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                                *


「始め!」
 ガルの大声で、ダスは口をつぐみ、一気に剣を突き出した。サライは身を沈め、間合いを詰めると手首を狙って剣を繰り出した。勝負はあっと言う間だった。呆然としているダスから遠く離れて、はね飛ばされた剣が敷石の隙間に突き刺さった。
「すげえ! たった一合でダスの剣をとばしやがった」
「こりゃあ……なかなか……」
「おい、あんた」
 ざわめきの中、ダスはつかつかとサライに歩み寄ってきた。そしてにやっと笑って肩を叩いた。
「やるじゃねえか。すまねえな、バカにしちまってよ。ちっ。これで一番の使い手の座をあんたに取られちまったってわけか」
「まさか。たまたまでしょう」
 サライは微笑んだ。
「他にはもう手合わせ願いたい奴はいねえな?」
 ガルが怒鳴った。誰も出てこようとはしない。麦わら色の髪の青年が人懐っこい笑みを浮かべて、サライが置いておいた荷物を持ってきてくれた。
「サライだっけ。空いてる部屋がないから、俺と相部屋だよ。俺はモントレーのディン。よろしく」
 この青年には、どこか人をなごやかにさせる雰囲気があるようだった。サライはにっこりと笑って、荷物を受け取った。
「こちらこそ、よろしく」
「よーし、べっぴんの新入りに乾杯だ!」
 誰かが鬨の声よろしく大声を上げた。
「新入りにもルーディア名物ミール酒を知ってもらわなきゃあな!」
「今日は無礼講だ!」
 ガルは制止しようと思ったらしいが、何にせよもうその場の面々は「酒」という言葉で目の色を変えだしていたし、止めると暴動が起きかねない雰囲気であったので、その日の夜は隊をあげての酒盛りになってしまった。これはもう、何かにつけて飲みたがる男たちのさがとしかいいようがなかった。もちろん、明日には砦の警備の仕事があるので、二日酔いで寝込んだりなど、はめをはずさないように隊長のガルがきびしく目を光らせてはいたのだが。
「あーっ、飲んだ飲んだ」
 ディンは部屋に入るなり、粗末なワラのベッドに身を投げ出した。そばかすの浮いた頬が赤く染まっている。サライは荷物を隣に置かれた自分のベッドの脇に置いて、ディンのそばに腰掛けた。
「ミール酒、初めてだっただろ? 旨かった?」
「何とも言えないな」
 ミール酒というのは、ミール麦の芽を発酵させて、苦みを加えて作る発泡酒で、ルーディア地方の名物である。カディス酒やアーフェル酒のようにグラスに注いで上品に飲むものではなく、庶民向けの飲み物で、傭兵などでは兜に注いで飲むような習慣があるらしい。味といえば、通にはその苦みと立ちのぼる泡とが何とも言えない風味なのだそうだが、酒の味が判らないサライにはただの苦いアルコールであった。
「あんたあれだけ皆の杯を受けてたのに、ちっとも酔ってないな。底無しだな」
 ディンが酒臭い息を吐き出した。サライはちょっと肩をすくめた。
「酔ってるよ。でも顔に出ないんだ」
 二日酔いの隊長とか将軍なんて、みっともないからね、と心の中でサライはつぶやいた。
夜は更けていた。すでに青白いリナイスは中天にさしかかり、《黒い森》の異名をとるルーディアの森を清かに照らしている。ぽつりとディンがつぶやいた。
「あんた、ほんとに綺麗だな――昼に見たときより、いまこうして見たほうが、なんか……そう、月の精みたいだ」
「ありがとう」
 サライはわずかに微笑んだ。が、そう言ったディンの顔に、同情のような光が宿るのを彼は見逃していなかった。ディンは一息ついて、瞳を伏せた。ダリア人の青い瞳は瞼に隠れる。
「あいつもそうだった。ナリヤ。俺と同じダリア人だった。いい奴だったよ。みんなに好かれていたし……あんたほどじゃないけどきれいな奴だった。なのにあの日突然消えてしまった。
前の日一緒に飲んだのに、朝になったらいなくなってたんだ。おかしいよ、ここは……」
「何が?」
 サライはたたみかけた。かまをかける必要はなく、ディンは自分から話し出した。さっきからそうしたくて仕方なかったようであった。
「俺が来たのは五年前だが、昔っからここは逃亡者が多い。というより、行方不明者が多いんだ。だから、要所にもかかわらず傭兵に頼っている面もあって……いなくなるのは大体、あんたみたいな顔のきれいな奴なんだ。五日前にも来たその日にいなくなったのがいた。あんまり脅すつもりはないんだけど……サライのベッドになった、そのベッドで一日だけ寝たんだ。――うん、お世辞抜きで本当にあいつはきれいな男だったな……」
 ディンは起き上がると、しきりに顎を撫でながら独りごちた。
「サライみたいな、なんていうのかな……風が吹いたら消えちゃいそうな感じはなかったんだけど。まあ、あいつはこんな陰気で女もいないような所は嫌だって言ってたから、本当に逃げたのかもしれないけどね」
「それはひどいな」
