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                                *


 暦は変わり、また秋が訪れようとしていた。
 王宮に入ったときには十六歳だったアトも、春に十七歳となった。クラインの第二皇女レウカディアも今年の誕生日に二十歳になり、来年には成人式を迎える。
「閣下! 何処にいらっしゃるのですか、将軍閣下!」
 クライン城の南端、金獅子宮の一角にある、右府将軍の宿舎の一角では、朝から小姓たちの少し苛立った声が響いていた。
「ここだよ。昨夜は風が気持ち良くてね。ついここで眠ってしまった」
 けだるい声がそれに応える。奥庭のほぼ中央に位置するあずまやの中だった。
「こちらにいらっしゃったのですか。随分お探ししました」
「ふふ……君らがかくれんぼは嫌いだと言うなら、今夜からは置き手紙でもしておくとしよう」
 寝椅子に横たわっていた彼は、ゆっくりと身を起こした。やや長めの金色の前髪と、長い睫毛がアメジスト色の瞳に影を落とす。寝起きのせいか、その痩せた頬は微かに薔薇色に染まり、寝乱れた髪が金の糸のように絡み付いていた。彼を探していた小姓が目の前の主人は実は女性ではないかとすら思ってしまうほどなまめかしい。
「いま、何刻だい?」
「だいたいサライアの刻を五テルジンほど過ぎました」
「そうか。長く寝たなあ……」
 そう言って彼は立ち上がり、気持ち良さそうに伸びをした。長く寝たと言っても、七月中旬の今でサライアの刻といえば、夜明けに限りなく近い時間であったが。 ルクリーシア姫がメビウスに嫁いでいった頃、彼は少し痩せた。それっきり体重は増えていないらしい。上背はかなりあるのだが、横が追いついていない感じがする。口さがない宮廷雀たちは口々に、右府将軍はルクリーシア姫に恋をしていた、これは恋やつれだだとか、好き勝手なことを言っていた。
 今、小姓の目の前にいるのが右府将軍、サライ・カリフそのひとだった。
「おはようございます、将軍閣下」
 ごく自然に、儀礼的な挨拶をする青黒色の髪の少女は、今ではサライの傍近く仕える女騎士ともなったエレミヤの少女、アト・シザルである。
 彼女は去年の今頃に宮廷勤めをすることになり、その年のうちに侍女から士官、仕官長と異例の昇進をとげ、右府将軍の側近になった。それには色々な詮索や妬みもついてまわったが、悪魔を『消す』という特殊能力をそれだけ高く買われたということだった。しかしながら、アトはあまり力を使おうとしなかった。
 もちろんそれはサライの命令で、また彼女自身も夢で垣間見た、サライの大きすぎる力ゆえの陰惨な過去をしっかりと覚えていたのであった。
「おはよう。君も早起きだね」
「あら。閣下の小姓さんたちの大声で目が覚めましてよ」
 ぱっちりとした、深い青色の瞳をいたずらっぽく輝かせて、アトが答えた。サライは困ったように笑った。
「おやおや、私の副官どのは可愛らしい顔で意地の悪いことを言う」
 さっきのアトの言葉にしゅんとなっていた小姓たちも笑い出した。何の変哲も無いいつもどおりの朝の風景であった。
「ところで、今日は何か催し物でもあるのかい? 君が正装をしているなんて珍しいことだけれど」
 さっきのけだるげな雰囲気は何処へやら、サライはさっさと自室の方へ歩き出した。アトは早足でそれについていった。
「何を仰ってるんですか。右府将軍閣下ともあろう方が。今日は皇帝陛下が市内の視察をなさる日です」
 先日、皇帝自らが「国民の生活をこの目で確かめる」として、市内を少し視察することを急に思いついたのである。護衛にはもちろん右府将軍であるサライも同行せねばならない。そのことを、サライはすっかり忘れていた。
「あ……そんなものがあったのか」
「そのとおりです」
 サライはいつも、身の回りのことは自分でやってしまう癖があって、それはそれでいいことなのだが、着替えなども、アトが傍にいることも気にせずにしてしまうので、アトは必ずドアに向かい合って話すことにしている。
