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                                *



 一方、アインデッド。
 アルドゥインが密かに心配していたような事態――ティフィリス出身であることを根掘り葉掘り聞かれたり、悪口のようなティフィリスのこき下ろしを言われて喧嘩に至る――などというようなことはなかったが、もう一つの心配は的中していた。
 ジャンはアインデッドのほうを見ようともしないし、話しかけもしなかったのである。自分から話しかけるのも何だか悪いような気がして、アインデッドはずっと黙ったきりジャンの後ろについて歩いていた。三テルの間こうして警備区域を巡回し、残りの三テルを詰所で過ごすというスケジュールだが、このまま六テル、何の会話もないまま過ごすというのはアインデッドにとって拷問にも等しかった。
「あのー……ジャン、さん?」
 とうとう沈黙に耐え切れなくなって、アインデッドは恐る恐る声をかけた。ジャンの方がずっと背が低かったのだが、年は四十代にはいっていようかと思われた。制帽は暑いので、どちらからともなく二人とも脱いで、小脇に抱えたまま歩く。むっつりとした顔で彼は振り返った。
「何か用なのか」
「用というか……仕事で気をつけなきゃならないこととか、やったらいけないこととかあったら教えてもらえませんか」
「特にないな」
 あっさりとジャンは言った。その間、歩調を緩めようともしない。アインデッドはめげそうになったが、ここで諦めては一生無視されると思いなおしてもう一度話しかけてみることにした。
「相手に話しかけちゃいけないなんて事はないですよね」
「………」
 また黙殺だろうか、と諦めかけたとき。
「そんなことはない」
「じゃ、何か話しませんか」
「何を」
「だから、何か」
 漫才のような会話だ、と内心思いながらアインデッドは続けた。
「太后陛下のお噂とか、ないんですか? お姿を拝見したこととか」
「何度かある」
 また短く、ジャンは答えた。やっと、まともな返事を返してくれたのである。この機を逃すアインデッドではなかった。
「どんな方なんですか、太后陛下は。今年で御年六十歳になられるんでしたっけ?」
「六十二歳だ」
「あ、六十二。それはまた、おめでたいことですね」
 アインデッドはつとめて笑顔を浮かべたまま言った。普段の彼ならそろそろ相手の態度にいいかげん苛立ってきているころだが、一つ失敗すればたちまち敵だらけになると判っていたのでそこはぐっと抑えていた。
「ネフェリアさまはまだまだ健やかでいらっしゃる。我々のような一介の警備兵にも分け隔てなくお声をかけてくださる優しい方だ」
「ジャンさんもかけていただいたことが?」
「私はこの庭の警備を二十年間やっている。ネフェリア様はこの庭がことのほかお好きで、よく散歩をなさるのだ」
 そう言ったジャンの声には、心なしか晴れがましいものがあるようだった。どうやら、彼が無口であったのはただ生真面目であるからというだけのようだ――とアインデッドは理解しはじめていた。王家に絶対的な忠誠を誓っているような口ぶりである。それは太后の事を語る口調からありありと読み取れる。
「ユーリ殿下もお見舞いに来られる。マレーユ陛下が崩御なさって後、ネフェリア陛下はだいぶ脚が弱られたので、以前のように間近に拝見できることはないが」
 太后の名のネフェリアとは、《美しきもの》という意味を持つ。彼女が二代前の国王マレーユに嫁いだのは四十五年も前の事であるが、その往年の美貌はまだそのあとをとどめているのだろう。娘であるナカル女王もまた、中原に名高い美女の一人として有名であることからそれは容易に予想できる。
「お祖母様思いなんですね、ユーリ殿下は」
「そうなのだろう。三日に一度はこの太后宮に通ってこられる」
(それなら、あのユーリと王女が同一人物なのかそうでないか、意外に早く決着がつきそうだな……)
 もちろん、自分のような立場のものがおいそれと近づけるわけもないだろうし、仮に近づけたとして、ユーリが王女であった場合、自分たちを目撃してどのような反応をするか判ったものではない。それは非常に危険なことのように思えた。
「不思議なことだな」
「はい?」
 いままでアインデッドの質問に答える一方だったジャンが、急に話を自分から出してきたので、アインデッドは面食らってしまった。
