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                                *


 一方、クラインの首都カーティスの城内。
 皇女の住まいである双子宮では、右府将軍の解雇、国外追放の旨を聞いて、今やたった一人の未婚の皇女となったレウカディアがすっかり沈み込んでいた。昨日は父に向かってさんざん文句を言った。二人の皇女には甘いアレクサンデルであるからこそ、戯れ言として許されたのだろうが、もし彼の虫の居所が悪かったのならいかにレウカディアといえど双子宮でおとなしくしていなさい、と命じられるだけではすまなかっただろう。
 父親のいる金獅子宮には頭を冷やすため近づかぬよう、と言われたために、レウカディアはかわいそうに正当に文句を言う相手もおらず、その鬱憤はすべて彼女らしくもなく女官や小姓に――もっとも、男子禁制の双子宮に閉じこもっていたので、その被害をもっとも受けたのは側仕えの女官たちだったが――向けられ、そのまま食事もせずに臥せってしまった。
 感情の山を越えて、ふたたび落ち着いてきた彼女は、姉姫ルクリーシアに手紙か早馬を出してこの事を知らせた方がいいのではないかと考えていた。サライをことのほかお気に入りだったし、姉の言うことなら父でも聞いてくれそうだとレウカディアは考えたのである。そんな考えに浸っていたレウカディアは、ドアがノックされている事に気づくのに、ずいぶんとかかった。
「おはいり」
 いくぶん、とがった声になってしまった。レウカディアは失敗したな、と思って舌を出した。
「殿下、バーネット・ルデュラン子爵が謁見の許可を申し出ておられます」
 女官は、ほとんど寝ていないために紫色のくまがはかれた彼女の顔を心配そうに見ていた。レウカディアはいっそ断ってやろうかと思ったが、機嫌が悪いと判っているはずの自分のところにわざわざ来てまで話さねばならないことならば重大なことなのだろうと考え直して、それでもやっぱり面倒そうに答えた。
「いいわ。お通ししてちょうだい。私はちょっと着替えてくるから、それまでにルデュラン殿を次の間に案内してさしあげて、何かおもてなしを」
「かしこまりました」
「ティアラ、ルビア、着替えを」
 女官はさっさと出て行って、レウカディアは側仕えの女官たちに手伝わせながら手早く夜着を脱ぎ捨てて、桃色の、レースを花のようにあしらった瀟洒なドレスに着替えた。
 次の間では、壁際にひかえている女官たちがささめきながらバーネットの方を見たり、もっと大胆なものは話しかけたりしていた。バーネットはそれに終始にこやかに応対していた。
女らしい調度にしつらえられた室内で、軍服のままの彼は奇妙に似合っているようで、反面ひどく浮いてみえた。
「バーネット様、聖帝陛下に諫言なさったってうかがいましたけれど、お沙汰はありませんでしたの?」
「勇気ある行動だって、それは噂ですのよ」
「この前のパーティーにはおいでくださらなかったようですけど、あれがやっぱり……謹慎させられて?」
「そうではありませんよ。皇帝陛下からは何の沙汰もなかったのですが、ただ自分で自粛していただけです。ご心配を掛けましたか、サビナ」
 バーネットが一人に答えると、きゃあっ、と嬌声がわく。
 サライのもてようには比べるべくも無かったが、宮廷の貴婦人がたや女官たちには、父は大伯爵、自らも子爵とそこそこの地位で身分も高く、軍人らしく一本気、男性的で果敢な顔立ちの彼もけっこう人気であった。自分の容姿などあまり気に掛けないサライとバーネット自身は全く気づいてもいなかったのだが、姫君たち――その中には既婚の女性も少なからずいたのだが――にはサライ派とローレイン伯爵父子派、というものもたしかに存在したのである。
 クラインでは、とくに貴族階級では珍しいティフィリス系の赤い髪と瞳や、逞しいすらりとした体に憧れる女官や、あわよくば一夜を、と願う貴婦人も少なからずいたのだが、バーネットは伊達男で知られる彼の父親ローレイン伯爵ワルター卿とは正反対で、生真面目いっぽうであったのが少々面白みに欠けるところで、しかしまた同時に、父親と比べて楽しむ人々の絶好のねたでもあった。
「おまたせしましたかしら、ルデュラン子爵」
 レウカディアが入ってきたので、女官たちは残念といったようすでまた彼から離れ、命じられる前に部屋から出て行った。バーネットはティーセットを前にして、女官が気を利かせて持ってきたらしいカディス酒の水割りを飲んでいた。カディス酒は涼しいカルル高原を特産地にもつカディス果を醸造して作る一種の果実酒で、中原ではアーフェル水とともに頻繁に飲まれる飲み物である。
