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                                *


 そのころ、誘拐犯たちはアルテミア宮の中庭から建物のなかに入り込んでいた。彼らの計画はある一点を除いてはまず成功だった。その一点とは、実験でさらってきた娘と見張りの二人が仲良く逃げていってしまったことだった。
「どちらにしろ、計画は元々このまま行う予定だったのだ。どうせ殺す予定の娘と裏切り者の事など気にするな」
 ガザーリーはそう言ったものの、心の奥では不安だった。逃げた二人は恐らくこのことを通報するだろう。だが、すぐにそれを否定した。どこまで警備隊が信じるものか。気違いと思われるか、怪しいやつと牢に入れられるのがおとである。彼は風ヶ丘に時間どおりにあらわれさえすればそれでよいのだから。
 そう。ことが成功しようとするまいと。
「ここだ」
 誘拐犯のリーダーが低い声で全員に伝えた。ここめで何事も無くうまくいったのが嘘のようだった。見張りもおらず――いたとしても眠ってしまっているだろうが――誰に見咎められることもなく、王妃の寝室までたどり着いた。
 どっしりとした寝室の扉は予想に反して静かに開いた。
 一人が扉の隙間から、小さな香炉を中に投げ込んだ。煙が中に行き渡ったと思われるまで待ち、そっと扉を開く。煙を吸わないように口許を布で覆い、室内に滑り込む。婦人室ともあって、その室は天井はもとより床まで美しい花鳥の象嵌がていねいに施された見事なものだった。しかし彼らにはその芸術を解する心の余裕がないのが残念とも言えた。
 部屋の窓はしっかりと閉じられており、豪華な天蓋付きの寝台の上では王妃エリスペスが絹の布団にくるまって、静かな寝息をたてていた。命じられた男が彼女の体を抱え上げた。王妃の体はぐったりとしたままだった。
 まだ若いとはいえ、大人の女性であるはずなのにエリスペスは驚くほど軽く、少女のような体つきをしていた。その男がおかしいと思ったときは既に遅かった。彼女を抱えた手にちくりと鋭いものが刺さり、その瞬間に彼は意識を失った。
 エリスペスは身軽に立ち上がり、手を払った。
「貴様、王妃ではないな!」
 リーダーは怒りと驚きのあまり震えていた。王妃はその赤みがかった金色の髪をそっとかきあげた。かつらはするりと取れて、下の青黒色の髪が月光にさらされた。それでなくとも、すでにそれが王妃などではないと彼らには理解できた。身のこなしから動き方、すべてが厳しく訓練された戦士のそれと変わりなかったからだ。
「昨夜はどうも。同じ手に二度引っかかるほど、私は馬鹿ではありませんわ。ねえ、皆さんだって、王妃様をそう簡単にさらわれちゃうわけにはいきませんよね」
 アトは悠然と微笑んでみせた。
 今更引き下がるわけにもいかなかった。アトが正体を現すと同時に、どこに隠れていたのか、いつの間にか広い寝室に完全武装した近衛兵たちが現れて、油断無く剣をかまえながら彼らを取り囲んでいた。
「くそ……貴様は昨日の踊り子……」
 男は歯噛みした。
「踊り子じゃありません。一応これでも元女騎士です」
 アトは思い切り真面目に受け答えした。冗談などではもちろんなかったのだが、さっきの芝居ではそうとは思えなかったほどに子供っぽい。こんな小娘に計画を邪魔されたのかと思うとはらわたが煮えくり返るようだった。
「さあ、命が惜しかったら降参してください。素直にここで喋ってしまったほうが得ですよ。誰に頼まれたんですか?」
 男たちは答えない。
「言うものか!」
 突然、リーダーは走り出した。それに続いて誘拐犯たちが一斉にドアに殺到する。いきなりのことに、近衛兵たちも虚を衝かれた。大急ぎでアトは変装で着ていた夜着を脱ぎ捨てた。その下は動きやすいぴったりしたズボンとブラウスだった。
「待て!」
「そっちにも逃げたぞ!」
「二手に分かれろ!」
「ちいっ」
 誘拐犯たちは二手に分かれて逃げた。というよりは、てんでばらばらな方向へ逃げ出したといったほうがよかっただろう。リーダーが舌打ちした。彼らは焦っていたし、混乱していた。いつの間にか人数が二人増えていたのにも気づかないほどだった。彼らはだだっ広い廊下をひた走った。
