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                              *


 目が覚めたとき、サライは自分がどうなったのか分からなかった。さっきかがされた黒蓮の粉のせいか、頭がなんだかぼんやりしていた。
 何度か頭を振ったあと、なんとか落ち着いて、状況を整理する事に決めた。ゆっくりと辺りを見回す。石造りの狭い部屋。窓はたった一つで、鉄格子が嵌められている。眼前のドアは鉄製で、覗き窓にも鉄格子が嵌められ、食事を差し入れる小さな窓がある。
(閉じ込められたのか……。あのディンの言っていたこともあながち全くの嘘とは言えなくなってきたぞ……)
 そう考えながら、サライは窓から外を見た。月は既に沈んでいて、東の空がかすかに明るい。だが、この時間ならまだ不動星、《ヤナスの目》が見える。明け方近かったがその星はしっかりと見えた。
(あの星は南の方角からしか見えない。それに見たかぎりだとこの下はラナク川らしい。ここは多分ハーシア卿の私有している南の塔だな。だが……来たばかりの傭兵がその日のうちに消えてしまうなんて、おかしいことだと怪しまれる筈なのに。ハーシア卿もおかしな方だな)
 サライは心の中で独りごちて、笑った。
 その時、鼠か何かが壁を引っ掻いているような音に気づいた。鼠にしては大きい音だった。それは右隣の壁から、カリカリと断続的に続いている。
「……?」
 サライが確かめてみようとその壁に近づくと、鼠が引っ掻くようなカリカリという音がやみ、かわりにとんとん、とんとんと石を叩く音が聞こえはじめた。サライはますます首を傾げた。
(ネズミが悪魔みたいな知恵を持っているとなると、壁を叩いて通信してくるなんてこともあるんだろうけど)
(隣の囚人なのかな……やっぱり)
 そう思ってなおも見ていると、突然ぼこっと音を立てて、壁の石の一つが押し出されて床に転げ落ちた。そこには五バルス四方ほどの小さな穴が空いていた。
「ふーっ」
 向かい側から何かを達成したときのため息のような声がもれた。
「やっと通話用の穴が空いたぜ」
 穴の向こうから、若々しい、明るい声が聞こえてきた。それでも、サライがあっけにとられて黙っていると、相手は恨みがましそうに悪態をついた。
「何だよ、てめえは唖かあ? それとも誰もいないのかよ、そんなはずねえだろ、夜更けにがちゃがちゃうるせえ音たててひとの安眠を妨害しやがったんだからな。これで誰も入ってねえなんて、俺は地獄の狼フェイリルの毒の牙にかけて信じねえからな」
 ひとしきりまくしたてた後で、相手は少し落ちついたのか、口の中でぶつぶつ言っていた。言っている悪態はともかく、その相手は見事なまでに訛りのない完璧な、中原の共通語であるソレルア大陸語を喋っていたので、どこの出身の者であるか見当をつけることは難しかった。サライは、この声の大きさなら自分の声が相手に届くようなので、穴に口を近づけて話しかけてみた。
「あの……あなたは誰ですか。ここは何処なんでしょう?」
「あんたなあ、ひとの名前を聞くときは自分から先に名乗るのが、礼儀ってもんだろ」
 相手はひょいとこちらを覗き込み、むっとした声で言い返した。さっきさんざん悪態をついていたくせに、とサライは彼らしくもなく思ったが、相手の言うことにも一理あると考え直した。
「私はサライ。サライ・カリフ。で、あなたは?」
「俺はアインデッド・イミル。ティフィリスのアインだ。人は俺を〈災いを呼ぶ男〉って呼ぶぜ。そろそろここも年貢の納め時になるだろうよ。この俺が来たんだからな」
 穴の向こうの暗がりから、暗いせいで黒く輝いて見える悪戯っぽい目が見えた。彼はいくぶん機嫌が直ったらしい。少し弾んだ声であった。アインデッドという名は沿海州系だが、ティフィリスの英雄王の名として知られている。しかしながらクラインで言うアルカンドと同じで、皆が知ってはいても実際にその名を持つ人間はいない。つまり、かなり珍しい名前だったのである。
「ティフィリス人ですか? その呼び名からすると」
「ああ。十五までティフィリス市で育ったんだ。ま、今じゃ流れ者の傭兵で、やっと勤め口を見つけたと思ったら五日前になぜか寝てる間にこんな所。あんたは?」
