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     そして運命の神ヤナスは
     いま一人の選ばれし者を
     その歴史の糸に織り込ん
     だのである
        ――アルドゥインのサーガ



     第二楽章 白蓮の小夜曲




 クラインでそんな一こまがあったとも知らず、テラニア州から自由国境地帯を無事に抜けて、サライとアト、アインデッドの三人はそれから十日余り経った今、沿海州三大国の一つ、セルシャに来ていた。
 セルシャの首都ゾフィアは、ゼーアのエトルリア大公国首都のサッシャと同じく〈水の都〉と呼ばれているだけあって、海近くでも湧き水が豊富で、道の至る所に噴水や公共の水汲み場が造られている。セルシャ人は水色か灰色の瞳と、主に灰色か茶色か、くすんだ金色の髪を持っていて、水のスペル《ルクリーシス》を潜在的に持っている。ことにセルシャの女性は美人の誉れ高く、クラインよりも有名である。しかし残念ながらそれは女性にのみ冠せられる称号で、男性も大半はそうであるという点でクラインに軍配が上がる。
「綺麗な所ですね」
「セルシャは沿海州の真珠とも呼ばれているんだ。アトは初めて来るんだっけね」
「規模としてはゼフィール港が一番だが、ここのゾフィア港の夜景は天下一品だぜ。真珠貝がよく採れて、あの海は《真珠の海》って言われてるんだ」
 アインデッドはさすがに、世界中を見てきたと豪語するだけあって、その夜景の様子をこまごまとアトに語っていた。
 サライとしては、本当はテラニアから近いこともあってティフィリスに行きたかったのだが、アインデッドがティフィリスとダリアに行くことをどうしても承知しなかったために、方向をまるっきり変えて遠いセルシャに行くことになったのである。
 とはいえセルシャはファロス公国を挟んでジャニュアに近く、ここからの定期船でマノリア諸島を経由して北上し、ゼア川をさかのぼってラトキアに行くこともできる。さらに、これはかなりの長旅で遠回りにもなるが、大陸を半周してエルボスに行くこともできる。あてのない旅を続けるサライの一行にとっては、これからの行く先を決めるにあたって便利なところであるには違いなかった。
「とにかく……今日の宿を決めなければね」
 サライは誰に言うでもなくつぶやいた。
「今日は宿屋に泊まれるかしら?」
 アトがアインデッドに尋ねた。ルーディアからは本当に身一つで逃げ出したが、ここまで来るあいだに泊めてもらった農家の手伝いだとかちょっとした用聞きなどをしていくらかの金を手に入れていた。
「そのつもりだが、あんまりわがまま言うなよ。そんなに手持ちがあるってわけでもないんだから。とはいえ、飯のまずくないところじゃないとな。なんてったって、ここには下界の食べ物を受け付けない天使様がいらっしゃるからな」
 アインデッドのその言葉は、明らかにサライに対してだった。
「そうしてくれればありがたいね」
 サライの方も、彼の口の悪さはただ単に相手に打ち解けているだけだということに大分慣れてきていた。
 彼らがそうやって立ち話をしている間にも、すれ違う人々の幾人かは三人のうち誰彼に目を留めてゆく。三人はできるだけ目立たない格好をしているつもりであった。アトは白い木綿の短いシャツに、途中の宿場町で手に入れた黒地に色とりどりの刺繍をほどこしたサッシュベルトを締め、ゆったりとして、足首にきゅっとしぼりを入れたズボンをはいていた。
 サライは、沿海州ではあまり見られない金髪にアメジストの瞳、というかなり目立つ特徴を持っていたのだが、セルシャは金髪が多いのでそれほど苦にしているわけでもなかった。それでも彼ほどあざやかな金髪はかなり珍しかったのだが。
 服装はルーディアを脱出したときの、紫色の袖なしの上衣に薄い灰色のズボンのままであったが、その上から、途中でアインデッドがどこからか仕入れてきたのどもとに銅の輪や原色の飾りのついた短めのマントをはおっていた。
