マノリア(白)……一途な愛
ロザリア……貞節と純潔
エウリア……永遠の愛
セラミス(赤)……偽りの愛
マリニア……叶わない初恋
――中原の花言葉
第二楽章 花の舞踏曲
あれこれ心配事があっても、人間というものは自然の欲求には逆らえないものなのだろうか、とアルドゥインは朝っぱらから哲学的な瞑想に耽っていた。アインデッドと二人で巻き込まれた事件のことで一睡もできない――と思っていたのだが、いつの間に眠ってしまったのか、サライが起こしにくるまでぐっすりと熟睡してしまっていたのだ。
一つには彼が健康な若い男で、さらに昨日は久しぶりに思うさま酒を飲み、その上夜中に派手な立ちまわりを演じるなどもあって疲れていたのもあるだろう。ともかく、アルドゥインは二日酔いに悩まされることもなく、ごくすこやかな眠りのあとの爽やかな目覚めを複雑な心境で迎えたのだった。
(たしかに、前に足に矢が刺さっちまったときも、何だかんだ言ってやっぱり眠れたし……人間って案外図太い生き物だな……)
「おーい、アイン、朝だぞ」
「うん……」
ごそごそと毛布のかたまりが動き、これは心配事などとは縁の無さそうな相棒が顔を上げた。いつ、どんなときでもすぐ熟睡できて、さらにはかすかな気配でも目が覚めるように訓練している傭兵の二人なのだが、今日はすっかり寝過ごしてしまっていた。アインデッドはぼさぼさになってしまった髪の毛をかきあげながら起き上がり、ベッドの上で猫のように伸びをした。
「ああ――良く寝た。夢も見やしなかった」
「つくづくおめでたい奴だな……」
アルドゥインは半ば呆れ、半ば感心して言った。
「なあアル、ちょっと後ろの髪の毛梳いて」
無邪気にアインデッドは櫛を差し出した。ジャニュアではこの真っ赤な髪はトラブルの種にしかならないが、彼は非常な髪の毛自慢だったから、朝と寝る前は念入りに髪をくしけずっておく。これも何度目になるだろう。アルドゥインは櫛を受け取り、アインデッドの後ろに回った。
「あーあ。こんなに絡まって……どういう寝方をしてるんだお前」
「知らねえよ」
くすぐったいのか、アインデッドはくすくすと笑った。髪をすくい上げて、丁寧に毛先から絡まりを解いていく。手入れなどほとんどしていないのに、アインデッドの髪はいつでも鮮血のようにあざやかな赤で、絹糸のような手触りをしている。
(ほんとに、女みたいにきれいな髪だな……)
これが他の男なら、髪を梳いてくれなどという頼みは受けてやらないだろうし、もしやってやるとしても乱暴に二、三度櫛を入れてそれで終わりにしてしまうところだ。実際、しぶしぶやってやるまではアルドゥインも彼の髪がこれほどきめの細かい綺麗な髪だとは知らなかったのだ。まだこの朝の習慣は二週間ほどしか続いていなかったが、アルドゥインはアインデッドの髪を触るのが好きになっていた。そこには特に何かの感情があったというわけではなく、ただ単に子供が母親の絹のドレスに触れてみたがるのと同じような理由であったのに過ぎないが。
「ほら、終わったぞ」
「ありがと」
櫛を受け取って、鞄にしまってから、アインデッドは長い髪を後ろできゅっとたばねて紐で結わえた。それから彼はしばらく荷物の中をあさり、ペンダントと一緒に昨日の腕輪を取り出した。
「どうするんだ、それ」
「そうさなあ」
アインデッドは緑玉のペンダントをいつものように首にかけて胸元に押し込むと、腕輪をはめてみようとした。意外なことに、アインデッドの手首にそれはぴったりとはまってしまった。
「……手首、細いんだなお前」
アルドゥインはびっくりしてアインデッドの手を取った。たしかに、女のようにとはさすがにいかないが、アルドゥインに比べれば華奢なほど細い。なんだか気まずそうにアルドゥインを見上げてから、アインデッドはそれを外した。
