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                                   *


 次の日の朝は、ジャニュアにはめったにない雨が降っていた。とはいえそれは音を立てて降るようなものではなく、濃い霧のような柔らかな雨であった。ジャニュアでは一年に数日もないという雨はしかし、マナ・サーラの刻にはすっかり晴れ上がり、木々は美しい緑に輝いていた。
 いつもはもうもうと砂埃の舞い上がっている道路も、しっとりと濡れて人々の足跡やわだちの後を残す。
「なんか、空気がきれいだな」
 アインデッドは歩きながら深呼吸をした。雨の名残で空はまだ薄曇であったので、それほど陽射しも強くない。
「砂埃がたたないからだろう。あんまり暑くないし、これくらいがいいよな。でもこれから暑くなると、湿気がすごいだろうなあ」
「たしかに」
 幻滅したようにアインデッドは言った。昨日は歩いているだけでそこかしこから視線を感じたものだったが、髪の毛を染めてしまったら、まったく人目に立たなくなってしまった。 それでも沿海州の人間はメルヌではめずらしいので、路上でたわむれている子供たちなどが無邪気に指差したり、不思議そうに二人を見たりする。
「一体、どこの隊に配属になったんだろうな」
「ま、行ってからのお楽しみだろう」
 気楽にアルドゥインは答えた。
(なんだかそれが、イヤな予感がするんだけどな……)
 アインデッドは声に出して言わなかったものの、ちょっと不安そうに眉をひそめた。今まで一度だって、嫌な予感と有卦に入った予感が一度に訪れたことなどなかった。そのことがずっと気に掛かっていた。それに、彼自身が「災いではない」と言い切ったとうの《伯爵》の一件が急に気になりだしたのも、不安をそそった。
(それに、サライたちの勤め先っていうあの伯爵が、なんか気になるんだよな……)
(これくらいの国なら伯爵なんて掃いて捨てるほどいるだろうから、あの子をさらおうとした奴と同一人物だなんてことはまずないだろうけど。しかし貴族ったって、とんでもねえワルもいるもんだからな)
 アインデッド自身が実際、そういう色含みの誘拐事件に巻き込まれたことがあるのだ。その点での彼の考察はまことに的確だった。
(でもまあ……)
(かりにそいつが犯人だとしても、俺とアルドゥインにたどり着くって可能性はまずないだろうし)
(正式に軍に入っちまえば、傭兵だとて身分は保証されるわけだし、行方不明ってことでバラすこともできまい)
(それに、証拠がねえんだし)
 計算があってやったことではないが、アトがあの腕輪を持っているかぎり、あの少女とアインデッドたちの関係は割り出せないだろうし、《伯爵》は少女が腕輪をやったことなど知らないのだから。
 物思いに沈みながら歩いているうちに、傭兵の斡旋所にたどりついていた。受付で交付された証明書を見せると、昨日最後の試験が行われた中庭まで行くように指示された。入っていくと、すでに数人がそこで所属部隊の発表を待っているようだったが、人事発表を行う騎士はマナ・サーラの刻ぴったりにやってきた。
「さすが、お役人だな……」
 アルドゥインはこっそりひとりごちた。
「それでは諸君らの所属を発表、ならびに割符を交付する。一人ずつ名を呼んだ順に受け取りに来るように。王宮外門、北大門警備隊所属、ハラスのサイレラス!」
「はっ!」
 呼ばれた男は妙に緊張したぎくしゃくした足取りで前に進み出て割符を受け取ると、担当の騎士に連れられて奥の扉に入っていった。そうして次々と、所属と名前を呼ばれた傭兵たちがその担当者に連れられて奥に消えていった。最後に残ったのはアインデッドとアルドゥインの二人ばかりになった。
 担当者が困ったようにこそこそと耳打ちあいをしているのに不安を感じて、アルドゥインが丁重に訊ねた。
「あの、失礼ですが……俺たちの所属はどこに……」
 その声にはっとしたように騎士が顔を上げた。
「ややこしい話になるのだが」
 そう前置きして、彼は説明を始めた。
