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    アリーテ・「わたくしはあなたを憎まねばなりません。
          あなたはわたくしの父の仇。
          わたくしはあなたを憎むわけにはまいりません。
          あなたはわたくしの愛しい夫、我が子の父」


    グラウソ・「わたしはそなたを殺さねばならぬ。
          そなたはわたしの敵の娘。
          わたしはそなたを殺すわけにはいかぬ。
          そなたはわたしの愛しい妻、我が子の母。
          ああ、何という運命の皮肉か」
                           ――エウリュピデス
                        「アリーテとグラウソ」より




     第二楽章 疑惑の追走曲




 アインデッドとアルドゥインが太后宮の警備に任ぜられたころ。
 サライとアトも同じように新しい仕事の第一日目を迎えていた。セシュス伯爵邸にはセシュス伯爵当人ばかりでなく、伯爵の母と伯爵の妹も同居していた。横に広がる形の屋敷の右の対には伯爵が、左の対には母と妹が起居している。サライが雇われたのは右の対、アトが雇われたのは左の対で、二人は当然勤務先も寝起きする場所も離れ離れになった。どちらにせよ、使用人の男女をともに生活させるような危険な真似はどこの貴族だってやらないことである。
「姫様は生まれつき病弱でいらっしゃる方だからジャニュアの外はおろか、お屋敷からもほとんど外出なさったことがないのです。あなたは身分が低いものとはいえクラインの貴族に仕えていたのでしょう、姫様のお気に召すような話をするのですよ」
 五十にもうすぐ手が届きそうな雰囲気の使用人頭は、身なりも姿勢もきちんとしていてどこにも文句の付けようが無い雇われ人の鑑であった。なかなかに洒落たお仕着せは彼女にはあまり似合っているとはいい難かったが、それでも一分の隙もなく着こなしているのはさすがだった。糸のように痩せていて、白髪と半々の茶色い髪は後ろでひっつめてくくりあげられていたので、よけいに彼女のぴりぴりした印象を強めていた。
 アトは伯爵の妹よりずっと年下であったが、遠方から来たということで話し相手として、一日目からこの姫に付き合うことになった。たいして歳も変わらないのに、侍女に対して高慢な姫君というものにはクラインで飽きるほど見てきてうんざりしていたアトであったので、妹姫のお相手役にはあまり気が乗らなかった。
「はあ……」
「返事はもっとはきはきなさい」
「はい」
 クラインの貴族どころか、皇女に半年、右府将軍に一年仕えてきたキャリアはある。右府将軍に関しては今も継続中だ。しかしながら姫君の気に入るようなお洒落の話をしてみろといわれても、下働きでしかなかったアトにはどだい無理な話であった。
「着替えを済ませたらすぐに仕事ですからね」
「はい」
 使用人の宿舎は、簡素なベッドと棚があり、荷物を置けばそれだけでいっぱいになってしまうほど狭かったが個室であった。十人程度が同じ部屋で寝起きするなどということもざらにあった時代である。使用人頭の話では伯爵邸に起居している使用人は全て個室が与えられているというのだからこれまた珍しいことであった。
 支給されたお仕着せはさすが木綿の国だけあって全て綿製品であった。下に着る薄手のチュニックは眩しいほど真っ白で、昨日採寸したばかりなのにもうできあがっていたらしく、アトの体にぴったりしており、裾は足首まであった。その簡素なドレスの上に羽織る立て襟の長いベストはやや緑がかった薄い青であった。前開きのベストは同色の紐で留める形になっており、胸の下辺りまではそうしてぴったりと閉じるが、腰のすぐ上あたりから深いスリットが入って、歩くたびに左右になびくようになっていた。
 仕事が始まる前に、一時間以上にわたって使用人頭からこの屋敷での仕事の内容やルール、人間関係、起床時間などの細々とした説明を受け、それから彼女がお相手役となる姫の性格から好みにいたるまでを逐一レクチャーされた。使用人頭から言わせればこうであった。
「姫様は非常に神経の細い方でいらっしゃるから、決して今のように大きな足音を立てて歩かないようになさい」
 自分の足音がそんなに大きいとは思っていなかったし、レウカディアやルクリーシアからそのような注意を受けたことも無かったので、アトにとってこれは相当に不本意な注意であった。しかしながら、一年間を男に交じって軍隊生活を続けていた彼女の歩幅は充分に大きかったし、足音だってそれに相応したものであると、ほとんど一緒に行動していたサライも、彼女自身も気付いていなかったのだ。
