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                                       *


 寝苦しさに、アトは目を覚ました。
 甘ったるく、むせかえるような匂いの煙が部屋に立ち込めはじめていた。火事でも起こったのかと訝しんで、アトは起き上がった。しかし、火事だとしたら煙がこんな匂いのはずが無い。ベッドから降りると、床がぐるぐると回って、溶けていくように感じるほど強い目眩に襲われた。そのまま、壁にもたれかかり、床にくずおれた。
 意識ははっきりしていたが、体が完全に麻痺していて声も出せなくなっていた。まばたきできない瞳から涙がこぼれる。程もなく、小さな金属音と共に部屋の鍵がねじ切られた。音も無くドアが開き、先刻の男たちがするりと入り込んできた。
「よく眠っているな」
 ぴくりとも動かないアインデッドとサライに鋭い一瞥を投げてから、彼らの頭とみえる男が言った。明らかにアトを狙っているらしい。二人には目もくれず、五、六人の男がアトを抱え上げ、窓辺に運んだ。
 ここから落として殺す気なのか、とアトは思い、必死で体を動かそうとした。
「ぐずぐずするな」
 頭の男が命じ、窓が開けられた。そして一瞬の浮遊感に次いで、落下。アトの体は下で待機していた男に抱きとめられた。アトを連れ出した男たちは次々と窓から外に逃げ出した。最後の一人が出て行った瞬間、アインデッドは素早く起き上がり、窓から身を乗り出して、彼らの走り去った方角を見定めた。サライも既に起きていて、マントを羽織っていた。
「狙いはアトだけか」
 アインデッドは愛用のレイピアを掴んだ。
「俺はあいつらを追う。お前は?」
「ゾフィア市の警備隊に連絡する。ここに有力な知り合いがいるんだ」
「それならさっさと行けよ。それにしてもなんでアトだけがさらわれたんだ……? アトも騒げばいいのに」
「動けなかったんだろう。この白蓮の煙は何かの作用で、酒を飲んでいると効かないから、私たちは平気だったんだよ。とにかく、早くしないと見失うよ」
 サライは少ない荷物を抱えて窓から飛び出し、アインデッドもそれに続いた。二人は正反対の方向に走り出した。アインデッドはすばらしい速さで駆けていった。月明かりのおかげで、白黒ではあるものの、彼らの姿ははっきりと見えた。
 アインデッドは記録的な速さでエミール通りを走っていく男たちに追いついていった。走っている間に、彼は黒いマントを顔を隠すように巻きつけた。そしてそのまま集団に紛れ込んだ。彼らは通りを抜けて、風ヶ丘の中に入っていった。
 しばらく山道を進んで、うっそうと繁ったシダをかき分けていくうちに、一軒の山小屋にたどり着いた。何年も人の住んでいない様子であったが、その小屋の前にかがり火を焚いている人物がいた。魔道師のようないでたちであった。男たちはアトを地面に降ろすと、その男にひざまづいた。
「どうだ。簡単であったろう」
 その男が言った。若いとも年老いているともつかない声であった。
「はい」
 男たちの頭が答えた。
「黒蓮の粉の効果はてきめんでした。この娘の連れの男たちは全く目を覚ますこともございませんでした。全く、ガザーリー様は素晴しい物をお持ちだ」
 アインデッドは思わず吹き出しそうになった。そして、笑い出したい衝動を必死で抑えてますます頭を低くした。
(白蓮と黒蓮の見分けもつかねえとは……こいつらよほどの馬鹿だ。それにあいつ魔道師のくせに……きっとギルドの人間じゃねえな。ヤミの奴だ。大体、ギルドで資格を取った者なら、見ただけで判る物が使っても判らねえときた。いや待て……そんくらいはヤミでもやってりゃそのうち判るもんだ。こういうバカなら気づかねえと思っていいかげん言ってやがるんだろう)
 そう考えながら、アインデッドはアトのほうをちらりと見た。彼女はいつの間にか、麻痺状態から、昏睡に陥っていた。このぶんなら、ほうっておいても一テルもあれば目を覚ますだろう。
「これで、私の言ったことを信じるな?」
 ガザーリーの言葉に、全員が大きくうなずいた。
「して……この娘を選んだ理由は?」
「はあ。市内の宿屋で見つけました。連れの男が二人いまして、ちゃんと効き目があるか試すには丁度良さそうでした。それにこの娘は大層踊りが上手いし、このとおり顔立ちのよい娘ですので、いい土産だと思いましてそれで」
「うむ……そんな理由でか。連れの男というのはどのような者たちだったのだ。腕が立ちそうだったのか?」
「いいえ。女のような男と、ティフィリス人の傭兵の二人です。それほど腕が立つようには思えませんでした。特に女みたいな顔のほうは色子かもう一人の愛人ではないかと思うほどでしたし」
(サライが聞いたらいくらあいつでも怒るだろうな。このせりふ)
 アインデッドはうつむいてその様子を想像してくすくす笑った。
「まあそれなら大丈夫だろう」
 ガザーリーと名乗るにせ魔道師はため息ついでに言った。
「では計画をもう一度説明するぞ。明日の夜ヤナスの刻にこの黒蓮の粉を使い、まずゾフィア城の衛兵を眠らせる。そのすきに侵入し、同じようにアルテミア宮にいる王妃エリスペスを拉致し、またここに戻る。その時王妃を傷つけてはならん。そののち私に王妃を渡せば約束どおり金二百万ターラーをやる。判ったか?」
 男たちはうなずき、ガザーリーは満足そうに笑みを浮かべた。たった一人だけ、真っ青になった者がいた。
(冗談じゃねえ。王妃様を誘拐しようっていうのか、このガザーリーとかいう奴!)
