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「未来……?」
 その言葉を耳にした途端、酔いがいっぺんに醒めたような気がした。そして脳裏には、黒曜石の瞳と絹のような黒髪の少女、レウカディアの姿が鮮明に浮かんだ。
「レウカディア様のことですか?」
「おやおや、かねて噂のルクリーシア姫より先にその名が出るとは、どういった心境の変化かな?」
 ヴェンド公ヘルリに以前言われた忠告と同じことでマナ・サーリアにからかわれていると判っていたが、そんなことはどうでもよかった。「だから、レウカディア様なんですか、マナ・サーリア」
 マナ・サーリアはひとしきり笑ったあとで、もう一度真剣な面持ちに戻った。
「大正解だ。今日はもう日付が変わっているから……六日前で、マナ・サーラの五日だな。王宮魔道士たちから連絡が入ってね。クラインの皇女からの親書だと言って」
「どういった内容で……?」
「これが驚きだよ。正式な皇女の書状で、『我が父、クライン聖帝アレクサンデルが些細なことで我が国の右府将軍サライ・カリフを国外追放の沙汰にしてしまったが、彼には何の咎も無く、ただただ父の嫉妬のゆえである。もしも貴国に彼がいるのだとしたら、父がどう言うかは判らないが、これを取り立て、どうか父には内密に貴国に住まわせてやってほしい』とね。エミール陛下もあの小さい皇女殿下には感服なさっていた」
 サライは瞳を伏せた。そうしないと、涙がこぼれそうだった。
「レウカディア様が……」
「もうすぐ夜が明けるから、謁見の時間になったら、君のことをエミール陛下に早速お知らせしないといけないな。うちのエミール様ときたら、あの話を知った途端に是非君を私の友人として宮廷に迎えたいとおっしゃってね」
 マナ・サーリアは火酒をまた少しついでから、呟くように言った。
「私なんて、あなたに比べたらまだまだ未熟だ」
 サライの言葉に、マナ・サーリアは笑った。
「そりゃあ、私に比べたら未熟者かもしれない。でも、他の者と比べてみたなら、君は優秀な軍人だよ」
「そんな……」
「君は判っていない」
 マナ・サーリアはきっぱりと告げた。
「君は最高レベルのスペルを持っていながらその力を長い間封印し続けている。それなのに、高位の軍人だ。その若さで。これからももっと伸びるだろうな。普通の人間だったらおのれの才能に自惚れて折角の才能を駄目にしてしまう所を、君は自分がどれだけ普通と違うか認識していないからこそ、そうやって謙遜できるんだ」
「そうでしょうか?」
 サライは静かに呟いた。
「ああ。悪い意味じゃない。君は凄い奴だと言っているだけだ。乱世であれば国の一つや二つ、興せたかも知れない」
 マナ・サーリアは立ち上がって窓に歩み寄り、緋色のカーテンを開け放った。昇ったばかりの朝日の光がさっと室内に射し込んだ。サライは眩しげに瞳を細めた。黄金の髪に光がぶつかり、粉々に砕けて、きらきらと細かい光の粒をふりまいた。
「夜が明けてしまったな」
「そうですね」
 夜が明けた、と聞いた途端、自分が昨夜から一睡もしていないことを思い出した。すると急に眠気が押し寄せてきた。耐え切れずに、ディヴァンに横になると、マナ・サーリアが傍に来て、そっと毛布を掛けた。
「眠るといい。疲れているだろう」
「あ……でも……。こんな所で。宿に戻ったほうが……」
「何を言っているんだ。荷物も全部こっちに持ってこさせよう。宿の名は?」
 マナ・サーリアは静かに説きながら、子供にそうするようにサライの髪を撫でた。それでもサライは起きていようとしたが、醒めたはずの酔いも手伝って、やがてうとうとと眠り始めた。
「まあ、ゆっくり寝ていてくれ。君の連れはちゃんと探してあげるから」
 眠っているサライにそう言うと、マナ・サーリアは部屋を出て、音を立てないようにドアを閉めた。それから、警備隊に行くために階段を下りていこうとした。
「閣下!」
 階段を下りてくるマナ・サーリアの姿を見つけて、門番は声を張り上げた。