「外すのか? けっこう似合ってるのに」
「冗談言うなよ……めしを食いに行こうぜ」
「そうだな。それがいちばんいい」
アルドゥインは頷いた。たしかに、こんな気分でも腹は減る。それがありがたくもあれば、うっとうしくもあるが、生きているという現実感の助けにはなる。それに《伯爵》のことはさておいて、彼らには仕事がいるのだから。
「どこに行けばいい勤め口があるか、ここで聞いておいたほうがいいな。もっともこんな平和そうな国じゃあどこも定員みたいだけど」
「そのぶんただめしが食えるってもんさ」
アインデッドがまぜっかえした。軽く笑ってアルドゥインは相棒の肩を叩いた。
「そうそう。でも俺はただめしよりもどっかで戦ってたほうが性に合うけど」
「俺だって」
「お前は根っからのいくさ好きだな」
「一兵卒より、部下を持ってたほうが楽しそうだけどなあ。こう、あすこで退け、とか、ここはこう攻めろとか、俺が自分で決めた命令を出してさ、そんでその通りに人間が動いて、それで勝てたらすっごく気分がいいと思う」
アインデッドは長嘆息した。
「大層な夢だな」
「不可能だとは思ってないぜ? 俺は」
「それならそれまでは人生勉強だと思ってあきらめるんだな」
「ちっ。ばかにしやがって」
「してねえよ」
「してるじゃねえか」
「二人とも支度はいいの?」
言い争いになりかけた所で、サライが話しかけてきた。それでこの口論は立ち消えになってしまった。見計らったようなあまりのタイミングの良さに、二人はしばし呆れたものだった。
「おう……」
アインデッドは何となくばつが悪い気分でもごもごと答えた。
「おはようございます」
アトはあいかわらずサライにだけは礼儀正しく挨拶する。他の二人はどうでもいいらしく、一応の丁寧語は使うが、尊敬などこれっぽちもしてやるまい、といった感じである。アルドゥインはまだ、彼女よりも六才も年上ということでまだしも敬意を払ってもらっているが、アインデッドに、ときてはそんな感情などただの一バルスだって動かない様子であった。
それで、アトよりも子供っぽいところのあるアインデッドとはつまらない意地の張り合いになって、いつも二人は「ふん!」とそっぽを向き合うのである。この日もそうなるかと思われたのだが、ふと思いついてアインデッドはあの腕輪をかくしから取り出した。ちょっと手招きしてアトをサライから見えない廊下の角まで呼び出して、手を取って腕輪を乗せた。
「これ、昨日助けた女の子からもらったんだが、お前ならつけていてもおかしくないだろ。やるよ」
アトはそれを受け取ると、びっくりしたように目を丸くした。
「私にくれるんですか?」
「俺が付けていてもしょうがねえだろう。イヤならサライにあげちまいな。でも、ジャニュアを出るまでは見せびらかしたりしないほうがいい」
アインデッドは素っ気無く言ったのだが、予想に反してアトは嬉しそうにアインデッドを見上げて笑いかけた。これにはアインデッドも驚いた――アトが彼にそんな反応をするとは思っていなかったからだ。そうやって笑っていればけっこうかわいいじゃねえか、と身も蓋もないことを彼は考えてしまった。
「ありがとうございます、アインデッドさん」
さっそくアトはその腕輪をはめて、窓からの光にちょっとかざしてためすがめつしてみた。細かい彫金のほどこされた金の腕輪は意外とアトに似合っていた。
「へえ。けっこう似合うじゃねえか」
「本当ですか?」
「あんたにぴったりだよ」
