼女に与えられた《マナ・サーラの涙》であり、女王となったとき冠に付け替えられたものである。ユーリは王女の慣例としてペンダントにした《マナ・サーラの涙》を所有している。だから、リューンのものを受け継いだアインデッドがペンダントをそのまま所有しているのは当然のことだった。
(リューン、なぜ、ティフィリスにいたの。教えて頂戴。どうしてティフィリスでなければならなかったの。どうして、戻ってこられなかったの……)
 答える者のない問いを、ナカルは心の中に繰り返した。しかし心のどこかでは納得し、従姉の運命を憐れんでもいた。傍系とはいえ王女として育てられ、一人で生き抜く術など知らぬリューンは、何もかも失ったとき成す術を知らなかったはずだ。
(リューンはあれほど美しかったのだもの。助けた船の誰かが、妻にと望んだのだわ。断ることなどリューンにはできなかったでしょう……可哀相なリューン。エルボスへの縁談も自ら望んだことではなかったけれど、ティフィリスでは幸せだったのかしら)
 今となってはすべてが判らないことばかりだった。
(リューンは何も悪くなどない。彼女の人生と私の人生は二十四年前のあの日に切れてしまったのだから。罪を犯したのは私であり、報いを受けなければならないのも私一人。なのに私の罪が、こんな所でユーリの人生に影を落としてしまうなんて)
 いったい、何故、ジャニュアもティフィリスも、たった一度だけ開かれた戦端を百年以上も引きずりつづけたのだろうか。修復していくにも深すぎる断裂を残し、誰が何の得をしたというのだろう。
(あれは、私の――私だけの罪。罪ゆえに一生隠し通さねばならない秘密。ユーリには何の罪も無いこと。だからこそ私は守らなくてはならない。この秘密とユーリ自身を。私が死ぬまで)
 十五年前、セルシャの使節にティフィリス人の将軍――マナ・サーリア・ラティンが含まれていたことから、拒否しようという声が上がっていた。それを、過去のことに拘泥しすぎるのは愚かしいことだとして一蹴し、受け入れることに決めたのは彼女の夫ティイだった。母妃がクラインの皇女であったためだろう。生まれも育ちもジャニュアではあったが、彼の考え方はジャニュア人とは大きく違うところもあった。
 それがナカルには新鮮だったし、また尊敬し、女王となってからもその考えを引き継いでいる。だがあの時、ティイはその決断が自らの予期せぬところで裏切りを生むとは思っていなかったに違いない。
(私は、マナ・サーリア将軍を一目で愛してしまった。ティイのことも愛している。でも、マナ・サーリアへの思いはそれとは違う――)
 それは、ナカルが生まれて初めて経験した、一生に一度の激しい恋だった。使節が逗留していたたった二週間の間に燃え上がり、そして出会いから十五年が経った今も、それは変わらず彼女の胸を焦がし続ける業火だった。
「陛下」
 その声で、ナカルの物思いは破られた。無意識に睨むような顔をしていたのだろう。憲兵隊長のエコンヤが、少々当惑気味にその視線を受け止めた。
「何です」
「ソルトワ・セシュス伯爵に対する逮捕状、整いましてございます。陛下の署名を頂きたく参りました」
 書き物机の上に置かれた書状の内容を確かめ、ナカルは迷うことなく署名をしたためた。インクを早く乾かすための砂を振り、砂が充分に残ったインクを吸ったと思われるところで壺に落とし込んでエコンヤに渡した。
「執行は本日ただいまからで宜しいでしょうか」
「セシュス伯爵に捕らえられている太后宮警備兵の命がかかっています。早急にとりかかること。また、やむを得ぬ場合以外にはことを荒立てぬように」
「かしこまりました」
 さっと敬礼を返して、エコンヤは長靴の音を響かせながら去っていった。それを見送り、ナカルは今日何度目になるか判らないため息をひとつした。そしてふと、従姉の息子を一目見てみたいという思いが生まれた。
(ユーリを救ってくれたのだから、無事彼が救出されたなら呼び出して礼を言わなければならないわ。どちらにしろその時に会うことができる)
 アインデッドにしろアルドゥインにしろ、ユーリがジャニュアの王女だとか、おのれの従妹だと知って助けたわけではなかっただろう。襲ったのが伯爵という身分にあるものだとも思っていなかったに違いない。それでこんな災難に巻き込まれてしまったのは、不運としか言いようがなかった。
 ともあれ、これでセシュス伯爵が逮捕され、アインデッドが救出されれば、それに続く裁判や処分はともかく、事件は一応の決着を見るだろう。
(今後同じようなことがまた起こらないとも限らないことだし、ユーリには早く国内外の貴族から相手を見つけて、決めてやらなければならないわ)
 ナカルはもう、最終報告が届くまでこのことを考えるのはやめることにした。
 一方サライとアルドゥインは、腹に収めるだけ収めたといった感じで昼食を済ませ、セシュス伯爵邸に向かった。裏門から邸内に入ったとたん、庭にいたユジェーヌに見つかってしまった。彼はアルドゥインが隣にいるのも構わずに開口一番サライを怒鳴りつけた。そんなことができる人間がいるとは思っていなかったアルドゥインは、これには相当びっくりした。
「サライ! 時間内に戻ってこないばかりか今頃戻ってくるとは一体どういうつもりだ。この仕事にやる気が無いなら即刻辞めてもらうぞ!」
「申し訳ありません、団長」
 サライは言い訳もせずに素直に謝った。サライを怒鳴る男だとか、人に謝るサライだとか、初めて見るものばかりで、アルドゥインは今彼らが置かれている状況もつい忘れて少少感心してしまった。言い訳しなかったのが効いたのか、ユジェーヌは一回怒鳴っただけで後は随分落ち着いた様子になった。