 アインデッドの方は、黒一色であるだけが違いで、後はサライと大差ない格好をしていた。アインデッドの赤髪と緑の瞳の色の取り合わせも、ありえない組み合わせだったが、ティフィリス人の多い沿海州ではそれほど目立たないので、革の飾り紐で後ろで一つに束ねているだけだった。
 服装だけでいくなら普通の旅人だったが、三人が三人とも人目を引く顔立ちをしていたものだから、いい意味でも悪い意味でも目立っていた。その上、サライの属するセラード人は、人身売買において最も高値で取り引きされると噂される美しい民族であった。そのためか、時々彼を好色な目で見つめる女や男もいた。
「見物料を取ったら、ずいぶん稼げそうだな」
「かもね」
 アインデッドとサライは苦笑しあった。そうこうしているうちに、彼らはこのゾフィア市のメインストリートであるエミール通りの中に今夜の宿を決めた。《潮風とカモメ》亭という名で、そこそこに繁盛していて、品の良いところであった。
「一番安い部屋は空いてないかな。三人まとめてでかまわない」
 こういうことにかけては一番場数を踏んでいるアインデッドは、宿の主人と交渉している間に、あたりを見回して大体の造りと出入り口の方向を頭にたたきこんでおいた。それは彼の長年の放浪生活の中で身に付けた習慣であった。アトのほうは、サライにぴったりくっついて、天井にぶら下がっているカモメのモビールを眺めていた。
「二階のいちばん端っこの部屋しか空いてませんがね。まあ、そこが一番安うございますが」
「じゃあ、そこに」
 恰幅の良い姿をした主人は、愛想よく鍵を渡すとカウンターの奥に引っ込んでいった。サライは連れを振り返り、階段を登り始めた。
「夕食はここで取るのか?」
「当たり前だろう。こういう宿では二階に泊まって一階で飯を食うのが。だいたい、それも朝飯は料金込みだろ」
 アインデッドは耳打ちして返した。
「へえ……」
 サライは何も知らなかったので、頷いただけだった。
「お前みたいに打ち解けにくい奴がいると困るよな」
 粗末な藁布団のベッドに寝そべりながら、アインデッドが言った。長身の彼はセルシャ人サイズのベッドから足をはみ出させていた。
「アインだって、打ち解けにくいだろう? 君って人はどうしてだか、すばらしくお行儀が悪いくせに、立ち居振る舞いに貴族的なところがあるんだから。やりづらいことだってあるだろう」
 サライも負けじと言い返した。アインデッドはそれには答えず、はみ出した足をぶらぶらさせながら、しきりに飾り紐をいじっていた。
「サライ、あんた歌は得意か?」
 唐突な質問に、サライは一瞬戸惑った。
「あ……得意というわけではないけどまあ、ある程度は」
「何か知ってる曲は?」
「風の娘くらいかな。しかしどうしてそんなことを?」
 アインデッドは伸びた爪を噛みながらぶっきらぼうに答えた。
「いやな。ここには前に一度泊まったことがあるんだが、泊まり客は何か芸を一つやらされるんだよ。専属の歌うたいを雇う金をけちってるもんだからな。やらなくたってかまわねえが、サービスが悪くなる。で、アトは何かできるか?」
「私はエレミヤだもの。風の娘を歌うなら踊れるわ」
「よーし。決まりだ。夕飯を食いに行こうぜ」
 アインデッドは元気に起き上がった。一階の食堂には、今夜の客と思われる旅人や、常連らしい集団が既に集まって騒いでいた。三人はやっとのことで空いている席を見つけ、そこに落ち着いた。
 アインデッドは慣れた感じでメニューも見ずに、セルシャ名物の魚と一緒に煮込んだ麺と、それにつけて食べるパンを頼んだ。サライたちはこういう世俗的な場面にはとんと縁のない生活をしてきたものだったので、食べ物の選択は場慣れたアインデッドに全部任せていた。
 その食事の後でアインデッドはカディス酒を一つぼ頼み、何も言わずに既に半分空けていた。サライもそれに付き合って、少しだけ飲んでいた。アトはおとなしくアーフェル水を飲んでいたが。
「ここの習慣で、泊まり客の方には何か芸をしてもらうことになっておりましてね。もう皆さん終わってしまって、後はお客さんだけなんですよ。もちろん、やらなくたってだあれも文句は言いやしませんがね」
