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                                *


 マナ・サーリアの私邸は警備隊本部の建物から、歩いて五テルジンもかからない所に隣接する小さな館だった。赤レンガと白壁を基調にした、質素ではあるが洗練された、擬古典様式の建物だった。彼に妻子はおらぬし、既に使用人たちも寝静まっている時間である。月の明かりでわずかに照らされた人けのない廊下を、サライとマナ・サーリアは黙々と歩いていた。
「客間だ」
 マナ・サーリアが言って、扉を開けた。そこではよく磨かれたシャンデリアに灯がともされ、辺りを明るくしていた。サライを連れてくると決めて、用意したのだろう。部屋の真ん中に、黒檀の四つ脚テーブルと、びろうど張りのディヴァンが二つ置いてあった。マナ・サーリアはディヴァンの一方をサライに座るように勧め、もう一方に腰掛けて体を伸ばした。
「小姓たちはまた寝かせたから、たいしたもてなしはできない。起こすのもかわいそうだからな」
「気にしないでください。夜遅くですし」
 サライはおとなしく言い、勧められるままに腰掛けた。
「そういう気分ではないだろうが、寛いでくれ。明朝には食事を用意させよう。――酒は飲むか?」
 そう言いながら、マナ・サーリアはサイドテーブルから切子ガラスの瓶を取り、同じ細工物のグラスに、琥珀色の酒をなみなみと注いだ。それからサライの方をふと見て、気がついたように呟いた。
「そういえば君は強い酒は苦手だったか。答えを聞く前についでしまったな」
 マナ・サーリアは口許に微笑をたたえて、そのグラスを一気に干した。サライはサイドテーブルに置かれたグラスを取った。
「いただきます。せっかくですから」
「そうか」
 自分の使ったグラスを置いて、マナ・サーリアはサライが差し出したグラスに、飲めない彼のことを考えてほんの愛想程度の酒を注いでやった。それから、自分の使ったグラスにもう一度酒を満たした。
「若き友との時ならぬ再会を祝して」
 マナ・サーリアは杯をちょっと差し上げて、緊張続きのサライの気を紛らわせるように言った。それを察してサライは無理に微笑んでみせた。
「乾杯」
 軽くお互いのグラスを触れ合わせて、サライはいくぶん青ざめた唇をグラスに押し当てた。クライン風のほのかに甘い果実酒に慣れた舌には、喉を焼くような沿海州の蒸留酒の味は、いつまで経っても慣れないものだった。
「で……君の用事をまだ聞いていなかった。話してくれ」
 マナ・サーリアが真剣な面持ちで訊ねた。あれこれの説明よりも先に、サライは本題を切り出した。
「助けていただきたい」
「誰を。君をか」
「いいえ。私の連れてきた少女です。クラインで、私が後見人として宮廷仕えをさせてやった子で、スペルの力が高いので軍に移籍した者です。私の身の回りのこともやってくれていて……追放を言い渡されたときもついてきてくれました。その子が、宿で何者かに拉致されてしまったんです。あの子にもしものことがあったら、それは私のせいです。どうか……」
 サライはそれ以上言葉を次ぐことができずに、ただ深く頭を下げた。マナ・サーリアは困ったように笑った。
「おいおいサライ、頭を下げなくてもいいんだよ。それから、ちゃんと話をしてくれないか? 君はどうも腰が低くて困るな」
 マナ・サーリアは優しくサライの頭を上げさせた。
「一体、その子は幾つなんだ?」
「十七のはずでした。名はアト。まだ小さいのに……」
 サライは悲しそうに目を伏せた。そう呟くと、マナ・サーリアが耳聡く聞きつけて苦笑した。
「そういう君は十七のとき精鋭軍の指揮官じゃなかったか?」
「それはそうだけれど、私とは経歴が違います。彼女は精神的にも社会的にもまだ子供です。いくらあの子の力の〈アティア〉が珍しいからといって、高官になっていても、十七なんですから」
 何となくむきになったように言うサライに、マナ・サーリアは微笑んだ。
「とはいえ十七なら娘と三つしか違わないな」
「え?」
 あまりにさりげなくつぶやかれたので、あやうく聞き流すところだったが、サライは目を見張った。マナ・サーリアが結婚したとか、養子がいるなどという話はついぞ聞いたことがなかった。その驚きようを見て、マナ・サーリアは笑って弁解した。少し照れているようにさえ見えた。
「昔の恋、だよ。若気の至りというにも恥ずかしい話だが」
「そんなことがあったんですか……」
 意外な気がしたが、いくら神のように讃えられるセルシャの将軍とはいえ血の通った人間なのだし、自分より十七も年上であれば当然恋の一つや二つはしているはずだ、とサライは考え直した。
「……下世話かもしれませんが、あなたに奥方はいないはずですね。その方とは結婚したんですか、マナ・サーリア?」
「いや、結局彼女とは結婚できなかった」
 マナ・サーリアはまた酒を注ぎ、サライに二杯目をすすめたが、サライはまだ一杯目も少し口を付けただけだったのでそれは何となく居所を失ったようにテーブルに置かれてしまった。
「亡くなられ……たんですか?」
「はは、まだ死んではいないさ。時々噂も聞くしね」
 気遣わしげに訊ねたサライに、マナ・サーリアは快活に笑いかけた。
「私たちは本気で愛し合っていたし、別れる意志もなかったが、いかんせん身分も国も違っていたのでね。結局は双方同意の上での別れだった。娘のことは、ずっと後になってから知ったことだ」
 マナ・サーリアは懐かしむように瞳を閉じた。サライは懐かしむことのできる過去を持っている友人をうらやましいと感じていた。彼の過去といえば、悲しみの涙と血にまみれているだけなのだから。
「それはそうと、助けてもらえないでしょうか」
 サライがもう一度話を戻すと、マナ・サーリアの表情がふと暗くなった。
「すまないが私一人ではどうすることもできない。ただの誘拐である以上、ここの警備隊に任せるしかないんだ。できることといえば、せいぜい捜査を徹底するよう命じることくらいだ」
 きっぱりとマナ・サーリアは言い切った。サライは冷静に考えて、彼の言うことは尤もだと思っていた。
「そうですね。私の考えが甘かった」
 言葉の後に、やけのように酒をあおった。たちまち、喉がかっと焼けるような酒の味が広がった。もともとすぐに酔いが回ってしまうタイプである。眠さも手伝って、頭の奥が痺れてきていた。
「すまない。私とて、決して君を嫌っているわけではないし、それに……」
「それに、何です?」
 自分でもわかる位、酔った喋り方をしていることに気づいて、サライは内心びっくりしていた。年上で、頼りたくなるマナ・サーリアがそばにいるから、自分は安心しているのだろうか……。
「君は素晴らしい君主に仕えることになるだろうな」
 呆れたような、それでいて優しい口調だった。
「どういうことですか。私にはもう、仕えるべき君主なんて」
 マナ・サーリアはその言葉を遮って続けた。
「現在のクライン皇帝か。あれはもう、若輩と近隣諸国から言われているうちのエミール陛下だって見捨てているからな。私が言いたいのは未来の話だ」
 マナ・サーリアはそう言って意味ありげに笑うと、三杯目の酒をすすった。

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