「〈クラインの黒曜石〉をつかまえて、待つなどと言う馬鹿者はおりますまい」
 バーネットは立ち上がって臣下の礼を取りながら言った。酒に強い彼は、カディス酒のようなアルコールとも言えないような酒なら朝から飲んでいても、酔うということは無かったが、レウカディアはカディス酒の瓶とグラスを不安そうに見ていた。
「そう。それにしても朝からお酒というのは感心できません。ルデュラン子爵」
 その不安げな視線に気づいたらしく、バーネットはまた口許に持っていった杯をそっと卓の上に戻した。そしておとなしく言った。
「申し訳ありません。以後慎みます。……顔色がすぐれないかとお見受けいたしますが、どうなさいました?」
「寝不足よ。サライの事を考えて、泣き明かしたの。ちょっとうとうとしたから、明かしたというと嘘になっちゃうけど」
 レウカディアは椅子に腰掛けながら悪びれもせずに答えた。目の前の精鋭軍隊長が、アレクサンデルのサライに対する処分について、諸侯のなかでたった一人、立場を悪くすると判っていながらあえて意見したというのは、彼女も既に知っていた。おかげでレウカディアは星の数ほどもいる貴族の中でもちゃんと彼の名前を覚えていたし、ついでに好印象まで持っていた。
「さようでございますか。しかし私は悔しくてなりません。私たち精鋭軍の者は、長い間サライ隊長――バーネットは自分が今はその〈隊長〉であるにもかかわらず、まだその呼び方を使っていた――に本当に……お世話になったというのに、私はあの馬鹿げた命令を止めることが……あ!」
 バーネットは今更遅いとは判っていたが、あわてて口を手でふさいだ。だがレウカディアは素っ気無く言ってのけた。
「いいのよあんな人。暗愚の君よ。もっと言ってやってちょうだい。私あなたのそういう率直さがいいと思ってるの」
「は、はあ……」
 彼はほっと一息ついた。実際は二十七と十九と、一回り近くも年下なのだが、こういうところ、レウカディアはいやに冷静であった。
「それより、ルデュラン子爵。何の用でいらしたの? 別に私はずっと一日あなたと父上の悪口を言っていたって構わないけど」
「ああ、そうです。忘れておりました。実は……レウカディア様でなければおできにならないということを頼みに参りました」
「何? 私にしかできないことって」
 レウカディアは身を乗り出した。そのせいで手をつけられていないティーセットが向こうに押しやられる。何といってもレウカディアの特技はティーセットをひっくり返すことだったから、バーネットは未然に防ぐべくそれを手前に引き寄せた。
「はい。魔道師ギルドに頼んでもいいのですが、こういう事になった以上……」
「こういう事って?」
「サライ様のことです」
 バーネットは本題を切り出した。レウカディアが、サライになみなみならぬ好意を抱いているのは彼にでも判ることだった。案の定、レウカディアの顔色が変わった。
「詳しく話してちょうだい」
 この提案はサライが国外追放になるかもしれないと察しを付けたころからずっと考え続けていたことであった。あとは誰にそれを頼むか、であったのだ。サライに好意を抱いていて、さらには皇帝に密告する心配の無い人間――そう考えた時、魔道師ギルドの上級魔道師の資格を得ているレウカディア皇女がもっとも適任と思われたのである。バーネットは小さく瞬きしてから説明した。
「つまりです、近隣諸国……特にサライ様が行かれそうな所、メビウスなどに、サライ様の国外追放の由を伝えていただきたいのです。そうすれば、あのかたは沿海州の方でも有名な方ですから、それなりの待遇があるのではないかと思います」
「そうね。あなたの言いたいことは判るわ、ルデュラン子爵。サライがどこに行くかは判らないけど、たとえばメビウスに行くようなことがあったら、そちらで仕官できるようにパリス義兄様かメビウスの皇帝陛下にサライの事を頼んでもらいたい――そんなところよね。あなたの言いたいのは」
「はい」
 レウカディアの頬は赤みを取り戻していた。彼女は心から、サライの事を案じていた。母のネイミア皇后から受け継いだその臣下に対する分け隔てない愛情が、ルクリーシアとレウカディアの優しい性格を造っていた。そしてそれこそが彼女が父親よりも厚い信頼を臣下から受ける最大の理由であった。それはまこと帝王たるにふさわしい資質であったに違いない。
 バーネットはその明るい表情を見て、サライが別れ際に言い残した言葉をもう一度かみしめていた。
(君は姫に……レウカディア様に剣を捧げてくれ)
 どういうつもりで、サライがそう言ったのかは判らなかったが、バーネットにとっての君主はレウカディア以外に考えられなかった。
