前へ  次へ






 太后宮と称されている宮殿は、もともとは王の後宮であったものらしいが、だんだんと妻妾をおく制度が廃れていくにつれてその用を失い、隠遁した王の住まいとなっていたものだが、六年前に百十八代国王のマレーユが崩御したため、今では太后のネフェリアのための宮殿となっている建物であった。
 もともとが妻妾たちと王のための頽廃的な隠れ家のようなものとして建てられた宮殿である。中の装飾はいかにも豪華で、きらびやかであった。柱頭にはアザミの葉をかたどった飾りがつき、いまは大部分が剥げ落ちてしまっているが、かつては金箔が貼ってあったらしく、ところどころにその名残が残っている。
 天井には繊細な花鳥風月の彫刻がなされているか、神話の天井画が描かれている。廊下には色鮮やかな陶磁器の壺が置かれ、庭から切ってきた花が生けられて宮殿中を甘い香りや爽やかな香りで満たしていた。
 ここの女あるじは派手を好む人物ではなかったのだが、宮殿それ自体がすでにひとつの古代の遺産、美術品であることもあり、何度か修復工事は行われているものの、内装や外装には一切手を入れずにそのままの姿を保っている。
 いくつもある広間や室のひとつひとつには花の名がつけられており、花の色や花言葉にあわせた内装を施されている。その中でももっとも豪華で広い一室が、セラミスの間であった。その名のとおり、床には黄色みを帯びた象牙色の大理石が敷き詰められ、敷物からカーテンまでが全て色合いの異なる黄色で統一されていた。窓枠や柱には控えめな鈍い金色が塗られ、セラミスの花のモチーフが彫刻されている。生けられている花はもちろん、大輪のセラミスであった。
「お待たせしましたね、ナカル」
「母上」
 ゆっくりとした足取りで室に歩み入ってきた老母を迎えるために、ナカルは椅子から立ち上がった。
 ナカル・カルナ・ジャニュア、第百二十代ジャニュア女王である。中原唯一の女王となってからすでに十年、今は三十七の女盛りである。その美しさはジャニュアの守護神、大地の女神マナ・サーラに譬えられる。しなやかですらりとした小麦色の身体。すっきりした一重のまぶたが縁取る瞳は萌えいづる芽吹きの初々しい緑色。腰まで届く髪は甘い栗色をしていた。
 そのすらりとした長身に纏うのは瞳と同じ色のドレスである。襟元を大きく開けただけで、ドレープもレースもついていないごくシンプルなデザインはほっそりとした彼女にはとてもよく似合った。女王は略式の王冠である緑玉で飾られた額環をその秀でた額にはめていた。
「おまえがここに来るとは珍しいことですね」
 ネフェリアはナカルがそっとひいた椅子に腰掛けて彼女を見上げた。
「至急に母上に相談したいことがございましたので。お時間を少々いただけないでしょうか」
 ナカルは苦笑のような笑顔を浮かべた。それから、何をどう切り出したらよいのか判らないように、女官が運んできたカーファ茶に砂糖を一さじ入れて軽くかき混ぜ、スプーンを置いた。
「ユーリのことですか?」
「はい」
「子育てで相談をしに来るなんて、何年ぶりのことでしょうね」
「どんなに評価を受けている女王であっても、必ずしも良い母親であるとは言えないものです」
「正論ね」
 ネフェリアは笑い、茶を一口飲んだ。
「それで、お話は?」
「ユーリに、そろそろ伴侶となるべき殿方を決めてやってもよいかと思っているのですが、それとも成人まで待ったほうがよいでしょうか。ひとり娘で甘やかしてしまったせいかあの子はまだ幼いので心配なのです」
「誰か適当な殿方はいるの?」
「いいえ。セシュス伯爵がそれとなくこちらに打診してきてはいますが、私はまだ何とも決めかねています」
「セシュス伯爵……王家の遠縁にあたる血筋なら、それほど問題はないでしょうね」
「ですが、母上」
 ナカルはつと顔を引き締めた。
「あまりかんばしからぬ噂も聞いているのです。これも叱らねばならないことなのでしょうが……侍女たちが申しますには、先日ユーリが市内に出かけたおりに、彼の部下ではないかと思われる男どもにかどわかされかけた、というのです。その時は通りすがりの者が助けてくれたというのですが――それが本当だとするならば、そのような不埒な真似を許すわけには参りませんし、まして王家の婿に迎えるわけには参りません」
「そんなことが」
 ネフェリアは心底恐ろしい、というように目を見開いた。
「ですから、早くユーリにしかるべき男性を婚約者として迎え、身の上を安定させてやるべきかとも思いまして、母上に相談申し上げにきたのです」
「かどわかしをたくらんだ者がセシュス伯爵であるのかどうかは、確かなのですか?」