 ただし、礼儀作法については使用人頭も文句の付けようがなかった。典雅と洗練の国であるクラインの王宮で、一時とはいえ皇女にも仕えたことのあるアトである。そういった作法の仕込みは完璧であった。クラインの王宮に勤めていたと言えばどこの国の貴族の館であっても文句なしに受け入れられるほど、クライン王宮の礼儀作法はうるさかったのである。
 小言のような諸注意を聞いているうちに、その姫の部屋の前についていた。使用人頭はあまり大きな音を立てないように、しかしちゃんと相手に聞こえるような大きさで、慎重にノックをした。
「姫様、ハルマーでございます。新しいお側仕えのものを連れてまいりました」
「おはいり」
 病弱な姫君らしい細くて高い声がそれに答えた。使用人頭の名前がハルマーであるとアトは初めて知った。いかにも若い娘の反発らしく、心密かにハル婆とでも呼んでやろうと決めて、アトは彼女に従って部屋に入った。
 部屋に入ると、一瞬虹が部屋で光り輝いているような錯覚に陥った。建物の突き当たりにあたる部屋の三面をガラスで張ったサンルームになっていたので、午前のきつくなりけた陽射しが部屋中に降り注いでいたのだ。サンルームのガラスは贅沢な色ガラスをふんだんに使ったステンドグラスの列と普通の透明ガラスの列が交互に並んでいて、不思議な幾何学模様を床に描き出していた。
 今が盛りの花々が鉢に植えられ、所狭しと並べられて、一面に甘い香りを振りまいている。これも姫の趣味であるらしい。どの花もていねいに世話をされているようであった。植物のせいで狭く感じられるサンルームの真ん中に籐製の寝椅子とテーブルが置かれており、小柄な若い女が寝椅子に横たわっていた。
 胸の下でやや濃い色のサッシュベルトを締めた淡い桃色のドレスは細身の彼女にぴったりだった。袖の部分はベールのように薄く、腕が透けて見えていたが、それも子供のようだった。病弱というのは疑いようの無い事実であるようだった。一日のほとんどを寝たきりで過ごしているのだろう。肩から胸に垂らした髪は緩く三つ編みにして色鮮やかな組み紐で結わえてあるだけで、それ以上の飾りは何一つ付けていなかった。
「アト、姫様にご挨拶しなさい」
 ハルマーに言われて、アトはあわてて頭をさげた。
「本日より姫様の側仕えとあいなりました。アト・シザルと申します」
「よろしくね、アト。わたくしはカヴェドネ」
 寝椅子に敷かれたクッションに頭を埋めたまま、カヴェドネ・セシュスはにっこりと微笑んだ。このサンルームで陽に当たることが多いのか、彼女の顔色はそれほど悪いようには感じられなかった。しかしよく見てみれば頬はやつれ気味であったし、何より手足は、動かせば折れてしまうのではないかと思うほど細かった。顔立ちは整ってはいたが、ぱっと人目を引くような顔ではなかった。だがはかなそうな微笑みは保護欲をそそるには充分すぎるほど魅力的であった。
「それでは私は失礼いたします」
 ハルマーが丁寧に言って退出すると、サンルームにはアトとカヴェドネだけが残された。何をどう話したらいいのか判らなくて、アトはもじもじと手を動かした。それから、テーブルの上の空のグラスを見つけた。
「アーフェル水はいかがでしょう? 姫様のお好みは」
「蜜が一なら水が六あたりよ。人肌に温めてね。でも今は要らないわ。それよりあなたはどこから来たの?」
 カヴェドネは見たこともない異国から来た侍女というだけで、アトに満足しているらしかった。ハルマーに聞かされたカヴェドネの話では、彼女は今年の誕生日が来れば二十四になるというのだが、病気のためにほとんど体が成長していないらしく、体つきや顔立ちはまだ少女といっても通じるくらいで、歳相応に見えるのは瞳の光だけだった。
「クラインから参りました」
「まあ、クライン? 姫君や殿方たちが毎日、夜遅くまでパーティーを開くんですってね。一度でいいから見てみたいものね。街の明かりが蛍みたいに輝いているようすとか。きらびやかなドレスを着て、一晩中ダンスをしたり。きっと楽しいでしょうね」
「私が出席することを許されたのは、皇女殿下の生誕祝いの式典だけですから、何とも申し上げられませんが、夜のカーティスはカヴェドネ様のご想像どおりです」
「いいわね、パーティーにでることができて」
 カヴェドネは遠くをみつめているような目でうっとりと天井を見上げた。伯爵の妹――兄が伯爵になるまでは伯爵令嬢であったカヴェドネが、社交界デビューを果たしていないはずがない。おそらくは身体が弱いために、お披露目で一度何かの式典に出たくらいの経験しか、彼女にはないのだろうとアトは察しを付けた。
「皇女殿下はレウカディア姫のこと? 幾つの誕生日かしら」
「レウカディア様の十九の生誕祝いです」
 正確にはアトは右府将軍サライの部下としてレウカディアの身辺警護を務めていたのであるが、それは黙っておいた。カヴェドネはアトが女官としてテーブルサービスなどをするために広間に入ることを許されていたと思っているのだろう。
「アトはどこの生まれなの?」