「いいか、今後こういうことがあったら理由の如何に関わらず辞めさせるからな。その事をしっかりと肝に銘じておけ」
「はい」
 ユジェーヌが行ってしまってから、サライはちょっと肩を落としてアルドゥインを振り返った。
「お前のとこの団長、すげえ人物だと俺は見たぞ」
「確かにね。行こう」
 サライは気の無い様子で答えた。アトがいるのは西の対だったので、そちらに向かった。おそらくアトはカヴェドネのそばにいるはずで、カヴェドネが一日の大半を過ごしている硝子張りの部屋は表側にあったので、そこに行くためには邸内を通るか庭をぐるりと廻らなければならなかった。
 邸内でアトと会う可能性があるので二人は邸内を通ることにした。裏口から入り、入り組んだ廊下を進みはじめた時だった。
「そこの二人、一体何をしているんです? あら、あなたは護衛団の人ね。その隣の男は誰です?」
 けんのある声が二人の足を止めさせた。嫌な予感がして振り向くと、果してそこには使用人頭のハルマーの姿があった。直接会ったことはないが、短いここでの生活の中でサライはその噂はたくさん聞いていた。いわく勤続三十年の大ベテランであり、この屋敷の影の実力者、伯爵ですら頭が上がらないことがある――などなどである。
 今彼女は不審な侵入者を見るような目で二人を見ていた。伯爵の母と妹姫の住むこの西の対に、必要以上の男性が立ち入ることはほとんどない。というよりは入らないようにハルマーが厳しく目を光らせているのだ。
「人を探しておりまして」
 サライは苦笑いのような表情を浮かべた。ハルマーの目がきらりと光った。
「誰ですか」
「カヴェドネ様付の、アトと申しますが」
「何の用があるんです?」
 二人は答えに詰まってしまった。まさか真実ありのままを話すわけにもいかないし、とっさにうまい作り話を思いつくこともできなかった。二人がまごついていると、ハルマーは得たりとばかりに腰に両手を当てた。
「さあ、用が無いなら出て行きなさい。ほら早く! さあ、さあ」
 まるで迷い込んできた猫(ミャオ)をつまみ出すように、ハルマーは二人を押し出して、ぴしゃりと扉を閉めてしまった。追い出されたサライとアルドゥインは、互いに顔を見合わせた。どちらもしばらく言葉が出てこなかった。
「……表から行くしかないな」
「ああ、そのようだね」
 この屋敷にはどうも信じがたいような人物がそろっているようだ、とアルドゥインは思った。今度はハルマーに見つかることもなく、表の庭に出ることができた。うろついていても妙には思われない縁台のあたりでどうやって玄関から入ろうかと考えていたところ、急に門のあたりが騒がしくなった。
「どうかしたのかな」
 ちょっと立ち上がって、アルドゥインはびっくりしたように言った。
「あれ、たしか憲兵じゃ……」
 何が起こったのかと顔を見合わせたり、仲間うちで寄り集まったりしている使用人たちの眼前を通りすぎて、エコンヤとその部下らしい九人の憲兵はまっすぐに中央玄関に向かっていった。騒ぎをいつ聞きつけたのか、あっと言う間にハルマーが現れたのには二人とも驚いた。
「ソルトワ・セシュス伯爵はおられるか。そちらは」
 エコンヤが重々しく口を開いた。ハルマーにしても、この状況驚かされたものだったのだろう。さっきサライとアルドゥインをつまみ出したときとは打って変わってしおらしくなっていた。
「使用人頭のハルマーでございます。伯爵殿下はただいま東の対におられます」
「ハルマー殿、案内していただけるか」
「は、はい」
 畏まった様子でハルマーはちょっとお仕着せの裾を持ち上げて礼をすると、十人の前に立って玄関へと入っていった。彼らが建物の中に入ってしまうと、今まで様子を伺っていた使用人たちがまた不安そうに喋ったりしはじめた。
「意外に早かったな」
 アルドゥインの言葉に、サライは頷いた。
「そうだね。とりあえずあのハルマーさんがいなくなってくれたことだし、私たちはアトを探しに行こう。アインデッドの事は彼らに任せておけばいいだろう」
 これには異議はなかったので、二人は動揺を残す人々を通り過ぎて邸内に入った。西の対に入る廊下を通り、入ってしまうと、憲兵がやってきたというニュースはまだ全く知られていないらしく、誰もが落ち着いた様子であった。だが護衛団員がここまで入ってくることなどほとんど無いことらしく、二人を見ては目をまん丸に見開くのであった。恐らく、どうやってハルマーの目をかいくぐったのかと思ったのだろう。
「どこにアトさんがいるのか知ってるのか」
「カヴェドネ姫のそば仕えだから、そのあたりだろうと思うよ」
 曖昧な答えを、サライは返した。カヴェドネがほとんど一日中をそこで過ごしているサンルームの場所は、外から確かめたので大体わかっていた。そちらに行けばアトもいるだろうと踏んだのだ。
「わっ」
 勢いよく角を曲がろうとしたアルドゥインは、すんでで反対側から歩いてきた相手と正面からぶつかってしまうところだった。何とかそれを回避して、相手の頭が彼の胸に当たっただけで済んだ。
「サライ様? アルドゥインさんまで! どうしてここまで来られたんですか?」
 ぶつかった相手は、何とも運のいいことにアトだった。
「とりあえずここを出よう」
 詳しい説明をしている暇はないと判断して、サライはその手を掴んでもと来た道を戻りはじめた。そういうサライの態度には慣れっこだったし、今現在邸内にアインデッドが監禁されていて、彼らも安全ではないということも知っていたアトは、聞き返しもせずそれに従った。

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