 アインデッドはアトのことはともかく、巻き込まれてしまった事件の重大さを今更ながらかみしめていた。
「では、それまで街で楽しめばよい。で、この娘は縛り上げてここに閉じ込めておくか。見張りは誰がやる」
 そう聞かれても、誰もすすんで見張りをやろうという者はいなかった。
「誰もおらんのか」
 ガザーリーの声の調子は苛立ちを隠していなかった。アインデッドは迷わず手を挙げた。すると、もう一人がゆっくりと手を挙げた。
「まあ、二人で充分だな。一緒に見張っていろ」
「はい。お任せください」
 そう言いながら、アインデッドは心の中でくすりと笑った。こうまで上手くいく事は滅多に無い。アトを山小屋のなかに押し込み、意気揚々と去っていく彼らと、見張りに立候補した隣の男を代わる代わる眺めながら、次の行動を考えていた。
(まず、この運の悪い野郎をどうにかしてからだ。アトを助けたらその足で警備隊のところに行って、サライと合流しないとな)
「なあ、あんた退屈じゃないか?」
 突然思考を中断されて、アインデッドは相手を睨みつけた。
「何だよ……考え事の最中に声をかけんじゃねえよ」
 その声と、きつい眼差しに、相手は少しひるんだようだった。浅黒い肌と黒髪で、沿海州の人間だと判る。
「あ、ごめんよ。あのさ、その……あの女、どうせだったら俺たちでいただいちまおうぜっ、て、それだけなんだが」
 なんて奴だ、とアインデッドは思った。
「お前女なら何でもいいのか? あんなのは女のうちに入らねーよ。まだちびだぜ?」
「でも、どうせおかしらがそのつもりでさらってきた女なら、今から何したって罰はあたらねえよ」
「俺は断る」
 アインデッドの理論では、どんな理由があろうと、女を相手の承諾なしに抱くのは恥じるべきことであった。そんなわけで、彼はだんだん苛々してきていた。
「じゃあ、お頭とガザーリー様には言わないでくれよ?」
 そう言って、男はまだぐったりと目を閉じているアトを小屋から引きずり出した。アインデッドは相手の注意が完全にそれるまで待った。
(別に俺は関係ないと言いたいところだが、気分が悪いし。アトに何かあったら俺のほうがただじゃ済まないだろうからな……)
 アインデッドはゆっくりと立ち上がり、マントの下に隠し持っているレイピアに手をかけた。相手は少女の服を引き剥がそうとしている所だった。それに夢中になっていたために、
彼は忍び寄ってくる気配に直前まで気づかなかった。
「何だよ、やっぱりあんたも……」
 その男は笑った。アインデッドはちょっと変な気がした。それは妙に不自然な感じのする笑顔だったからだ。
(なんだ……こいつ)
 だが彼にためらいはなかった、
 銀色の線が空を切った。そして、空気を鋼のぶつかり合う音が切り裂く。
「なっ……」
 アインデッドは目を見開いた。男はアインデッドのレイピアを刀子で受け止めていた。一瞬ひるんで、アインデッドは思い出したようにとびすさり、油断なく剣を構えなおした。男は刀子をかくしに仕舞いこんで両手を挙げた。
「待った待った。俺らが争う必要はこれで無しだ」
「はあっ?」
 思わずアインデッドは素っ頓狂な声を上げてしまった。男はかまわず話を始めた。
「まず何で俺がここにいるかってことから始めるけど、俺は傭兵で、わりのいい話があるって噂を聞いてあの魔道師のおっさんに誘われたんだ。そしたら、あんたも聞いたあの話だろ? びっくりしてさ。でも密告したらあのおっさんに殺されそうだし、だから今日まで待ってたんだ。で、あんたと二人であの女の子の番を言い付かっただろう。これはチャンスだって思った。ああいうことをして、相手もやろうとしたらその場で殺してその子連れて密告に行く、俺を止めようとしたらまだましな奴だから説得しようって」
「てめえ……俺を試したってわけか」
「怒らないでくれよ。あんただって傭兵ならそれくらいわかるだろ」