「私はクラインの東部ダネイン州の生まれです」
「アトの民族はエレミヤというのでしょう」
 カヴェドネは悪戯っぽく笑った。それくらいは知っているのよ、と目が言っていた。ジャニュアから――この屋敷から出ることがかなわない分、見ることができない知識は本などで手に入れているのだろう。
「風神エレミルの加護を受けているんですってね。アトは風のスペルを使えるの?」
「はい。多少は」
 エレミルのスペルを使うというより、アトの場合は正体不明の《アティア》の力を使うほうが多かったのだが、そんな話をしてもカヴェドネには興味はないだろうし、逆に興味を示されても困るので、アトはまた黙っておいた。
「ジャニュア人はマナ・サーラのスペルを使えるけれど、女王様はずうっと昔、飢饉で王宮に納める穀物が足らなかったとき、そのお力で一グランのミール麦を百にも千にも実らせてしまったのですって。わたくしはせいぜいここの花を枯らさないようにすることくらいしかできないわ」
「この花はカヴェドネ様がお育てに?」
「ええ。趣味でできることといったらこれとお裁縫くらいしかないもの。使用人のお仕着せはわたくしが縫っているのよ。アトが着ているそれもね」
 アトは驚いて、自分が着ている服を見下ろした。職人ばりの丁寧な縫製であるが、下々のものである使用人たちのお仕着せを手ずから縫う姫君などという話は聞いたことがなかった。
「カヴェドネ様が、全て?」
「いいえ。布の裁断は他の者がやるわ。でも縫うのはわたくしにやらせてもらっているの。わたくしが役に立てるのはこれくらいだから。でもね、ユーリ姫様のお誕生日に、わたくしがデザインして縫ったドレスをお贈りしたこともあるのよ。それに兄様の服はほとんどわたくしが作っているの」
 ハルマーの話ではカヴェドネは一日のほとんどをこの部屋で、しかも寝椅子の上で過ごしている。一日中寝椅子に横たわったまま針仕事をしているカヴェドネの姿を一瞬想像して、アトは気が遠くなりかけた。この病身の姫君には少々偏執的なところがあるようだった。
 とりあえず、アトの意識が飛びかけたのは一瞬のことで、カヴェドネの声がだいぶ辛そうになってきているのを察していたので、アトは自分から彼女が言ったとおりの配分でアーフェル水を作り、そっとテーブルの上に置いた。ありがとう、と小さな声で言ってカヴェドネは一口アーフェル水をすすり、一息ついた。
「いけないわね。あまり長く話すこともできないのかしら」
「無理はなさらないほうがよろしいです。辛いようでしたらこのまま少しお眠りになったほうが」
「ううん。大丈夫。話すのは辛くないのよ。声がおかしくなるだけで」
 喉を潤したせいか、カヴェドネの声は少し戻ってきていた。このような病弱な身体でなければしかるべき身分の貴族のもとに嫁いでいるはずの年齢であるが、それを苦にしている様子はなかった。
「兄様の話をしてあげましょうか」
「伯爵様ですか」
「そうよ」
 本心ではどうでもよかったのだが、そこは宮仕えに慣れている身で、アトは微笑みすら浮かべて是非とも拝聴したいと言ってのけた。
「兄様は五年前に父上が亡くなってから伯爵位を継いだの。昔はよくお見舞いに来てくださったけれど、最近ではお忙しいのかめったに来てくださらないわ。わたくしから兄様のところに出向くのは無理だから、見かけることもないの」
「それはお辛いでしょうね」
「そうね。しかたないことでしょうから、あきらめはつくけれど。でも最近は妙な男たちが屋敷をうろうろしていて、兄様が何か悪い輩とよからぬたくらみでもしているのではないかしらと思ってしまうわ。悪く言いたくはないけれど、兄様は昔から何でも欲しいものは手に入れたがる方だから」
 言いながら、カヴェドネの顔は曇っていった。アトはどう言ったらいいのか判らなくて、黙りこんでいた。こういうときには下手な慰めは無意味だし、かえって相手の神経を高ぶらせてしまうと知っていた。サライならば何かいいことも言えるだろうと思ったが、あいにく彼はとうの伯爵付きであったから、ここにいるはずもなかった。
「カヴェドネ様。別のお話をなさいませんか? そのようなお話はお辛いだけでございましょう?」
 努めて明るい声を出して、アトはカヴェドネに言った。その言葉を待っていたように、カヴェドネは顔を上げた。あきらかにほっとしたように彼女は笑った。
「一緒に花の世話をしてくれる人が欲しかったの。花の名前と世話の仕方を教えるわ。そこの車椅子を持ってきて頂戴」
 カヴェドネが指差した方向には、籐椅子に車輪をつけたような車椅子が置かれていた。それを押して持ってくると、カヴェドネはアトの手を借りずに器用にそれに移った。アトの心配をよそに彼女は車椅子を動かして、扉近くに置かれた花から説明を始めた。


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