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     誇り高きその炎
     全てを灼き尽くす浄めの炎
     全てを裁きたもう激しき炎
     その名はナカーリア
         ――火炎神の讃歌




     第三楽章 炎の走舞曲




 そして、話はしばし前に立ち戻る。
 アインデッドがアトを拉致した男たちを追っていたとき、サライは市中警備隊の本部があるゾフィア城前に向かっていた。既にひっそりと静まり返った大通りは、日中の騒々しいくらいの生活感をすっかり失い、青白い月の光ばかりがそこを照らしている。
 夜も水を噴き上げつづける噴水の音がその寂しさを一層かりたてるようだ。それ以外の音は遠い潮騒だけ。その中にサライの、固い敷石の道を走り抜けていく足音ばかりが高く響いている。
 エミール通りを真っ直ぐにゆけば、ゾフィア城に続いていく。その門前に衛兵詰所があり、そこが市中警備隊の本部になっていることをサライは以前エミール王の即位式の祝賀使節として訪れたときに見ていたので知っていた。しかしそれぐらいならば、アインデッドだって知っていただろうが。
 思えばこの九年、旅行らしい旅行もしたことがなく、国外に出るといえば何かの使節の護衛として、またはその使節として訪れる以外になかったとサライは思った。そういう時は途中の宿も目的地での宿泊も、すべて国のほうで手配され、ただ行くだけの安穏な旅だった。つまりはサライにとって、道中盗賊にあう心配があり、一夜の宿も自分の足で探さねばならない〈普通の〉旅といえるものは、良きにつけ悪しきにつけ、これが初めての経験だったのだ。
(だとしたら私はとんだ世間知らずだな)
 サライは走りながら自嘲した。たった一才違うだけなのに、十六才からこのかた流れ者の傭兵として暮らしてきたアインデッドは手頃で安全そうな宿を一目で選び、人々の話のなかにも簡単に入ってゆける。よくよく考えてみれば、その点ではずいぶんとアインデッドに助けられていたのだ。最初にラナク川で顔を合わせたときから。あの時アインデッドの申し出を断って、そのまま二人だけで旅を続けていたらどうなっていたことか。サライはちょっと考えてみてやめた。
(どちらにしろ、あまりうまくは行かなかっただろうな。アインデッドみたいに世間慣れしてないんだから)
 ふと、誘拐犯たちを追っていったアインデッドが気になった。一人であんな中にもぐりこんでいって、果たして無事だましおおせることができるだろうか。
(大丈夫……アインは腕が立つし、敵に囲まれても切り抜けるだけの機転の持ち主なんだから……)
 自分の心の中の不安を振り払うようにサライは頭を振った。半テルほど走ったところで、やっとゾフィア城前の警備隊本部の前に着いた。門は閉まっていたが、門前の詰所にはまだ不寝番の衛兵たちがいた。サライはそこまで来ると、力なく窓を叩いた。何度か叩いたところで、やっと一人が気づき、詰所から出てきて走り疲れたサライの体を抱き起こしてくれた。
「どうしたんだあんた、大丈夫か?」
 彼に続いて何人かが出てきた。
「……ええ……私はいいんです。それより……連れの少女が宿で誘拐されて……」
 荒い息づかいと一緒にこれだけ言うと、サライは落ち着こうと目を閉じた。衛兵たちに連れられて、建物内の一室に案内され、事情を聞かれた。アトを拉致した男たちを、アインデッドが追っていることも話した。
「誘拐事件か……ここ数年はなくなっていたのに」
 担当にまわった警備隊員が呟いた。
「犯人は風ヶ丘に向かっていきました。宿屋で聞いた話なんですが、鬼火と何か関係があるんじゃないでしょうか」
 鬼火、と聞いて警備員の顔が少し引きつった。調査に向かった者たちが何者かに眠らされ、記憶を抜かれていたことを思い出したのだろう。
「だがそれと誘拐と、どういう関係にあるかはわからないだろう。夜が明けたら捜索を開始するから、それまで仮眠室で眠ったらどうだね。こんな夜中なんだ。我々は仕事だから眠るわけにはいかないが、君は被害者だろう。宿屋に戻るなりして体を休めたら……」
「あの……」
「何だね。まだ何か?」
 ぶっきらぼうな言い方だった。サライは小さく息をついて、目を上げた。
「いえ、そうじゃありませんけど……ラティン将軍にはお会いできないでしょうか。もちろん夜が明けてからで構いませんが」
 警備員が目を見開いた。
「何を言い出すかと思ったら……将軍閣下はたしかに警備隊を指揮していらっしゃるがね、わざわざここまできてあなたの話を聞くほどお暇な方じゃあないんだよ。あなたが将軍閣下の親戚か、ご友人とかいうのならともかく」