「何だ。聞こえているからもう少し静かにしてくれ。客人が眠ったところなんだ」
「はっ……申し訳ありません」
 門番はちょっと身をすくめた。
「何かあったのか?」
 マナ・サーリアは、注意したとはいえ眠りはじめたサライを起こしはしなかったかと心配した。
「たった今、本部に駆け込んできた青年が妙なことを……」
「妙なこと?」
「それが、問いただそうとする前に憔悴しきっていて、二人とも仮眠室で眠っています。連れの少女は何も知らないそうで」
 少女、と聞いてマナ・サーリアはサライの言っていたエレミヤの少女のことを思い出していた。
「とにかく、そっちに行くからその青年のところに案内してくれ」
「はっ」
 マナ・サーリアが少女のいる取調室に入っていったとき、眠っていたという青年二人は起きていて、取り調べ官二人を前にして、一人は腕組みしたまままだ眠っているようで、もう一人はむっつりした様子でテーブルを指先でこつこつと叩いていた。
「あー……貴方がマナ・サーリア・ラティン将軍? こいつら話を判ってくれないんだよ。貴方なら判るよなあ」
 マナ・サーリアが入ってきたのを見るなり、髪の色からして、ティフィリス人かと思われる青年は疲れた声で話しかけてきた。
「私がマナ・サーリア・ラティンだ。君は」
「ティフィリスのアインデッド・イミル。こっちがシェスのアト・シザル。んで、この寝てるバカがアスキアのアルドゥイン。もう一人連れがいて……」
「……サライのことか?」
 アト、と聞いてマナ・サーリアは事情を半分察した。
(もう一人連れがいるとは聞いていなかったが……)
 アインデッドは前髪をうざったそうにかきあげた。
「有力な知人って、将軍のことだったのか……。サライはどこにいますか」
「疲れきっていて、今は眠っている」
 マナ・サーリアは短く答えた。まだこの男を信用していいのか判らなかった。アインデッドはアトの顔色をちらりと見て、マナ・サーリアの瞳を真っ直ぐに見た。
「この子も疲れてるんで。休ませてやって下さい。なにせ一晩中監禁されてて、朝っぱらからエミール通りを走ってきたんだ」
 アトは気丈に首を振った。
「私なら平気です。だいたい、私走ってなんかいません。アインデッドさんが抱えて走ってきたんじゃないですか」
「途中からアルドゥインだよ」
 アインデッドは冷たくはねつけ、強引にアトを説き伏せて、マナ・サーリアがそこにいた取り調べ官にアトを仮眠室に連れて行かせた。
「サライは無事なんですね」
 警備隊側の人間がマナ・サーリアだけになった途端、アインデッドの口調がさっきまでの陽気な調子から深刻な様子にがらりと変わった。その豹変ぶりに、マナ・サーリアは内心驚きを隠せなかった。
(ただ者じゃないな……)
「多分、貴方を呼びにいった門番が、俺が妙な事を言っていると言っていたでしょう」
「そうだが、何を言っていた?」
 アインデッドは口の端をわずかにゆがめた。小悪魔的な微笑が浮かぶ。
「サライも揃ってからですね。お話しできるのは」
「何故」
「同じ話を繰り返すのは好きでないものですから。集めて話せばいっぺんで済むことでしょう。養父もそう言ってました」
「随分と教養のある方だったようだな」
「ええ」
 アインデッドはもう一度微笑んだ。マナ・サーリアは最初に感じた、ただ者ではないという感想をますます強めていた。
「君の職業は何だ?」
「傭兵。たまに博打打ちもやります。コロ振りも。体を売る以外だったら何でも仕事にしていますよ。人生何事も経験が物を言うから」
 そう言って彼は軽く頭を振った。その時に、彼ののどもとから金の鎖がのぞいた。
「それは……?」
「ああ、母の形見です」
「見せてもらえないか」
 マナ・サーリアが言うと、断るかと思われたがアインデッドは頷いた。
「どうぞ」
 アインデッドは言いながら、見やすいようにそのペンダントをすくいあげた。彼の瞳の色に似た深い緑の宝石で、掌に乗るとすっぽりと包んでしまえる程の大きさの石を金の台座に取り付けたものだった。それはどこかで見たことがある品だった。
