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     高貴なる三つの王家の血を受け継いだ者
     禍々しくも美しき、緑の瞳の狼
     人は彼を〈災いを呼ぶ男〉と呼んだ
           ――アインデッドのサーガ




     第一楽章 剣の舞




 サライはディンの剣を握りしめていた。その指にディンの血が絡みつき、滴り落ちる。麦わら色の髪の青年は、辛うじてつながっている首を柔らかく曲げて、濁った、涙をたたえた瞳でサライを見つめていた。その体がゆっくりと後ろにのめり、固い石の床に倒れこんだ。
「死の女神サーライナにかけて、彼の魂が永遠に救われますように……」
 サライはそっと祈りの句をつぶやくと、開いたままだったディンの瞼を閉ざしてやった。涙が瞼に押されて頬を伝っていく。アトは言葉を失ったように黙りこくって、そのなりゆきを見守っていた。ディンはグール化する前に、首を刎ねられていたが、その体の先、指や足先は既に血の色を失っていた。
「アト。私が怖いのか? 人を殺したから……?」
 サライは悲しそうに彼女を見た。アトは慌てて首を振った。
「その方……グールになりかけていました。人間として、一生を終わらせてあげた方が、幸せだったのかもしれません。それに、そう望んでいらしたのですから……サライ様はただ、その望むとおりになさっただけです」
「ありがとう」
 サライは微笑み、アトの手をとった。
「さあ、ここから出て行こう。戻っても仕方ないだろうな。私たちの持ち物も、多分燃えてしまっただろう。――大したものは持ってなかったけど、馬は勿体なかったね……けっこういい馬だったから。それにしても聞いただろう? 兵士たちが至る所に火を点けて回ってるって。早く逃げないと心中ってことになってしまうな。……まあ、グールをやっつけるには焼くのが一番だけど」
「そうですね」
 彼女は素直に頷いた。
「私たちもここに火を点けていこう。ディンのやり残した仕事だ」
 サライはそう言うと、階段にかけてあったランプを床に叩きつけた。ガラスは粉々に割れて、飛び散った油を炎の舌が舐めていく。石と煉瓦造りのこの塔に火がまわり、燃えきってしまうまでには、まだ時間がかかるだろう。床に横たわるディンの体をやがて炎が包み込んでいった。だがサライは最後まで見届けようとはしなかった。そうする余裕もなかった。
 二人は炎の無い道を選びながら歩き始めた。壁に囲まれた砦の中は火の海だった。ハーシアの館、兵舎はすでに炎の中の黒いシルエットと化している。火を点けた兵士たちは、すでに城外へ逃げていってしまったのだろう。そこには誰もいない。南の塔に沿って歩いていく。まだ火はそんなに強くない。
「行き止まりだ……」
 塔の側面と合流した城壁に向かって、サライは諦めまじりに言った。南の塔の裏に来ていた。そこにはまだ火の手は迫ってきていなかった。
「アト……ここを登れる?」
「はい。多分ですけど」
 アトは近くに生えている樫をちらりと見て言った。
「なら、登るしかないね」
 サライはどうしたものかというように、目の前の三バールくらいの高さの城壁を見上げ、それからアトを見た。侍女のお仕着せのままだったので、くるぶしまである長いスカートとエプロンといういでたちである。
「私が先に登るよ」
 答えを待たずに彼は樫を登り、壁へと具合よく伸びた太い枝を伝って壁の上に立った。すぐ後からアトがよじ登ってくるのを、手をつかんで引き上げた。
 城壁の反対側は切り立った崖で、ラナク川の、油を流したようにとろりと黒い流れが十バール程下を流れていた。炎にあおられた強風が、ここではより強く、しかも辛うじてサライの足くらいの幅しかない壁の上のことで、足場も悪いのでサライはしっかりとアトを抱きしめた。何度か目を閉じたり開いたりして気を落ち着けてから、サライは覚悟を決めてアトに囁いた。
「ここから……飛ぶよ」
「えっ」
 アトはびっくりして、もう少しで城壁から足を滑らせてしまうところだった。
「それしか逃げる方法が無い。……運命に身を投げると思って。ここで焼け死ぬのも、溺れ死ぬのも同じ死なら、助かる確率があるほうに賭けたいんだ」
 そう言ったものの、サライですらここから身投げというのはぞっとしなかった。朝未だきにもかかわらず、ラナク川の水面は黒く濁っている。それでなくとも、沿海州のティフィリス育ちのためか平気で飛び込んだアインデッドはともかくも、内陸のクライン育ちで、川らしい川もほとんど存在しないダネインの荒野生まれの彼にとって、風呂以外で頭まで水に浸かることなどなかったのである。
(アインデッドさん……ここより高い所から、よくこんな所に落ちる気がしたな)
 サライは、ほんの数テルジンの間の隣人の無鉄砲さに、何とはなしに感嘆していた。しかし、そんな余裕も、炎が背後まで燃え広がってきたためになくなってしまった。
「息を止めて!」
 サライは叫ぶように命じると、そのまま宙へ身を躍らせた。アトは夢中でサライの首に抱きついた。
(運命……そう、運命なのよ。サライ様とここまで来てしまった以上は)
 アトは唇をきつく噛んだ。
 落下はひどくゆっくりに感じられた。目の前でアトの青みがかったすばらしい黒髪がなびいている。
(綺麗な髪だ。まるで明け方近くの夜空……)
 サライは一瞬、自分がどこにいて、今何をしているのか判らなくなっていた。そのとき、痛いくらいにきつく首を抱いている少女のことに気がついた。そのおかげで、今川に落ちる途中だということに気づいた。サライは目を閉じて、息を止めた。
 派手な水煙を立てて、激しい衝撃とともに体が水面に叩きつけられた。そのまま、水中に沈む。
 同じダネイン州生まれの二人は、泳ぎはまったくできないに等しかった。まだサライの方は、士官学校時代に少しばかり習ったこともあって、アトを抱えて水面に顔を出すくらいはできた。
「アト、落ち着いて。じっとしていれば浮くから……」
 しかしアトは泳げないのと、水に身体中がひたされている恐怖とで無我夢中になってサライの首筋にしがみついている。頭では理解しているだろうが、本能的な恐怖がそれに打ち勝っていた。
 そのたびにサライは水に頭を突っ込んだ。彼とても必死に水をかき、水面に顔を出そうと努力していた。浮かんで、また溺れるのを何回か繰り返した後、とうとうサライは力尽きて、黒い水面に沈んでいった。


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