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                                *



 太后宮を出ると、来たときにはまだ少しだけ西の空に残っていた残照は既に消え失せ、静かな闇と星明り、月影が天球を支配していた。ナカルはそれを見上げて、ふとため息をついた。
「ティフィリス王の名を持つペルジア人……ありえないわ」
 王宮に戻る足を早めながら、ひとり言を呟いた。衛兵たちは女王の姿を見かけると、さっと気をつけの姿勢をとり、彼女が通り過ぎるのを待つ。彼らに見送られながら、ナカルは王宮へ入っていった。
「お帰りなさいませ」
 女王の私室に戻ると、ナカルの表情はやっと寛いだものになった。そこが女王としての顔も、母親としての顔も脱ぎ捨てることのできる唯一の場所なのだといっても過言ではない。
「着替えを」
 一声かけると女官たちが進み出て来、ほとんど一日中その額を飾っている略式冠を外し、箱に収める。その他の装飾品も全て取り去られる。髪をまとめて、体に触れないように結い上げると、彼女は奥の部屋に進み、浴室に入った。貴族や王族になると、入浴の世話までそば仕えのものにさせるものも少なくはないが、ナカルは同じ女であっても、一人で済ませていた。
 浴室といっても、ジャニュアのそれは熱い蒸気に満たされた部屋である。浴槽に湯を張って体を沈めるなどというのは、元来水が貴重なものであったジャニュアの文化からしてみれば、贅沢の極み、もっと言ってしまえばただの無駄遣いであった。蒸気にすれば、少量の水でも充分であったし、入浴に体の汚れを落とす以外の意味はなかった。
 壁に開いた穴から吹き出す蒸気に身を浸しながら、ナカルは先程から続く想念をずっと追っていた。
(ティフィリス人なら瞳は赤でなくてはならないけれども……。褐色の髪に、緑の瞳、白い肌……ユーリに兄がいたなら、とユーリに言わせるほど、似通った男。名前は奇妙だけれど、ペルジア人とティフィリス人の混血なら、ありえなくはないかもしれない)
 アルドゥインが自ら否定したように、その組み合わせで緑の瞳の子供が生まれることはなかったのだが、ナカルはそこまで詳しくは知らなかった。考えれば考えるほど、その男を自分自身の目で見、確かめたい衝動に駆られた。
(ユーリに似た青年……若いころのティイはそんな人だったわ。白い肌のジャニュア人というよりは、叔母上がクラインの皇女だったせいかしら。やはりジャニュア人とはどこか違っていて)
 若いころ、と言っても、彼女の夫であり、先代の王でもあったティイはその死のときにはまだ三十六歳の男盛りであったのだし、今のナカルよりも若いくらいだった。
(もし、リューンに息子がいたなら、そんな青年だったかもしれない……)
 それを少し想像してみて、ナカルは自分を笑った。
(ばかなことを。母上がリューンを見ただなんて話をなさるからだわ。リューンは二十四年も前に死んでしまったのだし、その息子なんているはずがない……)
 しかし、その笑みは途中で凍りついた。
(もしもリューンがあの事故で奇跡的に助かり、どこかに流れ着いていたのだとしたら、あり得ない話ではないわ。父上も叔父上も、彼女が死んだものだと諦めて、付近の海岸の捜索すらなさらなかった。でも、殆どの乗客が死んだからといって、リューンも死んだとは限らない……だいいち死体は見つからなかったのだから。もしも、の話だけれど)
 ナカルは慎重に考えを進めた。
(もしもリューンが生きていて、身分を隠して何処かの国に生きていたら。そしてそこで結婚し、子を成していたら。その息子が母親の故郷を訪れるというのは何もおかしな話ではないわ。今になって、という疑問は残るけれども)
「陛下、陛下。どうなさったのですか」
 あまりに長く彼女が浴室にいるために、心配した女官が外から声をかけ、それでナカルはやっと現実に引き戻された。
「何でもありません。大丈夫」
 ナカルは答えて、やっと浴室から出た。気温は決して涼しいとは言えない温度であったが、吹きすぎる風は火照りすぎて重い体には高原の涼風にも感じられた。汗と汚れをぬぐいとり、夜着に替えてしまうと、髪を梳かせてゆったりとした三つ編みにさせる。
 それからナカルは全ての女官を下がらせ、入浴前に呼びつけておいた、市大門の警備隊長を呼び入れた。
 女王からの夜中の呼び出しなどこれが初めてであった警備隊長は、何かの叱責を受けるのではないか、などと不安に駆られていたのだろう。やや青ざめたような顔で、ぎこちなく進み出てくると、ナカルから少し離れたところで跪いて、騎士の礼をとった。