「君達は二人とも王宮周囲の――太后陛下のお住まいになられている区域の警備隊に所属になる」
「ですが、傭兵は外門までと聞いています」
 アインデッドが不思議そうに言った。
「それでややこしいのだ」
 もう一人の騎士が口を挟んだ。
「昨日、セシュス伯爵が君達を見かけ、じきじきに部下にしたいとおっしゃったのだ。それは異例のことではないのだが、セシュス殿下の直属の部隊で定員が空いているのがこの警備隊しかなかった。そこでこういうことになったというわけだ」
「さいわい君達の手形は最近発行されたきちんとしたものだし、身元もはっきりしている。セシュス伯爵はもちろんだが、太后陛下と女王陛下のご許可をいただいた。くれぐれも気をつけて職務に励んでくれ」
「……はあ……」
 なんだか狐につままれたような気分で、ふたりは曖昧に返事をした。太后といえば女王の母親であり、その住まいする宮殿の警備を仰せつかるとあっては傭兵としては破格の扱いである。騎士が何年も仕え、信頼と実績を積み重ねてこそ得られるであろう職を、担当の伯爵がたまたま見かけて見込んだために得られるとは、まったくもって信じがたい話であったのだった。
 信じられない、と何度も割符を確かめてみたのだが、まさしくそこにははっきりと「太后宮警備隊傭兵部隊所属」と書かれ、その下には彼らの名前が書かれているので間違いようもない。
 首をひねりながら、二人は警備隊の騎士に連れられて宿舎に案内された。
「今日のところはお前たちは非番だ。明日は朝のリナイスの刻に交代式があるから、遅れぬように宮殿前の門に集合するように。仕事の内容はそれぞれの持ち場で三テル立番、三テルを指定区域の巡回で六テルの間警備をすることだ。区域はこの見取り図に示した赤い部分だ。これがお前で、これがそっちのだ。二人一組だが、お前たちのパートナーは明日判ることになっている」
「有り難うございました」
 騎士の説明が終わり、アインデッドとアルドゥインは一応の礼を言った。どうやら仕事のパートナーはそれぞれ別になるようだが、部屋は一緒のようであった。少ない荷物を作りつけの棚と、備え付けのテーブルに置いて、二人はほっと息をついた。
「まさか、こんなすげえ仕事がくるとはな……」
 アルドゥインは部屋の調度品を調べながらつぶやいた。何気なく言ったそれにアインデッドが答えた。
「ああ。太后って、王様のおふくろってことだよな」
「そういう意味だが、前の国王のじゃなくて、女王の母君らしいぞ」
「えーと、ナカル……陛下だっけ。んで、ティイ・アイミール王ってのが旦那で、それが十年前におっ死んでて」
「お前、言い方どうにかしろ。ここはジャニュアだぞ」
 アルドゥインは呆れてたしなめた。
「……そのティイ国王の両親は死んでるのか」
 アインデッドはさして反省したわけでは無さそうだったが、それでも声を小さくして訊ねた。
「確か、母君のクレシェンツィア様が五年前、父君のアイミール様が六年前に。ナカル陛下の父君、マレーユ陛下も四年前に崩御してる」
「詳しいな、お前」
「それくらい知ってるさ。ティフィリス人じゃなけりゃ」
「やっぱ、ティフィリスだとジャニュアの情報なんかこねえってことなのかな」
 何か考えるところがあったようで、アインデッドは首を傾げた。
「でも、クレシェンツィア様ってのが、クラインの皇女だったってのは知ってるぜ。親父が教えてくれた。だから、その子供のティイ前国王とリューン姫ってのはジャニュア人らしくなく色白なんだってさ」
「それくらい俺だって知ってるぞ」
 アルドゥインに素っ気無く言われて、アインデッドは悄気てしまった。自分の話が感心されなかったり、一蹴されてしまうのは彼にとっては辛い事らしい。しばらく黙り込んでから、アインデッドは重大なことを思い出したように顔を上げた。
「なあ、アル」
「どうした?」
「一昨日の女の子……覚えてるか」
「もちろん。珍しいくらいの色白だったからな。それがどうか……?」
 質問の意味を図りかねて、アルドゥインは怪訝な顔をした。
「その色白のティイ国王の娘ってのも、やっぱ色白なんだろうか」