「クライン人です。あなたと同じ……傭兵です」
「へえ……。じゃあさっきの小娘と一緒だな」
 その一言はサライを一瞬戦慄させた。
「クライン人の少女がここに来たんですか?」
「あ……ああ。もしかしたら思い違いかもしれねえ。見てのとおり、こっちから外は見れないんでな。エレミヤ語とクラインなまりの言葉をしゃべってたから、多分そうだと察しを付けたんだ。あんたが来るずっと前だったから、夜のナカーリアの刻の二点鐘くらいかな。その娘の悲鳴が聞こえたのは」
 アインデッドは面食らった様子で、しかしかなり詳細に渡って答えた。
 サライは目の前が真っ暗になったような気がした。もしそれがアトだったら、彼が連れてきたせいでもあるのだ。
「もしかしたら、その娘、私の連れかもしれない……」
「なんだってえ? そりゃまずいぜあんた、あのハーシアの変態爺に何されるか知れたもんじゃねえ」
「それってどういう意味で……」
 サライが聞き返そうとした途端、アインデッドは鋭い声で命じた。
「しっ! 牢番が朝食を持ってきたに違いねえ。足音が近づいてる。早く俺が開けた穴を塞いでくれ。話はまた後だ!」
 サライは慌てて床を見回し、転がっていた石を取ると、素早い動作でそれを拾って穴に押し込み、何食わぬ顔でそこに座り込んだ。
 それは実に間一髪だった。彼がその仕事をすべて終えた瞬間、食事が投げ込まれた。布袋の中に、水の革袋と、ぱさぱさの堅パンが入っていた。量ははっきり言って少なかったのだが、サライはこんなものを食べられるのか、といった面持ちで小首を傾げた。仕方なく、目をつぶって味わうひまもなくかみちぎっては呑み込み、水――なぜかこれも不味かった――と一緒に喉に流し込んだ。
 吐きそうになったが、それでも最低限の体力を維持するためには仕方がない、と我慢していると、また通話用の穴が空いて、陽気な声が響いてきた。
「どうだい、ここの飯は無茶苦茶に不味いだろ? どうせ一晩二晩おいとくためだからな。ひでえもんだ」
「ああ……。吐きそうだ」
 言った当人の自分でも、疲れた声だと思った。聞いていたアインデッドの方も心配になったらしい。
「おい、大丈夫か? あんた今までどういうもの食べて生きてきたんだ? いくら不味い飯を食ったからって、普通死にそうになるか?」
「士官試験の身体検査のとき、医者に言われたよ。そういう適応力がないと、二十まで生きられるかわからないってね」
「あー、それ、よく判る。……士官ってことは、前はどこかの騎士団にでも入っていたのか?」
「まあ、そんなところかな」
 サライは曖昧に答えた。
「それで、さっき中断した話の続きだがね。変態爺の話。ちらっと聞いた話によりゃ、あいつはどうやら黒死病らしいんだ。黒死病ってのは、あんた知ってる?」
「名前と症状は知っている」
 中原で最も恐れられている病の一つが黒死病である。それに感染すればほぼ間違いなく死んでしまう。たとえ永らえたとしても、黒く腐り、崩れ落ちた肉は二度と戻らない。生き残ることができたものもその悲惨よりは、と死を選ぶほどなのである。触れることさえなければ感染することはないが、治療法も見つかっていない。
「唯一の治療法って知ってるか?」
 だんだん、アインデッドの声が真剣になっていくのがわかった。
「いや……知らない」
 喉に声が絡みつく。嫌な気分だった。
「人間の生き血を塗ると、黒死病によってできる生き腐れが止まるんだと。その手の話で健康な人間の生き血と生肉に体を浸せば治るとか……。……もちろん、人づてに聞いた話だし、信憑性はねえけど……」
「でも、その病にかかって、生きる望みのない人間にとっては、そんな不可能事でも、命綱なんだろう」
 サライはうめくようにつぶやいた。
「だけど、あいつがあんたの女に手を出した可能性は万に一つもないよ。安心しな。まだ時間じゃねえから。この前道に迷った旅人かなんかをとっつかまえてたし」
 アインデッドが励ますように言った。