「何の御用でございましょうか」
 宝石の一つも付けず、白い綿のすっきりとした夜着しか身にまとっていなくても、ナカルには女王の威厳がしっかりと備わっていた。
「至急に調べてもらいたいことがあります。メルヌへの出入の記録はあなたが管理していますね」
「はい。全てわたくしが管理しております」
 頬髭をゆたかに生やした警備隊長は、緊張した面持ちで答えた。
「ここ一週間のうちにメルヌに入った外国人の中に、アインデッドという名のペルジア人がいるかどうか、そしてその職業、同行者がいるならそれも、できるだけ早く調べてもらいたいのです。その結果はすぐに私に直接伝えるように。そのように取り計らいます。これは私からの個人的な依頼であり、内部にも極秘に頼みます」
「アインデッドと申すペルジア人の入市者、ならびに彼の者の職業並びに同道者、でございますね?」
 生真面目な性格らしく、彼はもう一度内容を復唱して確認を取った。その態度にナカルは満足して頷いた。
「そのとおりです」
「御意」
 彼は深々と頭を下げた。それが済むとナカルは退出してもよい旨を命じ、次に憲兵隊長と副隊長を入室させた。彼も警備隊長と同じように、ナカルの座った椅子の前で騎士の礼を取った。彼らはもともと、貴族らの素行調査などの極秘の命令には慣れていたので、いちいち何の用かと尋ねるようなことはしなかった。
「宮廷外でのセシュス伯爵の動向を探ってもらいます。良いですね。範囲は、宮廷から彼の屋敷まで。ただし彼が何をしようと、あなたたちは手を出してはなりません。ただ、彼がいつ何処で何をしていたか、それだけを私に報告して貰いたいのです。これは女王からの極秘命令だと心得ておくように。それと――」
「は」
 二人はややあった沈黙の間中、身じろぎ一つせず女王の言葉を待っていた。
「ユーリが外出した時には、身辺をそれと気付かれることなく護衛するように。その時出会った人間には何もしなくてよろしい。ただ気になるようなことがあれば、相手が誰であるのか、どのような人間かを私に報告するように」
「御意」
「心得ましてございます」
 理由を質問することもなく、彼らは口々に応え、すみやかに退出した。
 また戻ってきた女官たちに、寝支度を整えるように命じた。もう、今日はこれ以上仕事をする気にはなれなかった。明日にまわしてしまうと明日が大変だということは充分承知していたが、仕事のことにまで頭を回せる余裕はない、と自分で判っていた。
 きちんと整えられた寝台に横たわり、常夜灯のみを残してすべての灯が消されてしまった、淡い闇の中で彼女は目を閉じた。
(ばかげているわ。ユーリが偶然会った青年が、リューンの息子かもしれないなんて。たしかにリューンが生きている可能性はあるけれど、そこまでいっては論理の飛躍だわ。だいたい、もしそうだとしてもアインデッドだなんて、ティフィリス人の名前を付けるはずがない……)
(ティフィリス人の混血なら、ありえないことではないけれど。クラインの血を引いているとはいえ、リューンも一人のジャニュア人、ジャニュアの王族なのだから。ティフィリスの男と結婚するなんて、あり得ない)
(でも……)
 ナカルは寝返りを打った。
(いいえ、あり得ない。そんな馬鹿な話。アインデッドという男は多分、ペルジア人とティフィリス人の混血なのだわ)
 心の中で強く否定して、彼女は別のことに考えを向けた。
(それよりも、セシュス伯爵。彼がユーリに対して行ったことは王家に対する反逆だし、仮に私が女王ではなく、ユーリが王女でなかったとしても、到底許されることではないわ。略奪婚が許されていた時代ではないのだから。彼に対する処分を、どうするか……)
(失敗した以上は彼も当然慎重になるだろうし、証拠を掴むのは難しいかもしれない。さりとて今のままで彼を断罪するわけにもいかない)
 ナカルは、今日何度目になるかわからないため息をついた。
(こんなとき、あの人がいてくれたら……)
 一方ユーリも、夜具の中で胎児のように体を丸めて、今日何度目になるかわからない、その名前をそっと呟いた。
「アインデッド様……」
 名前を呟くだけで、甘い気持ちになった。初めて知った恋という感情を、ユーリは戸惑いながらも彼女なりに噛み締めていた。今まで知らなかった感情に、祖母によって名前を与えられたことによってより強くそれを意識していた。
「わたくし、あなたに恋をしているのです」
 同じ空の下に、心は違えどその思う相手がいるとも知らず、母子はやがてレウカディーンに魂を預けたのであった。

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