 とはいえ、将軍の第一級正装をするとなるといつもどおりにもいかず、サライは面倒そうに鈴を鳴らした。ただちに四、五人がやってきて、サライは今から湯浴みをするからその間に将軍の正装を揃えておくように、とだけ命じて、奥の部屋に入っていった。
 アトは、これ以上ここにいても小姓たちの邪魔になるだけ、と考えて早々に退出した。確かにそのとおりで、ドアの向こうで小姓たちが慌ただしく駆け回っているのが聞こえてきた。
 サライが身支度を整えて出てきたのはそれからたっぷりニテルは経ってからだった。もともと彼は、湯浴みに一テルはかかる上に、正装をするとなっては着替えにもそれくらいかかるのは当然だった。
「いま何時? 遅刻したりしないかな」
 襟元がきついのか、しきりにいじりながらサライが聞いた。アトはそんな様子に少し呆れ気味に答えた。
「まだまだ、マナ・サーラの刻を少し過ぎた頃です。何と言ってもサライ様は将軍閣下なんですから、少しばかり遅れても大丈夫でしょう。旗本親衛隊の方には先に行くように言いました。馬も用意させましたから、行きましょう」
「そうだね。しかし遅れては大変だ。ああみえても陛下は気性の激しい方だから」
 白いマントをひるがえし、サライは歩き出した。結局、サライとアトが東の大門、アルカンド大門に着いたのはそれからまだ一テルも経たないうちだった。皇帝の出座も当然まだ先のことであった。
「やあ、サライ殿。今日は早いですな」
 アトと同じエレミヤ人で、そろそろ中年にさしかかってきている左府将軍シサリーはそう言って笑った。サライはそれに屈託ない様子で微笑み、答えた。
「厳しい副官がおりますもので。とても助かります」
「はっはっ、意地悪な上官には苦労しますな。アト殿」
「閣下の仰るとおりですわ」
 何を言うのか、というようにアトがこわい顔をしたが、サライはすましたものだった。シサリーにはアトよりも少し年上の娘がいて、そのためか少女の身で軍籍にある辛さを、理解はできないものの推し量ってくれるようなところがある。アトも、この人の好い左府将軍を気に入っていた。
 アティアの刻に出発ということになっていたので、マナ・サーラの三点鐘が鳴った頃に近衛兵に周りをしっかりとかためさせた皇帝の姿が金獅子宮から現れた。
 クライン聖帝アレクサンデル四世は、皇帝の血脈、魔神サライルの守護を受ける民族、クライン人の最も純粋な血が流れている。もう五十を過ぎていたが、日焼けしても白い肌と幾分白髪が混じって灰色になった黒髪、威厳を見せる顔半分を覆う濃い髭と、サライがいつまで経っても直視しづらい暗闇色の瞳を持っていた。彼の二人の皇女はどちらも数年前に事故で亡くなった皇后に似ている。彼はクライン人らしからぬ鍛えられたがっしりとした筋肉質の身体で、顔も言っては難だが粗造りな感じがする。
 どうすればこの荒々しい気質の皇帝を父に、〈中原一の美姫〉のルクリーシアと〈クラインの黒曜石〉のレウカディアが生まれるのかと考える者は、母のネイミア皇后がいかに美しかったかを改めて認識させられる。とはいえ、クライン人の女性は美しいことで有名であったのだが。
 露払いの役を務めるのは左府と右府の両将軍である。この日、かれらの聖帝が直々に姿を現すというので、予め知らされていた市民たちはいつもどおりの生活どころか、仕事もしないでこの行列を見送っていた。
(本当に陛下が市民の生活をご覧になりたいのなら、身分を隠してこっそりと市に出ればよいのに)
 馬上からその様子を眺めながら、サライはそんな事を考えた。去年まで精鋭軍を率いて、市内に現れる悪魔と闘っていた彼である。貧しい市民たちの生活というのは、おぼろげながら把握していた。こうして皇帝を讃える市民たちを見て満足するのではなく、それを見てもらいたかったのだ。
「聖帝ばんざい」
「アレクサンデル陛下、万歳!」
 そんな声が時折起こる。正式のパレードなどではないので、万歳の合唱のようなことはないが、アレクサンデルは満足した様子で鷹揚に声のしたほうへ手を振っていた。
 その時だった。
「右府将軍閣下ばんざい!」
 突然、人々の声の合間を縫うようにして聞こえてきたそれに、サライはびくっとして手綱を取り落としかけた。行列の面々がいっせいに声のしたほうへ顔を向ける。自分の声が届いたのだと知ったらしく、声を上げた男は嬉しそうに声を張り上げた。