「あいつはすぐには殺さない。気休めなんかじゃない。本当だ。俺だって、まだ生きてんだから。この南の塔は二重構造みたいになってて、三階まではあんたも見ただろうがハーシアの執務室。その上からがこの牢屋。最上階に、虐殺専用の一室があるんだ。外には聞こえないんだが、中にいるとけっこうすごい声が聞こえるんだ。でも今夜はひっさらわれて驚いてる声しかなかったし、ハーシアも来なかったからな」
 アインデッドはさらりとそう言ったが、つまりは彼が来てから、誰かがそこで犠牲になったということなのだろう。だが、サライは賢明にもそれについては言及しようとはしなかった。殺されてしまったものは憐れだが、自分たちにはやはり関係のない他人なのだ。軍人にはときとして非情が必要になる。
「じゃあ、閉じ込められているだけか。よかった……あの子に何かあったら、それは私の責任だからな……」
 最後の方は独り言に近い呟きだったが、サライはほっと息をついた。とにかく、無事であるならどうとでもできる。それを聞いていたのかいなかったのか、アインデッドが唐突に切り出した。
「聞きたいことはもうないか? ないなら俺はもう行くが」
「行くって、どこに」
 生真面目なサライの返答に、アインデッドはおかしそうに答えた。
「今のは言葉のあやってやつさ。逃げるんだよ」
「に、逃げるって言ったって、下はラナク川だ。どうするんだ?」
「川だから、だ」
 アインデッドの声には何となく笑っているような響きがあった。
「下が地面だったらあっと言う間にサーライナの国にさようならだけどな」
「この高さからじゃ、下が水でも危険じゃないかな。それに、泳いで逃げるなんて」
「俺だってバカじゃねえよ。綱を作ってあるさ。ボロ毛布だがこういう役には立ったな。まあ、ここから水面まで二十バールもねえし、綱が五バールかそれくらいあるからなんとかなるだろ。川っていう心配はいらねえよ。俺はゼフィール港で産湯をつかった海の男だぜ。川で泳ぐなんざあ朝飯前さ」
「それは……すごいな」
 相手の自信満々な態度に、サライはそう言うくらいしかできなかった。
「この鉄格子、けっこう緩いからすぐに外せるぜ。あんたもやってみな。じゃあな、短い間だったが楽しかったぜ」
「あ、アインデッドさん!」
 穴に口を寄せて叫ぶ。しかし返事はなく、鉄格子の外れる音がして、壁に足を付けているような音が聞こえ、それから水音とともに悲鳴が聞こえた。
 水音は間違いなくアインデッドのものだろう。しかし悲鳴は違う。
「アトか? どうしたんだ、アト!」
 鉄のドアに駆け寄り、力任せに拳を打ち付ける。だがその程度ではびくともしない。サライは唇を噛んだ。
 一方、アト。その悲鳴の前は、塔の最上階にある牢で、おとなしく座っていた。一度意識を取り戻したときは狼狽して助けを求めて叫びもしたのだが、この一年で彼女の精神力はかなり強くなってきていた。
「お目覚めかい?」
 ふいに、低い声が牢に響いた。アトはびっくりして立ち上がり、声の主を探した。
「ここだよ、ここ」
 見れば、背後の壁がぽっかりと闇への口を開けていて、その中にハーシアの不吉な姿があった。アトは可愛らしいその瞳を少し、驚きに見開いた。
「ハ……ハーシア卿。私をここから出してください。お願いです」
 それだけ言うのがやっとだった。
「かわいいお嬢さんだ。おぬしの生き血を塗ったならば、私のこの忌まわしき病も治るやも知れぬ。どうだ、私のために死んでおくれ……この哀れに生き腐れた体に、おぬしの若い血を注いでおくれ……」
 ゆるゆると、長いローブを引きずってハーシアが近づいてくる。アトの後ろは壁だけである。ハーシアのその包帯だらけの指先が、アトの柔らかな肌に触れようとしたとき。
「いやああああっ、やめて! 来ないでえっ!」
 アトの喉は絶叫を絞り出していた。
 そして同じ頃、ルーディア砦は南の塔の中と負けず劣らずの大騒ぎになっていた。
「グールだ! 食屍鬼が襲ってきたぞ!」
 ルードの森から、何百ものグールが現れて砦に向かってきていた。吐き気をもよおすぞっとするような屍臭。腐りかけた肉の塊。
 それらは、温かな血を求めて、砦に押し寄せていた。
「む……悪魔が来たようだの。仕方がない。ここは一度ひくしかないのう」
 ハーシアは、気味の悪い薄笑いを浮かべて、壁の穴に消えた。するとまもなく、その穴はすっかり消えてしまっていた。
 アトは膝を抱えて、水を浴びせられた子猫のように震えていた。