 さすが太后だけあって、ネフェリアは落ち着いて訊ねた。ナカルは静かに首を横に振った。
「わかりません。ただ、セシュス伯爵が前々からユーリにあれこれと取り入ろうとしているのは確かです。あまり質の良くない中傷も含めて、彼の評判はそれほど良くないということだけしか私には判りません。ですが私が一人の母親というだけでなく、女王でもある以上、評判だけで彼を判断するわけにもまいりません」
 きっぱりとナカルは言った。困ったようにネフェリアは目を伏せてため息をついた。そしてしみじみとつぶやいた。
「ティイが生きていてくれれば、おまえが心を痛めることも、母親としてだけで、少なく済んだでしょうに……。女王の責任は重すぎます」
 母親の言葉に、ナカルはわずかに眉をひそめた。その名はそれほど珍しい名ではなかったが、彼女の夫であり、百十九代のジャニュア王だったティイ・アイミール・ジャニュアのことであるのは明白であった。
「十年も前の話です、母上。いくら嘆いたとしても……ティイは戻ってはきません」
 もう、十年も経ってしまったのだ――。九つ年上の夫というのは決して珍しいことでもなかったが、それにしても早すぎる死であったとナカルは思った。自分もまだ二十七の、世間のことなどまだ何も知らぬと言っても良いくらいの年齢で夫の死を経験し、そして一国の女王となるという重大な事件を同時に迎えたのだ。
 ユーリに至っては、父親の顔もほとんど覚えておらぬ。その不憫さから、甘やかしてしまったのだろうか、とも思う。
「今はおまえと私だけがユーリの肉親なのですから、しっかりと考えてあげなくてはならないわ」
 すでに感傷から抜け出して、ネフェリアは娘に告げた。ナカルも、無理矢理現実に自分を引き戻し、うなずき返した。
「一番大事にしてあげなければならないのは――」
 ネフェリアは考えをまとめながら話しているようにゆっくりと言った。
「あの子が誰を好ましく思っているか、ということよ、ナカル」
「そうですね」
 自分にはティイという選択肢しか許されてはいなかったけれど――それでも幸せであったのだ。親が決めた相手だからといって一生憎みあうばかりの関係でいるとは、限らないのだから。だがナカルはその言葉を口に出すのは控えた。言ってもしかたのない繰り言を言うには、彼女は大人でありすぎた。
「母上、ジャニュアを治めるに足る人物であることも重要です。私としては、あの子が百二十一代目の女王になっても差し支えないとは思いますが」
「あの子は女王に向いているとは思えないわね。王たるものには、時として非情にもなれる冷静さが必要です。ユーリは優しすぎるように思いますよ」
「ええ……一度、ユーリ本人に聞いたほうがよいかもしれません。セシュス伯爵を、彼の言うとおり婿に迎えるのか、それとも他に好いた殿方がいるのか」
「それは私が聞きましょう」
 ナカルは肯定の意味でうなずいた。女王として忙しく、ユーリに個人的な時間をそれほどたくさん割いてやれないし、母親よりも祖母が相手のほうが、より本音を聞きやすいだろう。
「ではお願いいたします、母上。ユーリがこの次訪ねてまいりましたら、今のことをそれとなく、聞き出しておいてください」
「任せておきなさい」
 ネフェリアは悠然と、母親らしく微笑んだ。ナカルも微笑み、残りのカーファ茶を飲み干して庭に目をやった。
「相変わらず綺麗な庭ですね」
「ええ。女官たちが大事に世話をしてくれていますからね。私にはこれがいちばんの楽しみですもの」
 それから、ふと気づいたようにネフェリアはナカルに視線を戻した。
「そういえば、不思議なものを見たのよ、ナカル。レウカディーンのなさったいたずらだったのかもしれないけれども」
「何をご覧になったの?」
 怪訝な顔をして首を傾げるナカルに、ネフェリアは冗談めかして言った。
「あの子を見たのですよ。あの子が死んでしまってから、もう二十四年も経つのに、少し大人びただけで何も変わらぬ顔かたちで、花の向こうに見えたのです。一瞬だったけれどあの子の顔を見間違えるはずもないわ」
「あの子……?」
「私はリューンを見たのですよ、ナカル」
 老婦人は哀愁を帯びた美しい微笑みを、ナカルに投げかけた。
「でも母上」
 信じられないといった体で、ナカルは顎にちょっと手をやった。
「リューンは私より五歳年上でした。リューンが生きていたら、もう四十を越えているはずです……」
「だから不思議だと、言いたいのですよ」
 まるで言うことを聞かぬ子供に言い聞かせるような口調だった。ナカルは怪訝な顔のまま庭のほうを眺めやった。風が吹いて、彼女の栗色の髪を少しなぶっていった。やがてその面持ちはどことなく憂いを帯びたものになった。