(そのとおりですね、隊長……私はクラインにレウカディア様がいらっしゃらなかったらためらわずに貴方についていったでしょうに。あのアトのように、何もかも捨てて、貴方に忠誠を捧げていたでしょう)
 バーネットの胸に、熱いものがこみ上げてきた。それが涙になってしまうのを、バーネットは辛うじて押し止めた。
「レウカディア様」
 突然バーネットは腰に提げたレイピアを抜き放った。
「な……何?」
 一瞬、白々と光る白刃に、その胸を刺し貫かれはしないかとレウカディアは思った。だがバーネットはその場にひざまづき、切っ先を自分の胸に向けた。
「我、バーネット・ルデュランは、レウカディア・エル・クラインを生涯の主君とし、永遠の忠誠を誓う。いざ我が剣を受けたまえ。さすれば我が忠誠は未来永劫に君のものとならん。我が忠誠が君を離れし時はいつなりともこの剣を押し、我が命を奪いたまえ」
 彼は、狼狽するレウカディアを前に、厳かに騎士の誓いを述べた。
「受けてくださらないのですか?」
 バーネットは微笑んだ。
「え……でも、貴方は父上に剣を捧げたのに……」
「サライ様が誓いを捨てられたとき、私も心の内で捨てました。ご安心を。それに、私はこれでも女性にはまだ捧げたことはありません。どうぞ。受けてください。納めようもございません。それとも返し方をご存知ありませんか?」
 バーネットの温かなまなざしに、少女らしい恥じらいを浮かべながら、レウカディアは知っている、と首を振った。そして、剣を受け取って、愛らしい薔薇色の唇をその柄に押し当てた。
「私、レウカディア・エル・クラインは、バーネット・ルデュランの剣と忠誠を受けたことを今ここに誓う。この誓いが破られるとき、この者にはヤナスの怒りが降りかかるであろう」
 皇女らしい威厳をもって、レウカディアは剣を返した。そして微笑みも返す。
「これで、私は名目上は聖帝直属精鋭軍隊長ですが、姫だけの騎士です」
 バーネットは悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女を見上げた。それから、しばらくの沈黙があった後、バーネットとレウカディアは目を見合わせ、声を上げて笑った。
 全てを見通すヤナスの目であれば見えたことかもしれない――しかし、この時はまだバーネットは、自分が歴史上どのような役割を果たす事になるのか、何も知らなかった。レウカディアにしても、後々この青年と自分とが巻き込まれることになる運命の、片鱗すら見ることは叶わなかったのである。

 女官たちが入室を許されたとき、レウカディアはとても晴れやかな顔で、バーネットと笑いさざめいているところであった。生真面目がとりえのルデュラン子爵がいったい何を話して皇女殿下のご機嫌を回復させたのか、と女官たちが首を傾げるばかりであったのがよけいに面白くて、レウカディアは数日振りにおなかが痛くなるまで笑ったのだった。
「ありがとうルデュラン子爵。おかげで気が晴れたわ。明日にでもそのお話の続きをしましょう」
「すっかり気がお晴れになったようで、臣としても幸いでございます」
 バーネットはにっこり笑ってレウカディアの手を取って口付けし、室を退出した。バーネットが出て行くや、女官たちは彼女らの主人がすっかり機嫌を直しているのに嬉しくなって、レウカディアに色々と訊ねはじめた。
「姫様、一体ルデュラン子爵はどんな面白い話をなさったんです?」
「わたくしにもお聞かせ願えませんか」
「まあやだティアラってば、あなたがそんなに詮索好きだったとは知らなかったわ」
 レウカディアはルビアのいれた花びらのお茶を一口すすって、肩をすくめた。
「わたくしたちはいつだって、詮索が大好きなんでございますわ」
 ティアラは後ろにいる仲間をちらりを見て言った。二人が笑いながらうなずく。
「なーんにも面白いことなんて言いやしないわよ。ご機嫌取りどころか、お説教されちゃったわよ。あんまり真面目なものだから笑ってただけよ。あら、何でそんなに笑うのよ。みんな嫌ねえ」
「だって、殿下」
 ティアラの隣にいたアスリアが微笑んだ。
「ルデュラン子爵が何であれそんなに姫君と話すことなんて、ないんですのよ。うらやましいかぎりですわ。ルデュラン子爵とお話できるなんて」
「あらアスリア、あなたばかりじゃないわよ。私たちみーんな、ルデュラン様のファンなんですからね」
「そうよ。私たちはね」
 いつのまにやら、レウカディアはほうっておかれたかたちで、三人はわいわいと言い合いを始めた。レウカディアは半分呆れて言った。