 アインデッドの言ったとおり、料理を運びに来ていた主人がひそひそと囁いた。サライは隣のアインデッドをちらりと見たが、既にかなりの量の酒を飲んでいたにもかかわらず、彼は酔った様子も見せず、目配せしてみせた。
「では、少し場所を空けていただけませんか。あと、誰か楽器を貸してください」
 アインデッドは丁寧に言うと、アトをその空いた場所に押し出した。近くにいた吟遊詩人らしい若者がキタラを差し出した。アインデッドは吟遊詩人に一礼して、椅子を引きずり出して座ると、キタラをかまえた。
「では……今から〈風の娘〉を」
「本当にやるの?」
「踊れるだろ」
 アトは小さくうなずいた。その曲はもともとエレミヤ人の民族歌謡であった。アインデッドはいつもの行儀の悪い彼を見ている人がそれを見たら、自分の目を疑ってしまうほど優雅にキタラを奏でた。アトはつい去年までいつものように踊っていた踊りを舞い、サライは歌い始めた。
「恋は風のごとく訪れゆき、吹き過ぎぬ
 風の娘、彼のひとは何処(いずこ)に吹きゆく風か
 教えておくれ、そのゆくえを」
 その場にいた者は、たちまちにして彼らにひきつけられてしまった。サライの、青年にしては高く、甘い響きの歌声には吟遊詩人に勝るものがあったし、アインデッドのキタラの腕は玄人はだしで、アトに至っては十八番の踊りだった。
 〈風の娘〉が終わったとき、一瞬の沈黙の後に盛大な拍手が送られた。アインデッドは吟遊詩人に礼を言って、キタラを返した。
「いやあ、実に素晴らしい。これがご職業かね?」
 隣に陣取っていた常連客らしい老人たちが、陽気に語りかけてきた。
「旅の方、どこから来なすった」
「クラインからです」
 サライが答えた。
「クライン……ね。何でまたゾフィアに?」
「あてのない旅ですからね。ゾフィア港はどこに行くにも便利なところと聞いていましたから」
「そりゃあいい。ところで、もう食事は済んだのかな?」
 最初に話しかけてきた老人が訊ねた。
「ええ」
「そりゃもったいないなあ。何かおごらせてもらいたかったのに」
「それほどのものでも」
 サライは少し頬を赤らめた。
「あんたら、傭兵さんかい?」
「まあ、そんなもんだよ」 アインデッドがにっこり笑ってサライのあとを引き取った。どうしても変な――というより敬語で話すくせが抜けない――しゃべり方をしてしまうとあやしまれはしないかと心配だったので、サライはあっさりと譲った。
「ゾフィア城あたりでやとってもらえねえかな」
「残念だね、にいさん。国境警備隊ならともかく、この辺りは治安がいいからね」
「おかげで安心して暮らせるもんだが」
「そうそう」
 老人たちは口々にうなずきあった。
「でもさ、ジャン爺さん。最近この辺りで変な事件がよく起こるじゃないのさ。あれはどうにかしてもらいたいわよね」
 給仕に出ていた娘がいきなり話に割って入ってきた。ここの看板娘らしく、宿の主人にそっくりのくすんだ茶色の髪を額と肩で切りそろえて、色鮮やかな紐で留めている。瞳は灰色だった。
「変な事件って?」
 アインデッドは娘に微笑みかけて彼女の頬を真っ赤に染めた。
「あ、あの、大したことじゃないのよ。ゾフィアのすぐ東に風ヶ丘って丘があるじゃない。ほら、ここからなら歩いて一テルくらいで着くところ。あすこに鬼火が出るとか、幽霊が出るって言うのよ。夜遊びに出てた人が見たって。このあたりには悪魔も出ないし、今までそんな話はなかったのに」
 娘はいくぶん早口にそう語った。
「鬼火、ねえ。海になら出るけど、丘で? そいつぁふしぎなことだな」
 アインデッドはいかにも興味があるような素振りでうなずいた。娘は勢い込んで喋りだした。
「でしょう? 傭兵さんもそう思うでしょ」
「山賊が住み着いたんじゃねえかなあ。山狩りしてみりゃわかるんじゃないのか?」
「それがね」
 娘は重大なことを教えるのだ、というように声を落とした。


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