「もし本当に母上のご覧になった者がリューンだとしたら、叔父上と叔母上にこそ会いたかったでしょうに」
 ナカルの叔父であるアイミールは六年前に他界し、妻のクレシェンツィアも後を追うようにその次の年に永眠していた。彼らの死を以てアイミール王家は断絶し、ジャニュア王家は最も近い傍系を失った。アイミール王家の王女であったリューンは二十四年前にエルボスの貴族に嫁ぐためにジャニュアを出航し、そこで嵐に巻き込まれて遭難したきり、行方不明となっていた。
 海で遭難するのは決して稀なことではなかった時代のことである。船の残骸らしき木片が遭難したと思われる海域でいくつか見つかっただけで、生存者はおろか死体の一つも出てこなかった。わずか十八才の若さで海に散っていった従姉の運命に、ナカルは幼いながら心を痛めた。そしてその華奢で小さな身体が暗くて蒼い水のなかに沈んでいく様子を思い浮かべては涙をこぼしたものだった。
 クラインから嫁し、〈三日月の姫〉の名を持つ母妃クレシェンツィアにちなんでティイは〈遠方より来たり〉と名付けられ、リューンは〈月の姫〉と名付けられた。
 母親がクラインの皇女であったので、ティイもリューンも透けるような白い肌をしていた。その肌色に、母の黒い瞳と父の緑の瞳が混ざってより深い色合いになった緑色の瞳がとてもよく映えて、ひどくうらやましいと思っていたことも、ジャニュア人には珍しい淡い褐色の髪のつややかだったことも、ナカルはまだはっきりと覚えている。思い出は凍結されたまま今も鮮やかに彼女の目の前に蘇ってくる。
「本当にリューンが海から戻ってきたのなら……」
 ナカルはぽつりとつぶやいた。それから、何を馬鹿なことを言っているのか、と自分を叱るようにもう一度つぶやいて立ち上がった。
「そろそろおいとまいたします。また参ります、母上」
 ネフェリアは優雅にうなずいてみせ、ナカルは侍女の開けた扉を抜けて出ていった。その長身の姿が消えてしまうと、ネフェリアはまた庭を見つめた。まるでもう一度、花の中にまぼろしを見いだそうとするかのように。
 庭内の巡回を終え、アインデッドとジャンはまた植え込みの外を回っていた。あれきりまた会話が途絶えてしまっていたが、彼がアインデッドに対して敵意を抱いているわけではないし、少なくとも話しかければ答えてくれると判ったのでアインデッドは安心していた。そして、アルドゥインはうまくやっているだろうかとか、今頃サライとアトは何をしているだろうかなどと考えていた。
(アルの相棒になった奴、それほど年食ってるわけじゃあなさそうだったから、話のタネには困らねえだろうな)
 自分とジャンときては、父親と息子ほど歳が違う。おのずと話題もずれてしまうし、もっと話をすればいずれ判ることだが、価値観やもののみかただって違うだろう。それほどぼろを出さずにうまく話を合わせることくらいはお手の物だが、疲れそうだった。なにしろジャンは筋金入りの堅物だったからだ。
 やっと三テルが過ぎ、二人は詰所に向かった。そこで詰めている当番と交代するのである。詰所は小さなあずまや風の建物で、四方を見渡せるように一切の壁を排したものであった。四本の柱で屋根を支え、柱の間に升目に組んだ木がはめ込まれている。中にはテーブルと椅子があり、水の入った壺とグラスが置いてあった。
「終わるのはヤナスの刻だ」
「そうですね」
 アインデッドは相づちを打ちながら制帽をテーブルに置き、椅子にかけた。三テルくらい歩き通したくらいで疲れるような彼ではなかったが、とりあえず水分を補給しようと壺に手を伸ばした。
「あまり飲んではならないぞ。それから、交代の前に壺にもう一度水を満たしておかねばならん。水は宮殿で汲んでくることになっている」
「はい」
 アインデッドは肩をすくめて答え、グラスに一杯だけ水を飲んだ。乾ききった喉に水がしみとおる。水がこんなにうまいものとは久しく思っていなかった。
「我々の仕事が終わるのはちょうど昼だ。食事のうまい店を知っているから、案内してやろう」
「はあ、ありがとうございます」
 急に言われて、アインデッドは目を瞬かせた。さっきまでの無愛想さに比べれば破格の親切ともとれる言葉であった。いったい何を考えているのか、とジャンのほうをうかがってみたが、彼はまた真面目くさった顔で宮殿を見張っていたので声をかけるのはためらわれた。
(とっつきにくいけど、いい人ではあるみたいだし、心配したほどじゃあねえな)