「精鋭軍に栄光あれ!」
 その言葉で、サライは男がどういう者なのか見当がついた。精鋭軍に所属していた当時、悪魔から救われた市民の一人なのだろう。精鋭軍によって救われた市民が、彼らになみなみならぬ信頼と敬愛を抱いていることを、サライはよく知っていた。サライが自分に気づいたことに満足したのか、男はもう一度右府将軍ばんざいと繰り返してから、路地へと駆け込んでいった。
「そなたは人気なのだな」
 ややあって、アレクサンデルの重々しい声が後ろからかかった。振り返ると、アレクサンデルは機嫌を損ねたようでもなく、ごく普通の表情をしていた。そこでサライは思ったままを口にした。
「聖帝陛下に捧げるべき感謝を間違えておりましたが――恐らく精鋭軍に救われたことがあったのでしょう」
 その後は皇帝万歳以外の言葉は聞かれなかったが、アレクサンデルは自分に向けられる視線よりも、サライに向けられている視線のほうがずっと多いことに気づいた。つい先頃まで、彼らの為に市内で活躍していたのはサライだったので、よく見知っているという点ではサライのほうが上だったのだが、そこまではアレクサンデルには判らなかった。
 何事も無く一行は城に帰り着き、その日はそれで終わった。
 それから、四日後の朝だった。いつものように、サライのスケジュールを伝えるために訪れたアトになんとなく元気が無いのに彼は気づいた。
「どうした? 顔が暗いよ、アト。元気なのが君の特技だろう」
 実際、アトの表情は暗かった。サライの言葉を聞いて、よけいに沈み込む。
「夢を見ました」
 アトは瞳を伏せた。
「それは、いつもの夢?」
 サライの問い掛けに、アトは黙ったままうなずいた。サライの怪我を予知して以来、時折アトは予知夢を見るようになった。それは彼女のスペルの力にも多少関係しているらしい。
「どういう夢だった? 君のこと、それとも誰の?」
「サライ様に関してです。サライ様はもうすぐ、じきに、人生の分岐点に差し掛かるでしょう」
 その言葉は妙に神がかり的だった。サライは別段変わったことはない、というような口調で訊いた。
「それは悪い分岐点? それともいいの?」
「わかりません。ただ……多くの出会いと……しかもその中の一つはサライ様の運命に大きく関わるものです。そして、また多くの別れが見えました」
「別れ……」
 憂い気に眉をひそめたサライに、アトはちょっと付け足すように言い添えた。
「死ではないと思います。きっと、最初の別れは……」
「ああ。もういいよ。言うのはイヤだろう。それよりも、旅支度を私と君の分だけ整えておいてくれ。馬も、馬丁に頼んで。お金のほうはそこの引き出しの中。要ると思う分だけ取っておいて、ここで待っていてくれ。もちろん君が嫌でなければ」
 アトの言葉をさえぎり、何もかも判っている、といったふうで冷静にサライは言った。アトは何だかいつもより小さく、か弱げに見えた。
「私はサライ様についていきます」
「じゃあ、行ってくるよ」
 明るく言ったのだが、アトは逆に泣きそうになっていた。実はアトが来る少し前、皇帝から早朝謁見の使者が来たのだ。恐らく、四日前の視察での出来事が原因になっていること、何かよからぬことが起こるに違いないと、だいたいの予測はついていて、アトに対しても冷静に対処できた。
 玉座の前に跪き、サライは片膝を突いて礼をした。
「右府将軍サライ・カリフ、ただいま参りました。遅参つかまつりましたご無礼は、平にご容赦いただきたく……」
「もう、よい」
 アレクサンデルの声は苛々しているようだ。謁見の間に入っていったときに、顔ぶれは大体ざっと見たが、左府将軍や宰相、おもだった貴族たちがすでにその場にいて、なりゆきを見守っていた。アレクサンデルは短気で怒りっぽいというあまり芳しからぬ性格の持ち主であった。ルクリーシアがいたころは彼女がそれとなくとりなしをしてくれていたのだが、彼女のいない今、大した理由もなく昇格されたり、降格される者が頻々と続いていた。