「俺の本当の父が、母に贈ったものだそうです。父親を探す手掛かりにしろと、養父が家を出る前に渡してくれたものです。もしかして閣下、これにお心当たりが?」
「いや。気のせいだったようだ。すまない」
「そうですか」
 落胆したようでもなく、アインデッドは言った。話しているうちに、マナ・サーリアは彼とどこかで会ったことがあるような気がしてきていた。マナ・サーリアの知っている誰かに、アインデッドは似ていた。
「……君の出身はティフィリスか?」
「そうです。ティフィリス市で十五まで育ちました」
「ティフィリス国王を知っているか?」
 少しのあいだ、沈黙があった。
「そりゃ知ってますよ。国民なんですからね」
「君によく似た少年に昔、ティフィリス城で会ったことがある。同じ赤い髪に、緑の瞳をした、きれいな子だった。六年も昔の話だが」
「人違いでしょう。貴方みたいな高貴な方に会うような身分じゃありませんから」
 アインデッドは言いにくそうに答えた。
「人違いか……。ティフィリス人とどの人種の混血でも緑の瞳の子が生まれることはまず無いのだがね。いるとしたらかなり珍しいから二人といるまいと思ったんだが」
「……知りませんよそんなことは」
 アインデッドは何となくそわそわした様子でアルドゥインを見て、呟いた。

 それから何時間かが経ち、陽が完全に昇ってきたころ、マナ・サーリアの小姓がやってきて、サライが目を覚まして彼を探していると伝えにきた。彼は小姓にサライをここまで案内するように言い、たまたま通りかかった警備隊員に、仮眠室で寝ているアトを連れてくるように言いつけた。
「これで君の興味深い話が聞けるというわけだ」
 マナ・サーリアは揶揄するように言ったが、アインデッドはじっと視線を虚空に据えて黙っていた。
「アルテミア宮の近衛兵は何人くらいいる?」
「え……?」
 アインデッドの唐突な質問に、マナ・サーリアは戸惑った。今までじっと黙っていただけに、彼の言葉には予言者めいた響きがあった。そこに、サライが入ってきて、続いてアトがやって来た。サライはアインデッドを見るなりほっとした表情を見せた。マナ・サーリアが知っているかぎり、サライがほんの少しの間に他人にこれほど信頼をおくことはまず無かった。
(それほど、このアインデッドという男は信用できるのか……? 確かに、彼には人を惹きつける何かがあるが。でもそれだけで、用心深いサライが簡単にこの青年を信用してしまうのだろうか……?)
「アイン、君を信用してよかったよ。アトもちゃんと戻ってきたし」
「あったりまえだろ」
「アインデッド、話をしてもらおうか。……それからそこのアルドゥインとかいう人も起こしてくれ」
 マナ・サーリアが促すと、アインデッドは振り向いてうなずいた。
「じゃあ、アトが誘拐されてからの話でいいかな。おいアルドゥイン、起きやがれ」
「何だ?」
 アルドゥインはすぐに起きて、あたりを見回した。
「バカ、この誘拐事件の話だよ。お前も説明しなきゃどうにもならんだろうが。あ、こいつは誘拐した奴らの一員にさせられてて、逃げ出すチャンスを狙ってたんだと。それで俺がアトの見張りを買って出たときこいつも一緒にやることになって、そこで一緒に逃げてきたんだ」
 アインデッドは手短に説明した。
「あの……疑ってる?」
 アルドゥインは頭をかいた。一同の注目がこのアスキア人に集まっていたので、彼は少々気まずそうだった。ともかくも、アインデッドは先に説明しだした。
「アトを誘拐した奴らは十五人くらい。頭がガザーリーとか呼ばれていた。黒魔道師を装っていたけど多分偽物だ。奴らが使ったのは白蓮の粉だったが、ガザーリーは黒蓮だと言っていたから。名前と言葉の訛りから、ゼーア三国のうちどれかに長らく住んでいる者だと思う。で、実際に誘拐を行った奴らは山賊か何かだろう」
「山賊じゃない。たちのよくないごろつきと傭兵のかきあつめだ」
 アインデッドの言葉をアルドゥインは訂正した。それから、アインデッドの話をひきとって続けた。
