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 サライはさして驚いた様子も見せようとはしなかった。
「――とはまた、何故ですか。ヴェンド公」
「そこだよ」
 ヘルリはバルコニーの手すりに肘を掛けて体を支えた。
「貴殿は何も気づいていない。気づいていて、そうでないふりをしているのか、私には皆目見当もつかないが……ルクリーシア殿下は、貴殿に何か特別な感情をお持ちになっているようだ」
 メビウスの大貴族はずばりと言った。しかしその声は盗み聞きされるのを恐れるように低められていた。
「そうでしょうか」
「この年になれば、嫌でも判るものだよ。女性がその相手に注ぐ視線や、態度で。いかにうまくルクリーシア殿下が隠していたところで、な。幸いパリス皇子は気づかれた様子もないが。気づかれていたら、貴殿は今頃クラインで牢の中にでもいただろう。なにやら理由をつけて」
 サライは首をすくめた。
「私のような身分低いものに、よりによって姫が」
「身分と言われるが、私がクラインの皇帝であったら――いや、そうでなくてもどこかの王で、貴殿が部下にいたとしたなら、貴殿を次の王として迎え入れるだろう。貴殿には、そうだな――王者としての器があるように私には見えるのだ」
「ご冗談を。ヴェンド公」
「いいや、本気で言っている。貴殿は、私の未だそう、長いとも言えぬ人生の中で初めて見た――これはもちろん、我が陛下や他国の王族を別としてだが、いまだ王にもなっておらず、王族でもないものとしては初めて見た、一国を運営する権利をヤナスから与えられている人間だよ」
「……」
「これは才があるとか、そういった問題ではない。私とてヴェンド公ではあるがとうてい一国の王たりえない。私にとってはヴェンドの領主がそこそこなのだ。だから私は一度たりとも、陛下に取って代わろうなどと野心を抱いたことはない。これは不思議なものでな、サライ殿。ヤナスは人間を、各々の運命にふさわしい大きさに作られる。ほんの限られた人間だけが、生まれながらにして、その額に見えざる王冠をあらかじめいただいて生まれてくる。それが王家のものであれば問題ないが――貴殿のような――失礼ながら、一介の臣下であるとしたらこれは問題だ」
 話はいつしか不思議な方向になっていた。
「ルクリーシア姫が貴殿にひかれた理由もわからぬではない。貴殿は生まれながらの貴族、王族なのだよ。生まれがたとえどうであれ。私にはそう思えてならない。――人はきっと、貴殿が何も言わなくても貴殿によくしたがり、剣を捧げたがるだろう。望めば命すら投げ出しかねないほどに。だからこそ危険だ。どこかの王が、王者の資質をもった男が臣下になったとしたら、どうすると思われる」
「殺してしまうか、王太子として迎えるでしょうが、方法としては殺してしまうほうが簡単で、しかも安心できますね」
 サライはあっさりと答えた。ヘルリは少々意外そうな顔をした。
「あるいはもう一つ。その男に兵を与え、今にも戦火が起こりそうな場所に送り込みます。その男にそれだけの器量があれば勝利を収めるでしょうし、なければ戦死するか、とらわれるか、降伏するか、いずれにせよ国内に乱れは生ぜず、またもし、凱旋すれば登用しても功績ありとて、国内に不満の起こることもないでしょう」
「貴殿は本当にわからぬ方だ」
 ヴェンド公は銀色の頭を振った。
「いい加減、私の戯言にも飽きられただろう。そろそろ戻られるか?」
「お許しが頂けるならば」
 サライは微笑んだ。ヘルリもまた笑った。
「ただ一つ――これも戯れ言と聞き流していただければ結構だが、忠告をさせてもらえぬか。サライ殿には生まれながらの王の相があると私は言ったが、これは決して冗談などではない。貴殿も言ったとおり、貴殿の主君が貴殿を自らの世継ぎとして定める気が無いならば、貴殿はそうそうにクラインを立ち退かれることだ。それが貴殿のためにも、またクラインのためにも一番良い事だろう」