「……」
 アインデッドは剣をくるっと回してすとんと鞘に落とした。
「まあいいさ。俺はその女の連れでな。ティフィリス人の傭兵ってのが俺だ。女みたいな顔の男ってのが今警備隊まで走ってる。それにしてもあのにせ魔道師……なんてこと考えてやがるんだか。で、お前名前は何て言うんだ。俺はアインデッド」
「アインデッドか。名前負けだな」
「うるせえ。てめえは何だ」
「俺はアスキアのアルドゥイン。同じ沿海州だな」
「ああ」
 アインデッドはうなずいた。それが人種的特徴なのか、沿海州の人間というだけで、妙な連帯感が生まれてくる。
「ともかく、こいつを連れて警備隊にいかねえと。こっちの話を聞いてもらわねえとはじまらねえ」
 まだ眠っているアトの衣服を直していましめを解いてやり、アインデッドはその体をひょいと抱え上げた。アルドゥインがちょっと首を傾げて訊ねた。
「呼び捨てさせてもらうがアインデッド、その子はお前さんの何だい? やっぱり恋人か何か……」
「馬鹿言うなよ」
 アインデッドはびっくりして激しくかぶりを振った。
「ただ事情があって、この子のご主人と旅をしてるだけだ」
「へえ」
 アルドゥインはそれ以上立ち入った質問はしなかった。
 日の出までまだ充分時間はあった。夜通しざわめき続ける遊郭以外の街は、まだ深いまどろみの中に沈んでいて、そこを走り抜けていく二人には気づかなかった。アインデッドが目指していたのは、ゾフィア城の門前に配された市内の警備隊の本部だった。途中にあった噴水の所で小休止を取った。噴水のふちに腰掛けると、アインデッドは水をすくってふりかけ、アトの頬を軽く叩いた。
「アト、アト! 大丈夫か」
 アインデッドが何度か呼びかけると、アトはやっと意識を取り戻した。乾いた唇が何か言おうと小さく動く。
「……」
「何? もう一回言ってくれ」
「助かった……ですか? 私……」
「そうだよ。あんたがさらわれるのを黙って見ててごめんな。でもおかげで重大な陰謀を阻止できそうだぜ」
「どういうことですか?」
「後で話す。サライが警備隊本部に行ったんだ。サライと合流したら、まとめて話すからそれまで待っててくれ」
 アトは小さくうなずいて、また目を閉じてしまった。今度はアルドゥインがアトを抱え上げると、ゾフィア城の方角を目指して走った。夜が明けて、警備隊本部の門前にある詰所にいた衛兵の一人が何気なく外を見たとき、エミール通りを走り抜けてくる人影を見つけた。
 少女を抱えている男と、もう一人の男。二人とも黒いマントをまとっている。二人はかなり長い間走ってきた様子で、門の鉄格子にもたれかかって座り込んでしまった。抱えられていた少女が、何事か話しかけている。
 何人かがあやしんで、詰所から出てきた。衛兵が声をかけようとしたとたん、二人がぱっと振り向いた。一人はティフィリス人らしく、炎のように赤い、つややかな髪をしている。もう一人の青年は一目見てアスキア半島系の沿海州人と判る彫りの深い顔立ちで、つやのある黒髪と黒目、張りのある浅黒い肌をしていた。黒曜石のようにきらきら光る黒い瞳が印象的だった。二人ともタイプは違うがなかなかの美青年である。少女の青黒色の髪と瞳は、一見すると黒髪のようにも見える色で、これまた美少女だった。
「ここに……昨日の夜、金髪の男が来ただろう」
 彼らが息を呑んで見つめていると、苛々したような声で赤髪の青年が言った。
「は……?」
「名前はサライ。サライ・カリフだ。そいつを呼んでくれ。アインが呼んでると言えば判るはずだから……」
「重大な話なんだよ」
 アルドゥインが横やりを入れた。それには構わず、アインデッドは要点だけを告げた。
「王妃が……エリスペス様が狙われてるんだ」


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