「実際の司令はガザーリーの上にいる誰かがしているんだが、そこまでは誰も知らない。それから、奴はヤミを装ってはいるが、黒魔道師だ。先月の三旬ごろから今回の誘拐を行った奴らを集めはじめていて風ヶ丘にとめおいていたんだ。鬼火っていうのはその炊ぎの火とかがそう見えたわけだ」
「だが、記憶を抜かれたという話は……たしかに起こったことなんだが」
 マナ・サーリアが疑問を出した。
「ああ」
 アルドゥインは判っている、というようにうなずいた。
「だから。ガザーリーは黒魔道師だって言っただろう。調査隊は全員黒蓮の粉で眠らされて、催眠術で忘れさせられたっていうのが真相」
「しかしよ、アルドゥイン」
 アインデッドは下唇を軽く吸い込んだ。
「だったら何で奴は今回も黒蓮を使わずに白蓮を使ったんだろう……。黒蓮のほうが確実だし、俺がきゃつでもそうするぜ」
「確かに、そうだな」
 マナ・サーリアもサライも頷いた。
「そこがみそなんだ。失敗してもいい、というより失敗したほうが奴にとっては都合がいいみたいなんだ。とくにこの次の誘拐は」
 今度はサライが口を挟んだ。
「どこに出直すんだ? もっと大きな誘拐でも……?」
「そうだ。アトさんのことは予行演習だったんだ。ガザーリーの奴は恐れ多くもこのセルシャの王妃、エリスペス様を狙ってる。それで、俺は逃げ出したついでに密告に来たってわけなんだ」
「エリスペス様をか?」
 大声を上げたのはマナ・サーリアだった。その深い紅の瞳は怒りに燃えていた。サライが慌ててなだめにかかる。
「マナ・サーリア、落ち着いて。まだ始まってもいないんですから」
「そうだぜ。あいつが言っていたから確かだ。誘拐が決行されるのは今夜のヤナスの刻。ガザーリー自身は風ヶ丘にエリスペス様の引渡しに現れる。それまではどこを探したって出てこないと思うぜ」
 アインデッドは落ち着きはらって言った。
「こんだけ話したんだ。俺のこと、信用していただけますか?」
 アルドゥインは黒い瞳で真っ直ぐにマナ・サーリアの瞳を見た。
「嘘であれば即刻、君の首が胴から離れるだけのことだからな」
 マナ・サーリアはうなずいて、しかし冗談でもないことを口にした。少し黙っていたアインデッドがいきなり何か名案を思いついたように手を叩いた。
「なあ、……王妃が誘拐されかけたとなれば、当然セルシャでは警備が厳重になり、黒幕が外国だって事しか判らなければ対外政策も慎重にならざるを得ないだろう。それが沿海州に知れれば沿海州全体が疑心暗鬼になるわけだ。そうしたら、沿海州内で何か起こったときも慎重策をとってお互い干渉を拒むかもしれない……」
「なるほど、そういう考えもあるわけだな。そのどこかの国が近々沿海州に何かしかけてくるとして、我々が沿海州同盟を破ることがあれば、それは長年の均衡を崩すことに他ならないわけだからな」
 マナ・サーリアはすぐに冷静になって、アインデッドの言ったことを考え直してみた。確かに、辻褄はちゃんと合う。
「沿海州が標的ではないとしても、取引先のどこかか……あるいは本当にセルシャを脅かすためか」
 サライが呟いた。マナ・サーリアは窓の外を見て言った。
「今は何時だ?」
 アトが太陽の位置を確認した。
「大体アティアの刻です。夜のヤナスの刻まであと半日と四テルあります」
「緊急配備だな。エミール陛下にまず申し上げて、それから会議だ」
 マナ・サーリアはいらいらとしたようすだった。こと自分の主君のことになると、どうも熱血になってしまうのが彼の癖らしかった。
「大丈夫。今から準備したって早いくらいだ」
 アインデッドとアルドゥインは顔を見合わせ、サライのその言葉にそっと付け加えた。沿海州の出身で、傭兵仲間、ということでこの二人は出会ってまだ数テルしか経っていないのに、すでにうちとけた友人同士のようにふるまっていた。
「それに、向こうは二人ぬけちまってるんだ」

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