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     かれらは運命の神ヤナスによって動かさ
     れていた。しかしかれらは自らの運命が
     ヤナスの織りなす歴史の糸の上にあると
     は未だ知らなかった
                ――マリエラのサーガ




     第三楽章 メビウスの円舞曲




 その年、新大陸歴一五四二年――白蠍の年アティアの月の五日、クラインのルクリーシア皇女とメビウスのパリス皇子は正式に神々の前で聖なる婚姻の誓いを立てた。アト・シザルが宮廷の侍女から軍に引き抜かれた夏の終わりごろにクラインで近隣諸国に改めて二人の婚姻を公式に発表し、そののちにメビウス国内で盛大な結婚式がとりおこなわれるというだんどりであった。
 世紀のロイヤル・ウエディングともいうべきこの結婚には、両国とも国を挙げてのお祭騒ぎとなった。アトが見たのは婚約のお披露目を済ませ、王宮から天蓋の付いていない馬車に乗ってメビウスに向かうルクリーシア皇女とパリス皇子の姿だった。清楚な白いドレスに身を包み、頭を覆うレースの合間に永遠の愛の花言葉を持つエウリアの花を飾った彼女は、まるでこの世に降りてきた女神のようにすら見えた。
 この誰もがうらやむ絶世の美女を妻に迎える幸運に恵まれたパリス皇子はといえば、花嫁と隣り合うとあまり目立たないというのが皆の思うところであった。メビウス皇族の祖先はクラインと同じであるが、クライン人よりも少しだけ鼻筋が高く、体つきもがっしりとしている。黒い髪をきちんと分けてなでつけていて、ほどほどに美男のこの花婿は、この幸せにいくぶん緊張気味で動きがややぎこちなくなっていた。
 二人は微笑みながら往来の人々に手を振り、紙吹雪と花吹雪の舞う中を街道に続く市門に向かっていった。このカップルの護衛と、慶賀使節を兼ねてメビウスに赴くのが、クライン軍の中でもっとも格式が高く、貴族の子息たちで構成される白竜隊五千と、近衛兵として皇帝直属精鋭軍の千名の騎士たち、左府、右府の両将軍であった。
 ルクリーシアが彼女の婚約者とともにメビウスの首都オルテアに着いたのはそれから丸十日後で、すぐに結婚式となった。まず運命と時の神ヤナスの神殿に詣で、そののちに婚姻の守護者である愛の女神ディアナの神殿でこの結婚が偽らざるものであり、永遠に互いを夫婦とすることを誓う。これがクラインであったら、式だけで長々と三日ほどかかってしまうのだが、メビウスの伝統ではきっかり一日で終わった。
 オルテア城でのお披露目パーティーは、クラインと並ぶ強大国らしく盛大なものだった。これほどの大典祝賀は中原としても実に久しぶりであった。
 今宵は日没とともに、まず各国使節団を迎えて、宮中晩餐会が催されている。大典祝賀の際に使用される青晶殿、その豪華な紅玉の間での正餐の後、人々はそのままオルテア城でもっとも大きい翡翠の大広間に移り、そこで舞踏会を開く予定であった。
 上座には今日の主役たる花婿と花嫁が幸せいっぱいの様子でしじゅう微笑みを投げかけ、その左右には同じくらい幸せそうな皇帝夫妻が座っていた。そのさらに左に座っていたのはパリス皇子の姉であり、こちらは似合いの王族もいないために独身である――とはいえ一歳違うだけで、まだ二十一だが――リュアミル皇女だった。
 むろん、それとても明日の大典祝賀の大宴会とは比べるべくもない。今日の客は総勢二千人、主として各使節と、それにメビウス宮廷の貴族、武将たちだけだが、明日の野外大宴会は、王宮の広大な庭を開放して、オルテアの市民たちや高名な芸人たちを招いて、予想総動員数五万人という大がかりなものなのだ。
 しかしそれでもこの宴も一般の人々なら、一生のあいだ、ついにも夢見ることのできぬような規模のものではあった。
 この日の主な賓客たちは、沿海州からはティフィリス王弟フリードリヒ、セルシャの将軍マナ・サーリア・ラティン、ダリア海軍提督シグルズ、ラストニア王国アスキア総督クロヴィス、ダキア市長ライ・エンという顔ぶれであり、他の国としてはエトルリア公弟ハン・マオ、ペルジアのルムス・セリン公爵、ラトキアのステラ伯爵父子、エルボスの伯爵クレインドリとその使節団。