「何が、ですか」
「お前のことだ」
 ジャンはようやっと、アインデッドとならんで歩いてくれていた。ティフィリス出身のことをどうのこうの言われるのかと思って身構えていたアインデッドはしかし、次の言葉は予想していなかった。
「お前が誰かに似ているような気がしてならない。たしかに、どこかで見たことのある顔なのだ」
「誰か……ですか? ジャニュアに親戚はいませんが……」
「だからこそ不思議だと言いたいのだ」
 ジャンはあくまで生真面目に言った。
「お前はティフィリスで育ったのだろう。それならばこの国に知り合いがいようはずもない。ペルジアで生まれたというからには、もしかするとそこでジャニュアの血が混ざったのかもしれないが、私の知り合いでジャニュアを出たものなどいない」
 どうもジャンのかたくるしい話し方にはついていけないが、話してみればそれほど話の通じない人間でもなければ、意地が悪いわけでもないようだ。こちらが話し方と話の内容に気をつけてさえいれば、何も問題は起こりそうにない。そう考えて安心していると、ジャンがいきなり踵で右に回った。
「ここを右に入って、庭内をまわる」
「あ、はい」
 アインデッドはまた先に立って歩いていくジャンに慌てて追いつき、また並んだ。太后宮には塀や柵などはなく、一と半バールほどの高さの植え込みで敷地を隔てていた。その植え込みも、ぐるりに巡らせてあるのではなく、所々切れ目があり、そこから自由に出入りできるようになっていた。ここの女あるじである太后ネフェリアは、よほど開かれた性格の持ち主であるようだ。
 アインデッドたちが入っていった庭は子供が隠れん坊などしていたら一時間は見つからないのではないかと思われるほど広かった。真ん中には白亜の可憐な噴水が置かれ、ユーリースの捧げ持つ花籠から清水が絶えることなく湧き出していた。風向きが変わったせいか、入っていったとたんに花の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 花壇と花壇のあいだには白い玉砂利を敷きつめた小道が整えられている。彼らの左手にあった花壇には大輪の白百合が満開になっており、太后宮の女官が三人、花のあいだで忙しく立ち回って、終わった花を切ったり、余分な蕾をまびいたりと、せっせと手入れをしていた。二人に気づくと彼女たちはにっこりと笑って会釈をした。それに軽く頭を下げたり、手を挙げたりして応えながら歩いていく。
 白百合ばかりでなく、手前の花壇にはマリニア、もうすこし奥にはカスミ草、桃色の可憐な花を咲かす小さな花、そのほかアインデッドは名前も知らぬ花々が今を盛りと咲き乱れていた。中には季節が終わったらしく、新しい花の種をまいている花壇もあったし、まだ伸び盛りの花壇もあった。
「すごい庭ですね……」
「初めてである以上見とれていても構わないが、不審な人物などいないかどうかもちゃんと見ているのだぞ」
 また堅苦しい言葉でジャンがたしなめた。アインデッドはそれをありがたく拝聴して、きょろきょろと見回すことを諦めた。すると今度はジャンがいきなり立ち止まり、アインデッドは危うくぶつかりそうになった。
「太后陛下にあらせられるぞ」
「は……」
 ジャンの見ているほうを、アインデッドもながめて見た。二つほど向こうの花壇の前に、数人の侍女にかしづかれた老女の姿があった。杖にすがってはいるものの背筋はすっと伸びており、白いもののほうが多い髪もまだゆたかで、ごく簡単にまとめて結い上げられている。ドレスは彼女の肌の色にぴったりとした薄い鳶色で、すっきりとしたシルエットを作っていた。横顔なのでよく判らないが、たしかに皺深くなってはいるものの整った顔立ちであることは見て取れた。
 ジャンはそちらに向かって深々と一礼してまた歩き出したので、アインデッドもそれにならった。太后はかれらには気づいていないようで、侍女たちと何事か楽しげに語らいながら花のあいだを歩いていた。
「太后様」
 一人の女官が宮殿から駆けてきた。
「ナカル様がお越しでございます。ただいまはセラミスの間で太后様をお待ちかねでございます」
「まあ、珍しいこと」
 ネフェリアは微笑みながら言い、ゆっくりと宮殿に向かって歩き出した。脚を悪くしている
のは確かで、その歩みは慎重であった。

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