「なあに、そんなにルデュラン子爵と話したいなら言えば良かったのに。一人と一テルずつお話しなさいって言えば済むことよ?」
「いやですわ殿下、そんなことしたって、ルデュラン様が喜んでお話なんてしてくださるものじゃないですわ」
 ルビアがびっくりして言った。
「それなら、私のことを羨むのもやめてちょうだい。大体、私は話したくもないおじさんたちとだってにこやかに談笑しないといけないご身分なんですからね。これくらいの役得があってもばちがあたるものじゃないのよ」
「まあ」
 くすくす、と女官たちが笑う。もう、いつもどおりの双子宮の午前であった。


 カーティス城は金獅子宮を中心に、内堀と外堀を有している。東西南北に四つの門があり、城をぐるりと囲む城壁の四隅にそれぞれ塔を持っている。その中で最も大きい南大門のそば、帝国学問研究所の中に魔道師の塔は存在していた。この魔道師の塔は中原の魔道師ギルドの本締めであり、ここで発行される免許を持っていないかぎり魔道師と名乗ることはできない。
 代々クラインの皇族は発祥のアルカンド大帝もそうであったと伝えられるように、高位の魔道師の血筋でもあり、アルカンド大帝の古代より魔道師を手厚く保護していた。皇族であればある程度の魔道の訓練を受けるのがつねであるが、特にレウカディアはその道を修め、導師に次ぐ上級魔道師の免許を持っていた。
 ドレスの上から魔道師のマントを羽織ったレウカディアの姿が魔道師の塔に現れたのはその日の午後であった。もちろん謹慎中の身、歩いてきたわけではなく、〈閉じた空間〉という術を使って移動したのである。これはある種の瞬間移動で、力の強い魔道師なら人を二人くらい連れても飛べるということであったが、残念ながらレウカディアは自分一人で手一杯であった。
「おお、皇女殿下」
 魔道師の塔の大導師、ギルドの長であるウェルギリウス師は皺深い顔をほころばせて彼女を迎えた。レウカディアはマントをちょっとどけて、優雅に貴婦人の礼をした。
「ごきげんうるわしゅう、大導師。少々頼みたいことがあって参りました」
「何事でございましょう? もちろんこの不肖ウェルギリウス、殿下のためならばできうるかぎりのお手伝いをさせていただきますぞ」
「ならば大導師」
 レウカディアは慌ただしげにウェルギリウスの室内を見渡した。室内に並べられた本棚や、棚の中はどこを見ても魔術書やら動物の骨やら薬草やらが所狭しと並んでいて、なんだかそれは流行らない古物商の店先にも似ていた。
「大導師の護符を何か、お貸しいただけないでしょうか」
「して、何用で」
「……物質移動の補助に使いたいのです」
 物質移動は初歩魔道の一つで、思念波を使って離れた相手の所に物を送り込む方法であり、使うものの力が強ければ強いほどその範囲は広がるものであった。力が弱い魔道師は、もっと力の強い魔道師や、精神エネルギーの強い人間の所有物を持つことによってその力を借りることができる。レウカディアは大導師たるウェルギリウスの持ち物を借りようと思い立ったのである。持ち物といっても、魔術の力を受けて、長い間のうちに護符のような役割をもつようになった由緒正しいものである。
「ということは……ルクリーシア殿下にお話でも?」
「まあ、そういうところです。深くは聞かず、貸してくださいませ」
 ウェルギリウスは白くて長い眉毛になかば隠されてしまった目をしばたたかせたようであった。
「皇女殿下もとうとう、お父上の目を盗んで秘密外交をなさるお歳になられましたか」
「別に、そういうわけでは……」
 ぎくっとして、レウカディアは笑いにごまかそうとした。
「お父上には申しますまい。ここでは上級魔道師である殿下のほうがお強いのですからね。では、これを」
 そう言って老人が胸元を探り、取り出したのは掌にすっぽり包み込めるほどの大きさの水晶だった。中が白っぽく濁り、ほの暗い室内で薄青く光っている。レウカディアは差し出されたそれをそっと受け取った。
「ただし、御用がすみましたら直ちにお返しください。私とて、それは大切なものでありますれば」
「わかりました。ありがとうございます、大導師」
 レウカディアは心を込めて言うと、一礼してまた閉じた空間を使って双子宮の自室に戻っていった。ウェルギリウスはなんとなくしてやられたな、とでも言いたげなため息をついた。
「わかっておったがな」
 低く、呟く。
「皇女殿下が遅かれ早かれああなさると決め、わしのところを訪れるだろうと、わかっておったがな……」
 彼は禿げた頭を力なく振った。
「わしは、つねに運命のしもべじゃ」


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