アトはぱっと顔を輝かせた。アインデッドにしてみれば実感半分お世辞が半分だったのだが、アトは額面どおり受け取って素直に喜んだ。これもまた、アインデッドには新発見だった。アインデッドにとってアトはいつもサライのことばかりを気にかけている、全く未知の種類の女のように見えていたから、普通の女の子らしく、プレゼントをもらって喜んでいるのを見たのがあまりにも意外だったのだ。
(ちょっと可愛いとか褒めれば、こいつも俺に突っかかったりしねえんだな)
「アト、アイン、一体何やってるんだい?」
アインデッドの奇妙な感慨はそこで打ち切りになった。アトは慌てて駆け出し、アインデッドもその後を大股で追いかけた。朝食の席は、テーブルをはさんで二人ずつ椅子が置いてあったが、先に来ていたアルドゥインとサライが隣同士に座っていたので、アトとアインデッドは成り行き上隣に座ることになった。
「おや、それ……」
「昨日助けた方からのお礼の腕輪、アインデッドさんがくれたんです」
サライがアトの腕にきらきらと光る腕輪を見とがめると、アトは嬉しそうに左手をサライに差し出して見せた。喜色満面のアトと、その隣でサライにじっと見つめられてなんだかもじもじしているアインデッドを交互に見やって、彼は首を傾げた。隣に座ったアルドゥインに囁きかける。
「ねえアルドゥイン、あの二人、何かあったのかな」
「さあ。俺にはちっとも。腕輪が似合うかどうかについては、あいつがはめてても似合ってったけどな」
「……アインデッドの腕に? 入ったの? あれ」
「ぴったり。サライならもう少し余裕があると思うな」
サライは眉をひそめてアルドゥインとのひそひそ話を終えて、くるりとアトの方に向き直った。
「すまないね、アト。私は君にそういうものをプレゼントしてあげられないから。私からも礼を言うよアイン」
「俺が持っててもしょうがねえからだよ」
アインデッドはぶすっとした顔で言い、朝食に出た木の実のスープをお行儀悪く器に口をつけてそのまま飲んだ。見ると、サライの隣でアルドゥインも同じようにスープを飲んでいた。スプーンが置いてあるにもかかわらず、である。しかしこれが傭兵の流儀というものかもしれない、と思ってサライは黙っておくことにした。しかし、あれでは口の中を火傷しはすまいかと、要らない心配で眉を曇らせるのはいつもどおりであった。
そういうがっついた食べ方をするので、傭兵二人組の食事はきわめて早い。お先に、と言って二人が席を立ったとき、まだアトとサライの皿には半分以上料理が残っていた。しかしこれにももう慣れていたので、残された二人も急かされたわけでなく、ゆっくりと食事を楽しんだ。
一足先に部屋に戻って、アルドゥインとアインデッドは今日中に就職先が決まってもすぐ出て行けるように荷物をまとめはじめた。
「できれば同じ所に雇われるといいな」
脱ぎ散らかしていた服をたたんで袋に押し込みながら、アインデッドはふと手を止めてつぶやいた。アルドゥインがなんとなく驚いたようにアインデッドを見た。だがアインデッドはまたうつむき加減にベッドの上であぐらをかいて、膝のあいだに置いた袋に黙々と衣類や小物を詰め込みだした。
「……こんなとこに一人じゃ、やってらんねえ」
本当に小さな声で、アインデッドはぽつりと言った。初めて聞く、相手の弱音にアルドゥインは今度こそ心底驚いた。
「……アインデッド?」
「なんでもねえ」
軽く首を振って、アインデッドはそれきりアルドゥインのほうを見ようとしなかった。がらにもなく弱音を言ってしまったことを後悔しているらしい。彼がそういうふうにしおらしくしていると、異性でなくとも保護欲をかきたててしまうものがあった。
「二人一緒にいきゃあいいだろ」
しばらくしてアルドゥインがぽんと肩を叩くと、アインデッドは小さく頷いて立ち上がった。