 とげのある言い方を、警備員はした。まあそれは、当たり前の反応だったが。サライは薄く微笑んだ。
「そうですね……三年ほど前にエミール陛下の御即位の際、私がクライン使節の一人として来たときに、マナ・サーリア将軍と御前試合をして、それ以来文通を続けていた、というのは友人の範疇に入りますか?」
 サライは笑ったまま言った。警備員がまた顔色を変えた。その時から彼は、クラインのサライ・カリフは世間の人々が言うような人のよい男ではなく、むしろ気に入らない相手には容赦なく攻撃を仕掛けてくる人物だと知っている幸運な数人のうちの一人になったわけであった。
「そんな冗談は言わないように……」
「申し遅れましたが、私はサライ・カリフ……クライン右府将軍だった者です。今はただの平民に落とされましたけれど。確かな手形もここに……」
 もう一度、相手の顔色が真っ青になった。セルシャの宮廷人や軍人の中でもサライは有名だった。特に、三年前の御前試合はまだ人々の記憶に新しいところであった。
「朝になったら会いたいのですが、だめですか?」
 サライは静かに言った。
「たっ……ただいますぐ、将軍がよろしければ!」
 担当は慌てて立ち上がり、逃げるように走り去っていった。
 セルシャの将軍、マナ・サーリア・ラティンは〈中原一の武勇者〉や、〈火炎の将軍〉などの異名をとる猛将であった。もとはティフィリス人だったのだが、セルシャの前王ローベルトに剣を捧げ、彼をしてセルシャにこの人ありとまで言わしめたほどの信頼を受けている。
 その武勲は遠くは島国のロスでも伝えられている。世界中のティフィリス人の中でも、サーガとして残っている建国の英雄王アインデッドの他に名を広く知られているティフィリス人といえば、彼ぐらいしかいなかっただろう。
 三年前にセルシャ王エミールの戴冠式に出席し、その場の座興として、サライはマナ・サーリア・ラティンと剣を交えたことがあった。その当時は、サライはまだ若干十八才の精鋭軍隊長で、十以上も年嵩で、幾つもの戦いを経験しているマナ・サーリアに十合ほど打ち合った後に負けてしまった。
 それ以来二人が会うことはなかったが、手紙をやり取りする親しい友人としてつきあっている。セルシャで頼ることができる人物といったら、まっさきにマナ・サーリアの名が思い当たる。
 担当が出て行ってから数テルジンが経ち、近づいてくる足音をサライは認めた。
「久しぶりだなサライ将軍! その後変わりはないか?」
 セルシャの将軍、マナ・サーリアは真夜中にたたき起こされただろうに、嫌な顔一つせずにこやかに部屋に入ってきた。勇猛果敢で知られる彼の容姿は、巷で噂されているような腕力だけが取りえの醜男ではなく、すらりとした筋肉質の身体に、鋭い赤茶色の瞳、橙色がかった赤い髪、というなかなかの美丈夫であった。
 サライは立ち上がり、一礼して答えた。
「今の私はただの平民です、ラティン将軍」
 マナ・サーリアの眉がふと曇った。
「本当だったのか」
「はい。ですから本当は、こんなことでお呼びたてできる立場ではなかったのですが。すみません」
 マナ・サーリアはそれを聞いてくすっと笑った。
「そんなことで私が友人を見捨てるとでも思うか? 積もる話もある。こんな所ではなんだ、私の屋敷に案内しよう」
 サライははっとしたように顔を上げて、彼の顔を見た。きりりとした目元に、優しい笑みを見つけた時、思わず涙が溢れてきた。マナ・サーリアが見たのは、一回りも年下で、弟か子供のような友人が、美しい顔を少しゆがめ、宝石のような薄紫の瞳から涙を溢れさせるところだった。
「どうかしたのか? 何か悪いことでも……」
 そっと肩に手をかけると、サライは激しく首を振って否定した。
「そんなことでは、ないんです。……違います。……ただ、あなたがそう言ってくれたから……今は一人ではないんだと、そう思ったら……。すみません、マナ・サーリア。泣くつもりは、なかったんです」
 そう言いながら、サライはまだすすり泣いていた。マナ・サーリアはとりあえず泣き止むまで待っていた。
(一体どれくらい長い間サライは孤独だったのだろう……突然変異として生まれて。そうだ。生まれたときから彼は一人だったんだ。他に同じものなど一人としていない。可哀想に……)
 その、泣いていてもなお美しい青年の顔を見つめながら、マナ・サーリアはそんな思いを巡らせていた。しばらくしてから泣き止んだサライは、涙に濡れた瞳でまっすぐにマナ・サーリアを見つめた。彼はサライの背中を押して、取調室の外へ促した。
「話は私の部屋で聞こう。こっちだ」
「ええ……」


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