「アト!……誰か、ここを開けろ! 誰かっ!」
 サライは必死でドアを叩き続けた。だがいくらそうしても、騒ぐなと叱る牢番の声も聞こえてこない。サライは誰も来ないと知ると、ドアを叩くのを止めて、右手をドアに押し当てて意識を集中した。
「……我が守護たる光の精霊よ、力を貸したまえ」
 一瞬の閃光。右手から放たれた光は、鉄製のドアを捻じ曲げ、簡単に吹き飛ばした。サライはためらいもせずに外に出て、階段を駆け上った。
 近づいてくる足音を耳にして、アトは怯えていた。
「アト! いるなら返事をして!」
 聞き慣れた声だった。扉に駆け寄る。
「サライ様!」
「ドアから離れていてくれ」
「はい」
 言われたとおりに脇に避けると、光とともにドアが破壊され、その場所に大事な上官の姿を認めて、アトは飛びついて泣きじゃくった。
「ハーシア卿が来たとき、もう駄目かと思いました……」
「もう大丈夫。早く逃げよう」
 サライは少女の頭をそっと撫でてやって、もと来た道を走りはじめた。アトもそれに続いた。ハーシアの居室を抜け、そして外の光が見えはじめたころ、サライは低く呟いて足を止めた。
「しまった……」
 そこには哀れな牢番の死体と、それをむさぼり食うグールがいた。二人に気づいたグールが、腐りかけた顔で笑いながら飛び掛ってきた。サライは反射的にアトをかばう姿勢をとった。
 そして肉の切り裂かれる音。重いものが地に叩きつけられる。そっと瞳を開けて見て、サライは驚きの声を上げた。麦わら色の髪、快活そうな鋼色の瞳。松明と剣を両手に持った――。
「ディン……」
「やっぱり、ハーシア卿の仕業だったんだな。早く逃げるんだ、サライ。あのハーシア卿は死霊だったんだ。多分、本物のハーシア卿はずっと前に、死霊をそれと知らずに生贄にするために連れ込んで逆に殺され、グールになってたんだろう。グールの中にハーシア卿らしいのがいたんだ……ナリヤも……。今までにいなくなった他の奴らも。皆ここは見捨てて、あちこちに火を放ってるんだ。ここが最後」
 サライはディンの様子がおかしいことに気づいた。どこか、動きがぎこちない。
「ディン……きみ……」
 ディンは静かに微笑んだ。そして、持っていた剣をサライに渡した。その腕には深い傷がついていた。
「引っ掻かれたんだ。俺も、もうすぐあいつら……の、仲間に……な……」
 サライはその剣の意味を解した。
 彼を人間として死なせてやるために、すれ違いざまに青年の首をできうる限りの優しさを込めて叩き斬っていた。
 アトは何も言わなかった。
 ルーディア砦は燃えていた。



あとがき


 この世界は地球よりは小さく公転周期・自転周期もやや短い惑星。舞台となる「中原」は中世から近代にかけてのヨーロッパに近いものを想定している。
 時間、度量衡の単位と換算は以下のとおり。
・一テル=六十テルジン……一時間
・一テルジン=六十ジン……一分
・一ジン……一秒
 一日は二十四テル。一点鐘は約十五テルジンごと。
・一グラン……一キログラム
・一テス……一グラム
・一フェム……一ミリグラム
・一バル……一キロメートル
・一バール……一メートル
・一バルス……一センチメートル

暦について
 一月は三十日。一週間は十日。十二ヵ月で一年。閏月はない。年毎に十二の動物と十色の名が付けられる。月の名はヤナス十二神に倣う。年号は新大陸歴で数える。
干支
1・蛇 2・竜 3・羊 4・馬 5・鷲 6・蠍 7・豹 8・獅子 9・狼 10・蝶 11・鷹 12・鹿

1・黒 2・白 3・赤 4・青 5・黄 6・緑 7・紫 8・橙 9・金 10・銀
ヤナス十二神
1・ユーリース……春と花の女神 2・ネプティア……海洋神 3・ディアナ……夏と愛の女神。婚姻の守護者 4・ヌファール……正義と善の神 5・サライア……太陽神 6・リナイス……月の女神 7・ルクリーシス……秋と水の神 8・マナ・サーラ……大地と森の女神 9・アティア……創造女神 10・エレミル……冬と風の神 11・ナカーリア……火と戦争の神。鍛冶の守護者 12・ヤナス……運命と時の神


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