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                                  *


 娘の態度につられて、アインデッドも思わず身構えた。
「一度それで市の警備隊が山に入っていったの。で、鬼火を見たんだって。でもそうしたらみんな次の日、丘の頂上で眠っていたのよ。鬼火を見てから何があったのかなーんにも覚えていなくて。やっぱりこれって不思議よね」
「確かにな」
 アインデッドはうなずいた。彼は信心深い沿海州の男にしては珍しく、神には困ったときのなんとやらばかりで、悪霊のたぐいなどまったく信じてはいないが、そういった話自体にはけっこう興味のあるタイプだったのだ。
「それはいつぐらいから?」
「そうねえ……ルクリーシスの二旬くらいからかしら。噂がたちはじめたのは。だからもう少し前からだったと思うわ」
 ちょっと首を傾げて考えてから、娘は答えた。まだもう少し話していたいようすだったが、主人がいいかげんにしろ、というように目配せをして寄越したので娘は渋々といった様子で立ち上がり、アインデッドにウインクしてそこを離れていった。
「まだ聞きたい話があったら、あとで降りてきてよ、ティフィリスの傭兵さん。エスタに用があるって言えばすぐ判るから。別の場所でもかまわないわよ」
「そいつぁありがてえや」
 アインデッドはにやりと笑った。エスタはセルシャ美人の例に漏れず、なかなか端正に整ったはっきりした顔立ちの女性だった。女性との関係だけに限らず、誘われたら断らないのがアインデッドのモットーである。機会があるならなるだけ楽しんでおかなければ損だという考えがしっかり根付いてしまっているといったほうが良さそうだった。
「アインデッド……面倒は起こさないでくれるか?」
 サライはかなり冷たく言った。アインデッドは無邪気な微笑を浮かべた。
「何が?」
「……いや、なんでもないんだ」
 相手にまったく自覚がないのなら、言ったとしても無駄である。サライは急に疲れてしまった。
「なんだよ、気味悪いな。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ。俺はそういうのがいちばん嫌いなんだから」
「だから、つまり……」
「つまり?」
 サライはどう言ったものかと思った。
「情報収集は結構だが、厄介ごとに首を突っ込んだりしないでもらいたいな、と、それだけだよ。自分で言ってたじゃないか。自分は災いを呼ぶ男だって。ごたごたに巻き込まれるのは嫌だからね」
 アインデッドは子供っぽくほっぺたをふくらませた。
「俺がまるで手の付けられねえ悪ガキみてえな言い方だな」
「実際そうなんだからしかたないだろう」
「………」
 アインデッドは反論しなかった。憤慨のあまり何も言えなかったのか、はたまた思うところがあって黙ったのか、それは余人の図り知るところではない。
 それからしばらく二人は黙々と酒を飲み続けていた。アインデッドはなんだか、一才年下のサライに子供扱いされたのがよほどこたえたらしく、酒をあおるピッチも早くなっていた。
 一方、アトはといえば、これは常連客や宿泊客の男どもに質問と賛辞を次々浴びせられているところであった。
「へえ、君エレミヤ人なんだ。だからそんなにきれいな髪なんだね」
「はあ……」
「踊りが上手かったけど、舞踊手をやっているとか?」
「いいえ。あれは村で教えられた祭りの時の踊りです。だから私と同じ村の女の子はみんな一通り踊れるんです」
 アトは全部の質問にいちいち丁寧に答えていた。人口の少ない村で十六まで過ごし、それからカーティスに出ても女官だけの双子宮に仕えて、そのあとは恋愛沙汰とは無縁の軍隊に入っていたもので、自分がなぜこんなにも質問攻めにされているのやら、彼女にはさっぱりわからないのだった。
「じゃあそろそろ引き上げるとするかな。おやじ、いくらになる」
「ええと、カディス酒ひとつぼにアーフェル水一杯、魚の煮込みが三つですから……千六百ターラーです」
「へえっ。安いな」
 アインデッドはかくしから金袋を取り出しながら呟いた。
「そりゃまあ、いいものを見せてもらいましたからね」
 おやじは快活に笑うと腹を揺すった。
「おいサライ、アト、勘定は済ませたぜ……と」
 アインデッドは困ったように前髪に手をやった。サライはすぐに気がついて立ち上がったのだが、アトは男どもに囲まれてどうにも身動き取れなくなっていたのだ。
「……あの子、どこまで本当にお人好しなんだ?」