 アインデッドの彼に対する印象はだいぶ良いものとなっている。いつも陽気で誰とでもすぐ仲良くなるにもかかわらず、本当は寂しがり屋で心に孤独を抱えているようなところがあったから、こうしたぶっきらぼうな表現であっても親切に触れるとたちまち印象を良くしてしまうのがアインデッドの癖であった。
「ところで、ジャンさん」
「どうした」
 ジャンはちゃんと返事をした。それでも宮殿の方を見ているというのが非常に仕事熱心なところであった。
「ユーリという名前はありふれたものなんですか」
「どうしてそんなことを聞くのだ」
 そこでやっと、ジャンはアインデッドの顔を見た。彼はあまりにも不思議そうな表情をしていたので、アインデッドはなんだか自分が悪いことでもしたような気がして困った顔になった。
「この前、ふとしたいきさつで助けてあげた女の子が、そう名乗っていたので」
 これは嘘でも何でもなかったので、アインデッドは安心しながら言った。
「まさかそれが姫であるはずないですから」
 そうではないかと疑ってはいるが――と、アインデッドは心の中で付け加えた。が、そんなことはおくびにも出さなかった。ジャンはしばらく考えてから、言った。
「ユーリースに因んだ名前はジャニュアでは多い。普通はユーリス、ユーリアくらいだが、それほど珍しい名でもない」
「王女殿下もユーリですからね」
「姫の名はネフェリア様が名付けられたのだ。姫の守護神がユーリースであることと、リューン殿下にちなんで〈月の姫〉と〈花の姫〉で対になるようになさったそうだ」
「リューン殿下?」
 いきなりそんな名前が出てきたのでアインデッドは首を傾げた。そんな名前の王女がいたのは知っているが、どうして姪の名前を孫につけるのかが判らなかったのだ。アインデッドのように古代の人物からとったというのなら判るが、そうでも無さそうである。ジャンは知らなくても当然だというようにうなずいた。
「知らぬのも尤もだ。リューン殿下の事件はもうかれこれ二十四年前の話になるのだからな」
 そのせりふはこっちが言いたい、とアインデッドは心の中で毒づいた。ティフィリス人の自分がなんだって、ジャニュアの王族の話など知っていなければならないのだ。それに二十四年前といえば、アインデッドなどまだ生まれてもいない。だがアインデッドはつとめて冷静に自分を保って訊いてみた。
「そのリューン殿下は、ナカル陛下の従姉にあたる姫でしたね」
「そうだ」
「ユーリ殿下はそのリューン殿下に似てるんですか」
 ジャンは目を宙に泳がせて、記憶の中のリューンの顔とユーリの顔を比べているようであった。
「最後に私が見たのは十八歳のときの殿下だが、ユーリ殿下はリューン殿下の姪であるし、従妹の娘に当たる方だ。あまり似ておられんな。むしろナカル陛下に似ておられるが、肌の色はティイ前陛下に似て色白だ。リューン殿下の顔が知りたければ……胸像が王家の霊廟に置かれていたはずだ。一度見てみるといい」
「霊廟……?」
「一般のものでも自由に参拝することが許されている。ああ、お前は知らないのか。リューン殿下は二十四年前に亡くなられたのだ。嫁ぎ先のエルボスに向かう航海の途中で嵐に遭われて、それ以来行方知れずだ」
 あまり似ていても嬉しいとは思えない相手だ、とアインデッドは思った。非常に有名であるとか、武術に優れていたとか――姫であるならば美しいことの誉れ高かったとか――そういった人間に似ていると言われればまんざら悪い気もしないだろうが、花の盛りで、しかも嫁ぐ途中で死んだなどという不幸極まりない女性に似ているとは、たまったものではない。
「私が実際にお姿を拝見したのはほんの数回だが、リューン殿下は非常に美しい姫君であった。物腰は優雅にして何事にも秀で、ことに歌は素晴らしかった。私も一度拝聴する光栄に浴したことがある」
「亡くなられたのは残念ですね」
 そんなジャンに水を差したくて、アインデッドは呟いた。だがジャンが気に留めた様子はなかった。
「そうだ、思い出した」
「何ですか」
「お前が誰かに似ていると思ったことだ。不思議なことだな。さっきも言ったがリューン殿下は十八で亡くなり、お子などいようはずもないのだが」
「………」
 アインデッドはもう何か言う気もなく、ジャンの顔を見つめた。だが次の言葉は、アインデッドから言葉を失わせるのに充分だった。
「似ていると思ったのは、リューン殿下だ」



楽曲解説
「舞踏曲」……ポロネーズ。ポーランド風三拍子の曲。
「カノン」……主題と呼ばれる一声部が旋律を始め、応答と呼ばれる多声部によって一定の時間間隔を置いて正確に模倣される。


前へ  次へ
web拍手
inserted by FC2 system