「ご忠告、いたみいります」
 ヴェンド公に一礼し、サライは形どおりの礼を述べた。広間に戻ると、また騒ぎたち、はしゃぐ娘たちに取り囲まれたが、彼は愛想よくふるまった。そのうちに、サライはある少女に目を留めた。
 その少女は誰とダンスをするでもなく、ひとり壁際のソファに座って何か物思いに耽っているようだった。サライが見つめているのに気づくと、少女は憮然としたように立ち上がり、こちらに近づいてきた。彫りの深い、ごく美しい顔が険しいものを帯びている。
「私に何か御用ですの?」
 彼女はまるでしろがねの炎だった。絹のドレスは白地に月の光を思わせるような銀糸の刺繍をぎっしりと施し、胸元にはレースと真珠があしらってある。髪は銀色で肌は透けるように白く、それに合わせるように、ドレスと同じく身につけたアクセサリーも全て白と銀色で統一されている。メビウスではセラード人の貴族はそう珍しいものではないが、身分は高いようだ。
「失礼、サビナ。お気に障ったのでしたらお詫びいたします」
 サライは丁寧に言った。ようやっと、少女は表情を緩めた。
「見慣れない方ですわね。使節の方? どこからいらしたの?」
「クラインからです。私は副使節を聖帝陛下より拝命賜りました、右府将軍サライ・カリフと申します」
 少女はかすかに微笑んだ。まるで試すような視線だった。
「ああ……皆が噂していた、クラインの使節の、美しいほうの方ね。無粋な軍人さんでいらしたのね」
「サビナ、貴女の名は?」
 少女は悪戯っぽくくすりと笑った。
「不躾な視線の罰に、内緒に致しますわ」
「ではリナイスとお呼びすることを許していただけますか?」
「どうぞ。それより、一曲誰かと踊ってから帰ろうかと考えていたところでしたの。私と踊っていただけますかしら」
「無粋なダンスでよろしければ。サビナ・リナイス」
 サライは皮肉を込めて言い返した。
 二人は踊りはじめた。音楽はメビウス・ワルツ。三拍子の軽やかな旋律がリュートとキタラの音に乗って広間を流れる。
 リナイスは蝶か羽根のように身軽で、軽やかにステップを踏んだ。サライは軍人らしい身のこなしでそれについていった。かわるがわるぐるぐると回って、相手の手を軸にしてもとの位置に戻る。右、左、右、くるりと二回転、次は二歩離れて、互いに手を差し伸べ、くるりくるり、二回転で戻ってくる。
 彼女の銀色の髪がなびき、ほっそりした体を、銀色の渦巻きに包み込む。それは、なかなか見事な眺めであった。
 左、右、左、くるっと回り、今度は二つずつステップを踏んで、リナイスが前に進む。右、左、右、一回転、後ろへ二歩、二回転で手が届く。
「貴方はとても軽く踊られるのね」
 感心したようにリナイスが言った。
「貴女こそ」
「それに、まるでサライアのように美しい」
「貴女こそリナイスのように美しい――そう思って、ついつい眺めてしまいました」
「お世辞も上手いのね」
「ご冗談を、サビナ」
 ワルツはいつまでも続く。二人はやがて曲の変わり目を機に踊り終わり、サライは彼女を車寄せまで送っていった。すぐに宮廷御用達の馬車が目の前にすべりこみ、少女はサライの手を借りながら馬車に乗り込んだ。
「明日も踊っていただけますか?」
 少女は首を振った。
「明日は来られませんの。残念ですけど」
「お名前は――教えていただけますか?」
「いつかまた、お会いできたときに」
 二人の間におちた沈黙を会話の終わりととった御者が馬車の扉を閉めた。ぴしりと笞が鳴り、馬車は動き出してやがて門のほうへと消えていった。サライはまた広間に戻るでもなくそっと使節にあてがわれた控え室に戻り、ディヴァンにもたれて目を閉じた。
 銀色の少女がかのヴェンド公の娘であると、この時彼が知るよしも無かったのである。


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