「私にきかないでくれ」
 サライはむっとしたように言うと、人ごみをかきわけてアトのところに向かった。
「アト、私たちは先に部屋に戻ってる。夜遅くなる前に戻って来るんだよ。いいね」
「え、あ、サライ様!」
 アトはあきらかに狼狽した様子で腰を浮かせかけたが、男たちがまあまあ、と笑って引き戻した。それでアトはまたチャンスを失って座ることになってしまったのである。つれてこずに戻ってきたサライにアインデッドはぼそりと言った。
「お前、保護者ならちゃんと連れて戻ってこいよな」
「君に頼むよ。私はああいう場面には不慣れで」
 サライはこともなげに言った。ちっ、と小さく舌打ちして、アインデッドはサライと交代した。さも嫌そうではあったが、ひとに頼まれるとなんとなく悪い気がしないのである。彼は大股に近づいて、アトをどうやって誘おうかとさっきから取り巻いている二人の男の一方の肩を叩いた。
「おいあんた」
「え?」
 振り向いた男の耳元にすばやく口を寄せて、いかにも悪党らしくアインデッドはささやいた。
「悪いことは言わねえ。このお嬢ちゃんはよして、他に行きな。それとも俺とあの……あすこに立ってる俺の連れと、一晩中剣舞を踊りたいか? けっこう俺たち、剣には自信あるぜ……?」
 男はぞっとしたようにアインデッドの顔を見つめ、そのエメラルド色の瞳が刺し貫くような険しいものを帯びているのを見て弾かれたように立ち上がった。
「お、お、おい、ヴァン、帰らないか」
「なんだよいきなり……」
 ヴァンは不審げに連れを見やり、その視線の先にいるティフィリス人の傭兵と、腰のレイピアに軽く手をかけた彼の目がちっとも笑ってなどいないのを見た。それで彼は何もかも理解したようだった。
「そうだな、は、早く寝ないと明日にさしつかえ……」
 二人は逃げるように店を飛び出してしまった。店内にいた客たちがびっくりしたように彼らを見る。アインデッドはさっきまでの剣呑そうな表情はどこへやら、陽気に笑いながらアトに話しかけた。
「さてアト。お前にも言っとかなきゃな。あんな男どもは律儀に相手してやるこたあねえ。尻の一つや二つ蹴飛ばして、さっさとふりゃあいいんだよ」
「……そのようですね」
 アトはおとなしく答えた。そんなことがあって、三人は部屋に戻った。
「それにしても鬼火の話って、なんだろうな。山賊じゃねえってんなら何があるんだろうな。それに調査に出たやつらが記憶をなくしていたとか。変なことも起こるもんだな」
 それが部屋に戻ってからのアインデッドの第一声だった。サライとアトは黙ってうなずいた。
「ゾフィア市が古戦場だったなんてこともないですしね……。そうだったら人魂ってことで話は終わりなのに」
「で……君はあのエスタさんのところに行くわけ?」
「何だよ、いきなり。そんな怒った顔するなよ。お前怖いんだよ――そういう目をするとさあ」
 アインデッドは困ったようにサライを見た。
「いけねえか? お前がどうかは知らんけど、誘われたら断らないのが男ってもんじゃねえか。相手がそこそこ美人ならなおのこと」
「君の奥さんになる人の苦労が思われて泣けてくるよ」
 サライは突き放したように言った。アインデッドは悪びれた風もなかった。
「俺、結婚したら他の女には手は出さねえよ。いっつも向こうから惚れてくるが、結婚するなら俺が惚れた女じゃなきゃな。まあ、そう思った女とはもう会えねえだろうし、今はそんな相手がいるでもないから関係ないけど」
「ああそう……。ところでアインデッド、あそこにいた人たちで、何か不気味な一団がいなかったか?」
「あ? ああ、隅っこにいた奴らか。確かに変ではあったな。なんか、こっち見てはひそひそ喋って。何なんだろうな、あいつら。大方アトにでも気があったんだろうが」
「それって……」
 アトは何か言いかけたのだが、サライは軽くうなずいた。
「それだけならいいけど。おやすみ」
「おやすみ」
 アインデッドはそう言って、もう一度ベッドに仰向けになった。いつでも彼に超能力的なまでの予感をもたらす第六感は、何かが危険だと警鐘を鳴らしつづけていたが、彼はあえてそれを仲間に伝えようとは思わなかった。
(大体。俺はセルシャじゃお尋ね者じゃない。ダリアかティフィリスならともかく。それなのに俺たちが悪いことに巻き込まれるって事はまずないだろうし……)
 隣のベッドでは、サライがすでに有るか無いかの寝息を立てていた。アインデッドは不安を押し隠して目を閉じた。

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