 ピイ――ッと、城内に鋭い呼子の音が響き渡った。
 その途端、どこに今まで隠れていたのか、信じられないほど大人数の騎士たちがわっと部屋々々から飛び出してきた。まるでこの事を予想していたかのように全員が完全武装している。
 彼らは必死で逃げた。ほとんど武器を持ってこなかったおかげで、鎧を着ている騎士たちよりもずっと身軽に動けることだけが唯一の救いだった。みるみるうちに引き離し、中庭に向かう廊下に出る。だが、ほっとできたのは束の間だった。
「誘拐犯だ! 逃がすなっ!」
 横合いから声がして、紅い鎧をまとったマナ・サーリアと数人の騎士たちが飛び出してきた。その燃え立つような真紅の髪と赤みがかった瞳は、さながら火炎神ナカーリアを思わせた。
「うわあああああっ!」
 彼らのうち二人が錯乱したようにマナ・サーリアに切りかかったが、一人は胴を、もう一人は首を叩き斬られ、血煙をあげて倒れた。後ろに下がろうとしても、すでにアトと近衛兵たちが追いすがってきている。さっき二人を一瞬で切り伏せた手並みを見ても、彼を相手にするのは賢明ではないと判っていた。
「さがるぞ!」
 リーダー格の男が叫んで、もと来た道を走り出した。仲間たちもあわてて後を追う。
「逃げられんぞ! おとなしく投降すれば命だけは助けてやるが、このまま逃げるのなら保証は無いぞ!」
 近衛兵たちが威嚇するようにすらりと剣を抜いた。広い廊下ではいくら剣をかかげていても互いに傷つく心配は無い。近衛兵たちとマナ・サーリアの間のちょうど真ん中辺りで彼らは身動きがとれなくなった。諦めたように数人が進み出て、武器を投げ捨てて両手を挙げ、床に膝を突いた。たちまち近衛兵たちが飛びかかるように取り押さえ、引っ立てていく。
「くそっ!」
 最後まで残った二人のうちの一人はリーダー格の男だった。彼はマナ・サーリアよりも近衛兵たちのほうがまだ手強くはないと考えたのか、やにわにそちらに向かって走り出した。
「小娘が! 貴様のせいで何もかも台無しだ!」
 誘拐犯の男が剣を振りかざし、アトに斬りかかった。しかし、その切っ先は永遠に彼女に届かなかった。その瞬間、騎士たちの間から飛び出してきた青年と、もう一人残っていた男がその剣を受け流した。月明かりの下に火花が飛ぶ。
 その青年はまるで踊っているようだった。銀色に輝く髪、冷たい美貌。切っ先が月光を浴びて白々と冴え渡る。驚きに目を見張る男の目に、いま一人、少女への攻撃を止めた裏切り者が映った。マントの下からあらわれた、沿海州の浅黒い、端正な顔。そして闇のように黒い瞳――次の瞬間、彼は見とれるまもなく喉笛を切り裂かれ、背中から心臓目掛けて切り下ろされていた。
 ぱっと血しぶきが噴き上がり、よく磨かれた床や真っ白い壁を汚しながら男の体がどうと倒れた。
「けっこうやるな、あんた」
 アルドゥインはにやっと白い歯を見せて笑った。そうすると、目の色も髪の色も肌の色も違うのにどこかアインデッドによく似た愛嬌がそのおもてに浮かぶ。
「君も、なかなか」
 サライは血のしずくを軽く払ってから剣を鞘にしまった。
「これで、全部か」
 マナ・サーリアが捕らえた者たちをつれてゆかせ、こちらにつかつかと歩み寄ってきた。アトが首を振った。
「二手に分かれて逃げ出したので、もう一方を他の方たちが追っています」
「そうか……まあ、もうかたがついている頃だろうな」
「マナ・サーリア将軍!」
 彼の呟きが終わるか終わらないかのうちに、マナ・サーリアを呼びたてる騎士たちの声が反対側の廊下から近づいてきた。
「どうした」
「こちらで追っていた賊どもを全て捕らえました。何人か抵抗いたしましたところ、ティフィリスの傭兵の方が切り伏せてしまったので、一人を除いてあとは死亡いたしました。すぐに投降したものは武装解除して一所に集めてございます」
「ご苦労」
 マナ・サーリアはふっと肩の力を抜いた。
「これで、あとはガザーリーという魔道師を捕らえ、誰に雇われたのかを白状させるだけだな」


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