「それはわからねえな。肖像画も出回ってないし。だがナカル陛下はきっすいのジャニュア人であられるし、そんなことはないと思うぞ」
「王女の名前はユーリ姫だろ? あの女の子、自分の名前をユーリだと名乗ってた」
「ただの偶然だろ。同い年に生まれた子供に王女とか王子の名前をつけたがる親も多いんだし」
「色白の親がいるユーリって名前のお姫様に、同年代で色白で同じ名前の女の子、だぜ? しかもありゃあかなりの身分のもんだった」
「だからって……」
 アルドゥインは笑って済まそうとしたが、アインデッドは真剣な表情のまま下唇をかみしめて何かまた考え事に耽りだした。
「アル、百歩譲ってあの子とユーリ姫が同一人物だって事にしてみてくれよ。あの夜姫は何かの理由で市内に出ていた。おそらくはお忍びで遊びにでも行っていたんだろう。そしてそれを知っていたどこかの貴族――《伯爵》は、何かのけしからぬたくらみをもって彼女を誘拐しようとした……っていうのは?」
 アインデッドの真剣な様子に圧されて、アルドゥインも不承不承うなずいた。
「たしかに、辻褄は合うけど……」
「きっとあの娘は自分が狙われているのをうすうす知っていた。それが誰であるかも、たぶん侍女たちも知っていた。だから彼女は侍女がそれ以上喋るのをとめた。問題は、狙われていると知っていて何故彼女が外出なんかしたか、だ」
「まさか誘拐されるとは思っていなかったんだろう」
 アルドゥインはまだこの仮説には信憑性を抱いていなかったが、それとなく意見を言った。
「あんな女の子に、悪党の心なんぞ判るわけねえだろうからな」
「相手の出方を見ようとしたのかもしれない。あの娘が見かけ以上にずっと大人で頭がまわるんなら、それくらいの考えは思いつくだろう。それであの後彼女がどうしたのかはわからんが」
「なるほどね」
 《ユーリ》の正体はともかく、彼女の巻き込まれようとしていた、あるいは巻き込まれようとしている事件が何なのか、二人としては気になるところであった。
「もう一つ気になるのが」
 アインデッドは下唇を噛んだ。
「俺たちをここに配属させたセシュス伯爵ってやつだ」
 アルドゥインもうなずいた。
「そうだな。どうして伯爵が俺たちを見込んだくらいで、こんな大事を預かるような部隊に入れさせたのかがわからねえな。自分の手下の兵ならともかくも」
「アル、お前思わないか?」
 彼は無言のままアインデッドを見つめた。
「セシュス伯爵があの《伯爵》かもしれねえ、俺たちをはめるためにわざわざ自分の兵にした……って」
 アルドゥインは何も言わなかったが、アインデッドは彼がその言葉を肯定したのが判った。
「こいつはやべえことになるかもしれねえな」
「ああ」
「予感的中」
 アインデッドは自嘲気味に笑った。
「そのセシュス伯爵の屋敷に、サライとアトさんが雇われてるってのがまた、問題だな……」
 これも偶然の一致なのだろうが――図ったような偶然に、アルドゥインはヤナスの意思を感じないでもなかった。
「自分の身の安全のためにあの腕輪をアトにやったわけじゃあねえんだが……腕輪を人前で出すなと忠告しといたし、サライも言ってるはずだ。奴はそういうことには鋭いしな。だからあれから俺たちとの関係が判ることはないだろう。それに、《伯爵》が本当にセシュス伯爵で、ユーリが王女だという確証はないんだから」
 だが、まずいことになってきた、という感覚が肌に感じられる。悪い予感はこれだったのだ、とアインデッドは思い至った。どうしてもいまここから逃げ出さねばならないという気がしないのならば、これは切り抜けられるだろう。そして、もう一つの、良いほうの予感はまだ遠い、そんな気がした。
「ここでもやっぱり、《災いを呼ぶ男》の名前は消えそうもねえな」
「今度ばかりはお前も無事じゃすまなくなるかもしれないぞ。脅しじゃなくて、本気で、だ」
「何とか切り抜けて見せるさ」
 アインデッドは不敵に笑った。それは強がりでも何でもなく、ティフィリスのアインデッドの、自負であった。
「今までだってそうしてきたんだ」


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