 サライは冗談でもなんでもなく言った。
「それはともかく、その嫌な噂って?」
「ああ。ハーシア卿は、自分の部下になったみめよい青年を殺しては生き血をしぼりとり、その血を自分の病の治療に使ってるっていうんだ。あの南の塔で夜な夜な悪魔の儀式を行ってるって、公然の秘密みたいに言われてる」
 サライは眉をひそめた。そういえばハーシアは、奇妙なくらい痩せて、季節柄合わない分厚いマントを着ていたし、羽ペンを握っていた手も包帯だらけだった。何かの病気で肌を出すことができないというなら、それもうなずけることである。
「何か、伝染する病とか――皮膚病なのか?」
「わからない。何も言わないから。でも俺、あの人は嫌な気がするんだよ。あんたはどこにも行かないよな、サライ……」
「多分ね。また、違うところに行くかもしれないけれど」
 そのとたんディンはサライの肩を強く掴んだ。
「行かないでくれよ……。もうこれ以上、誰かがいなくなるのは嫌なんだ。皆そう思ってる。ガル隊長だって、そう思ってる。少しでも顔のいい傭兵が来ると、みな哀れむんだ。ダスだって、あんな失礼な言いぐさだったけど……あいつも親友だった男が行方不明になってて、過敏になってるんだよ、サライ」
 ディンはあわれなくらい必死に言い、せつない目で彼を見つめた。これがもし、あの髭面で陽気なシサリーだったら突き飛ばしてでも逃げただろうな、と思ってサライは心のなかで笑った。
(それにしても、この話は気になるな。そのナリヤとかいう男はどうなったんだ? やはりハーシア卿がさらっていったのかな)
 そこまで考えたところで、肩を解放された。ディンはふしぎに思いつめた表情で顔を伏せたまま、ゆっくりと指を離していった。そして、おそるおそる言った。
「ごめん……つい、興奮して……」
 サライを、まるで犯されざる聖処女を見るような目で見つめた。
「謝らなくたっていいよ。君の言ったとおり、そんなことが続いてたら、誰だって過敏になるさ」
 サライは答えた。なんとなくこの青年を傷つけるような事は言いたくなかったのだ。それを聞いて、ディンは露骨にほっとした表情を見せた。
「もう夜も更けたな……」
「うん。おやすみ」
 サライが言うと、ディンはそのまま横たわって毛布にもぐりこんだ。サライも同じように自分のベッドに入った。
「サライ」
「何?」
 ディンはまっすぐにこちらを見つめていた。位置がそう変わらないので、視線がまともにぶつかった。鋼の青灰色の瞳がひたとアメジストの瞳を見据えた。
「あんた……不思議な人だね」
「何が?」
「貴族みたいな顔してるのに、こんな辺鄙なところで傭兵なんて」
「君こそなかなか、きれいな顔立ちだと思うけど」
 彼はぱっと顔を赤く染めた。
「サライには負けるよ。それに、ナリヤのほうがずっときれいだった……。顔のことだけじゃないんだ。なんだか、あんたの周りの空気から、あんたの髪の毛の一筋まで、俺たちのとは違うものでできてるみたいな、そんな感じなんだ」
「……そうかな」
「そう」
 ディンはそれ以上何も言おうとはせず、お休みとつぶやいてランプを消した。
(ナリヤ……ね。話しかたからしてディンの恋人だったのかな)
 サライは士官になってすぐに、同僚――もちろん男だったが――から告白されたことがある。彼自身男であるのに女はおろか男にまでもててしまうせいか、サライは同性愛、俗に言うシルベウスの愛、というものにそれほど嫌悪感を感じるわけでもなかった。クラインではエトルリアや沿海州のように公認されているわけでもないが、ひややかに思われるだけで、さして蔑視されるわけでもない。かといって自分はそんな趣味を持ちたいとは思わなかったが。
 サライがそんなことを考えているうちに、当のディンは寝息をたてていた。それを横目で見て、サライも、もう寝ようと目を閉じた。
 どこからか、梟の鳴き声が聞こえてくる。夜空から星明りを部屋のなかに射し込ませる木枠の窓の隙間から、闇から切り抜いてきたような、本当の影がゆるゆると忍び込んできた。壁を伝い、床に落ちた影が、パン生地が膨らむように、ふいに形をとった。それは多少まだふわふわしていたが、やがてしっかりとした人間の形となった。そのフードで覆われてそこしか見えない口許に、何とも言えない酷薄そうな笑みをたたえていた、悪魔にそんな感情があるとしてだが、いけにえを見つけ出した悪魔のように。
 その指に握られた白い布がそっとサライの口と鼻に被せられる。はっとしたようにサライは目を開け、驚愕した瞳でそれを見た。ほっそりした腕が、不吉なその影に向かって伸びたが、届く寸前ではらりと落ちた。ぐったりしたサライを軽々と抱き上げ、それは床に溶け崩れていった。サライの金色の髪も、灰色に染まった床板に沈んでいった。
 後には、甘やかな夢でも見ているのか、静かに眠るディンだけが残された。


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