 迎えるメビウス側は、むろん今回の主役であるパリス皇子と妃ルクリ−シア、イェライン皇帝夫妻とリュアミル皇女。そしてメビウスの誇る文武両道の中核をなす大貴族、武将たち。
 明日にそなえ、まだ第一礼装は彼らはせぬ。むしろ、今夜はいくぶんくだけた服装で、それゆえにいっそう贅を凝らし、しゃれたものを身につけている。
 メビウス皇帝イェラインは、クライン皇帝より年下で、彼に比べるともう少し文人肌の、背は高いが痩せ型の壮年であった。彼はクラインから来た花嫁――生まれたときから婚約者として決められてはいたのだが――についてたっぷり半テルも褒め上げ、そのすばらしく美しい嫁を得ることは我々としても大変に喜ばしいことであり、この婚姻をもって両国が一層の親交を深め、より発展していくだろううんぬんということをこれまた半テルもかけて語ったので、かれの演説は結局一テルもかかってしまった。極めつけには「これで簡単ではあるが終わる」というのが締めくくりであった。
 長々と続いた皇帝の演説の後、クライン聖帝の代理として左府将軍シサリーが祝辞を述べ――こちらはメビウス皇帝の涙が出るような演説と同じように、メビウスに嫁ぐ自国の姫を褒め上げ、その良人となる凛々しく雄々しく、聡明なメビウス皇子を褒めたたえるものであった。そしてこれも一テル近くかかったのである。それらの素晴らしい演説の後の、各国代表による祝辞は、対照的に簡単でしかも短かったので、列席していた貴族たちやほかの使節たちがほっと一安心したのは言うまでもない。
 光満ち溢れる翡翠の間の中に、綺羅、星の如くに人々が集う。広間の一隅には宮廷楽師の一団が陣取って、ひっきりなしにさまざまな音楽をかなでていた。出された料理は豪華な、手のかかったもので、人々は堪能した。この大広間はいつもはカーテンで三つに仕切っているもので、全てつなげると、小さな館くらいならゆうに入ってしまうほどの大きさがあった。
 天井からは、それだけでも三バールはありそうな巨大なシャンデリアが吊り下がり、その無数の腕にはすべて蝋燭がともされていた。また四隅には光の木とでも言いたいようなガラスの置き燈台があり、そこにもそれぞれ何百本もの蝋燭がともされていた。 大勢の給仕と女官がひっきりなしに飲物と食物を持って回り、グラスの触れ合う音、がやがやいう話し声、音楽、ありとあらゆる音が一つになって、うわーんという何万匹という蜂のうなっているかのようにさえ聞こえた。その中にいるかぎり、どこに誰がいて、どんな面白いことが行われているのか、中にいる人間にはとうていその全容をつかむことはできなかった。
 しかし、何しろそこはヤナスのやりかたのつねで、この光に満ち溢れた室の中でも、もしヤナスの目を持ってさえいれば、実に興味津々たる、ささやかでしかも意味深長な傍狂言がそこかしこで演じられていることを、はっきりと見て取ることができたのである。
 たとえば、エトルリアの公弟とラトキアの伯爵は互いから十バール以内へは近づくことのないよう、極端に気を配っていた。そして、ネフィ・ステラ伯爵はダリアの使節と商業上らしい話をしていて、ハン・マオ公弟はフリードリヒ王弟にしきりに話しかけて彼をうんざりさせているのだった。
 クラインの使節――新しく右府将軍から左府将軍に昇進したシサリー将軍と、精鋭軍隊長から右府将軍に昇進し、さらに伯爵の地位を与えられたサライの二人はというと、人々にルクリーシア姫のひととなりの話をせがまれ、シサリーは物好きな同年代くらいの貴族相手に話している反面、サライはどこに逃げても姫君たちに囲まれてしまって閉口しているのだった。
 真ん中の方では若い貴族たちが、貴婦人たちを誘ってダンスにうち興じていた。奏でられる曲は「メビウス・ワルツ」や「水の戯れ」、カドリールやワルツであるのは、下々の場合と同じであったが、宮廷楽師たちはこの宴の主役である皇子夫妻と各国の使節のために、それぞれの国歌や結婚行進曲を次々と演奏した。彼らが疲れると交代の楽士があらわれるので、いっかな音楽が途切れることはなかった。