「サライ・カリフ。そなたを右府将軍の任より解く。さらに騎士の名と、そなたに与えた名誉、爵位も剥奪する。即刻カーティスを出で、二度と戻らぬこと。理由はわかっておろう。そなたは、余の市内視察中に自らに向けて市民に万歳を叫ばせた。これは聖帝であるこの余に対する反逆の罪だ」
(そう、お考えになったか……)
 サライはふと、一年前にヴェンド公ヘルリから告げられた忠告を思い返していた。
(貴殿の主君が貴殿を自らの世継ぎとして定める気が無いならば、貴殿はそうそうにクラインを立ち退かれることだ。それが貴殿のためにも、またクラインのためにも一番良いことだろう)
 その言葉の本当の意味を解したとき、サライは泣きたいような気分になっていた。その場にいた面々も、この展開は予想だにしなかったものだったらしく、いっせいに驚きと非難の声が上がった。
「黙らぬか!」
 アレクサンデルが一喝した。さすがに、彼らを黙らせるだけの威厳は残っているらしかった。その中で、たった一人、サライの隣に進み出たものがいた。
「バーネット……」
 何故出てくる、とサライが囁くように語り掛けると、バーネットは小さく笑った。そして毅然とアレクサンデルを見上げた。
「恐れながら陛下、右府将軍閣下は今まで長く、陛下に忠誠を誓って参りました。それにもかかわらず、将軍から今までの名誉と爵位をお奪いになり、追放されるとは、それほど重大な反逆を将軍がなされたというのでしょうか?」
 炎の民のティフィリス族の血をひくバーネットは、これ以上彼の――今では彼の部下の仲間たちが敬愛する〈隊長〉への誹謗はいかに剣を捧げて忠誠を誓った皇帝であっても許せなかった。
「バーネット・ルデュラン、きさまこの余に逆らう気か?」
「それは……!」
「バーネット、いいんだよ。いずれこうなると判っていたんだ」
 サライは優しくバーネットをおしとどめた。そして静かな怒りをひそめた瞳が皇帝を見据えた。
「申し開きの機会をお与えいただけなかったのはいかにも残念でありますが――陛下のお心がそのようであれば、わたくしの地位や名誉などお返しいたします。ひいては、私が陛下に捧げた剣と忠誠をお返しいただきとうございます。お目汚し奉ったご無礼をお詫びいたします――では」
 それが、右府将軍としてのサライの最後の言葉だった。彼は優雅に一礼すると、謁見の間を退出した。
 その日の昼過ぎ、サライはアトを連れて長年住み慣れたカーティスを離れた。市門を抜けようという時、そこで彼らを待っていた者がいた。赤い髪から、バーネットだということがすぐに判った。二人の姿を見つけると、バーネットは馬を寄せた。
「よかった、こちらからではなかったらどうしようかと思っていました。……サライ様、陛下は気が短くいらっしゃいますが、忘れるのも早い方です。今日のこともいずれ水に流してしまわれるでしょう。いま少しとどまっていてください」
「いや」
 ゆっくりとサライは首を振った。
「私はもっと早く、自分からこうするべきだったんだ」
「しかし……」
「それより、私をかばうようなことを言って、君は大丈夫だったのか」
 バーネットは微笑んだ。
「ええ。曲がりなりにもローレイン伯の息子ですから。私をあの程度のことで処罰すれば、父が――議会が黙ってはおりますまい。それくらいは理解なさっているでしょうから、陛下も思い切ったことはなさいませんでした」
「そうか。ありがとう。君のことは忘れないよ。ナカーリアの武運があらんことを」
「いついかなるときも、あなたの幸運と健康をお祈りしています。アトも、達者で」
「はい」
 アトは俯いた。そうしないと、泣き顔を見せてしまいそうだったからだ。
「バーネット、私はクラインを出てゆくけれど、この国を見限ったわけじゃない。君は姫に……レウカディア様に剣を捧げてくれ。さよなら」
 サライのアメジスト色の瞳が名残惜しげにバーネットを見つめた。バーネットは馬を止め、二人を見送った。
(サライ様……それでも、この国の……我らのクラインのゆくすえを案じてくださるのですね……)
 彼は無言で敬礼をした。それだけで、充分だった。


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