 サライはそんな中で、適当に飲み食いしてあとはずっと壁際に立っていた。彼からどこかの姫君や貴婦人を誘ってダンスするつもりはなかったのだ。しかし美貌でならすクライン右府将軍の噂はメビウスでも有名であったし、肖像画なども出回っているからにはたちまち見つけられてしまうのはしかたがなかった。
「サライ将軍、ダンスはいかが?」
 いたずら好きの姫君たちが、おのれを目立たせようと、しきりにサライをダンスに引っ張り出したがる。サライは疲れた顔も見せずにかれこれ二テルほど踊り続けていた。皇帝夫妻とリュアミル皇女が退場したのを幸い、パリス皇子も、ルクリーシア姫もいつのまにか上座から降りてきて、ダンスの群れの中に混ざっていた。やがて二人はお互いから離れて、パリス皇子はカミラ伯爵の娘とダンスを始めていた。
「わたくしと踊ってくれますか、サライ。あなたと踊るのも今宵が最後のことになるでしょうし」
 ルクリーシアはにっこりと微笑みながら、白くすべらかな手をさしのべた。サライの、負けず劣らず華奢な雪白の手がその手をとった。
「お言葉のままに」
 サライは礼儀正しく言い、また流れ始めた音楽にあわせて踊りはじめた。ルクリーシアの黒髪とサライの金髪が、二人が回るたびになびき、マントとドレスの裾が軽やかにひるがえった。周りで踊っていた男女も、二人が通り過ぎてゆくたびに踊りを止めてそれに見入った。やがて、人々の輪の中で踊っているのはルクリーシアとサライの一組だけになってしまった。音楽が速さを増していく中、二人は最高に難しいダンスのステップを鮮やかに踏んでみせた。
 曲とともにダンスが終わり、サライはルクリーシアの手に軽く口付けして礼をした。そこにパリスが拍手をしながら近づき、いかにも若くて快活な青年らしく、花嫁の肩を抱いて笑った。
「すごいやルクリーシア! あんな難しいステップを軽々とこなすなんて。サライ将軍、貴殿もすばらしいな。僕だったらルクリーシアのその花のおみ足を踏んでいるところだよ、全く!」
 それには周りにいた者たちがどっと笑いだした。
「次はわたくしと踊ってくださいまし」
「いいえ、私が先よ」
 また姫君たちが群がってきて、人のよい笑みを浮かべながら、サライがどう切り抜けようかと悩んでいるときだった。
「サライ将軍、ここはやかましい。ちとバルコニーに涼みにゆこう。わしは貴殿と話がしたいのだよ」
 耳のつぶれそうな喧騒の中で、すっとサライの後ろに現れたのは、ヴェンド公ヘルリだった。さきに紹介を受けて、印象的だったのでサライもその名を覚えていた。ヴェンドはオルテアの西に位置する広大な地方で、そこの領主が彼なのである。彼はメビウスでも屈指の大貴族で、サライと同じセラード人である。ただしこちらはふつうの、銀髪と紫の瞳だったが。
「まあ、ヴェンド公、私たちのサライアをつれていってしまわれますの」
「もう少しで、わたくしの番ですのに」
 一斉にあがるなかば嬌態めいた非難を、ヘルリはさすが年長者らしく軽くあしらってしまった。
「サライ将軍はお疲れだよ、お嬢さんがた。ダンスの相手ならまだまだほかにもいるでしょうに。他のお方をさがしなさい」
 バルコニーに出ると、ヘルリは女官から酒を受け取り、サライに差し出した。
「どうかな、サライ殿。クラインの洗練から見れば、メビウスも形無しであるとは思うが、この宴は」
「私ごときが申しますのも僭越ながら、まことにすばらしい宴で」
 サライは目の下のオルテア市街を見やった。光とダンスに興じているのは、場所こそ違えど同じらしい。
「夜風が心地よい。私のような老人にはあの中はやかましすぎ、人が多すぎ、熱すぎる。息が詰まり、目が眩んでしまう」
「それほどのお年とは思えませぬが」
 サライは静かに言った。実際、ヴェンド公はまだ五十にもなっていなかったのだ。
「貴殿はあのような宴の中においても絵になる。馬をうたせて軍を率いる様もなかなかであった。私は男の美醜にはとんと構わぬほうだが、それでも貴殿は美しいと思う。どこにおいても、さまになる方だな、サライ殿」
 ヴェンド公はゆっくりと言った。
「私はさっき、貴殿が踊られるところを見て確信したのだよ。貴殿はここに来るべきではなかった……クラインにもいるべきではないな、と」


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