*


 朝、練兵場に集まった精鋭軍の兵たちの前に、サライはふっと姿を現した。それに気づいて一斉にみんなが整列し、敬礼した。サライは少しびっくりしたようだったが、その笑みを崩さなかった。
「おはよう。昨日は私のために皆が迷惑してしまった。すまない」
 静かにそう言うと、恥ずかしげに髪を撫でた。それだけで朝日を浴びた金髪が輝き、毎日見慣れているはずの彼らも思わず見とれた。ややあって、誰かがやっと気がついたように言った。
「隊長、我々がご迷惑をおかけしたばかりに隊長があのような事になり、我々は反省しております」
「そうです! 我々の至らなさから隊長をお怪我させるようなことに……」
「一同、心より反省しております!」
「迷惑なんて……私はちっともかけられた覚えはないよ。それとも私が寝ている間に誰かがかけたのか? だとしたら誰だ? 名乗り出てくれ」
 皮肉めいた口調でサライがやり返した。その一言で皆がほぐれたように笑い出した。
「さあ、練兵だ!」
「はいっ!」
 皆がそれにあわせた。彼らのなかにはサライよりも身分が上のものも、年上のものもいたが、全員がサライを認め、尊敬していた。そして興奮も静まり、一通りの練兵が終わると、全員がそれぞれ出ていく。この後出動要請があればただちに出ていくが、今日のところは何もなかった。
 サライはバーネットを呼んだ。バーネットにはその意味が判っていた。
「彼女はもう待たせている」
 サライはまずそれだけ告げた。バーネットが心配したよりもサライの足取りはしっかりしていた。華奢でおよそ武官らしくない彼のこと、また昨日今日と倒れはしないかとても心配だったのだ。だが彼の心配をよそにサライはいつもどおりの乱れのない歩みで城内に入っていった。
 ほかには誰もいない練兵場の片隅に、きっちりと髪を結い上げ、動きやすい服を着たエレミヤの少女、アトがいた。観客が誰もいない練兵場は妙なくらい白々しく感じられた。いつもはサライと二人きりなのに今日に限ってもう一人いるのを不審に思ったらしく、アトはちょっと首を傾げた。
「おはようアト。この人はバーネット・ルデュラン。私の副官だ。今日は特訓の成果を是非見たいと言ってね。いいだろう?」
 アトは無言で頷いた。断っても仕方のないことだったからだ。
「では、始めよう。バーネット、君はその辺りで見ていてくれ」
 バーネットも無言で頷いて、場内を囲む宮殿の柱の脇に立った。サライは邪魔になるだけの上着を脱いだ。すらりとした身体に、胸に巻かれた包帯が痛々しかった。アトもそれには少し不安そうだった。
「今日は実戦形式で行くよ。手加減しなくてもいいからね」
「え……でも、私はそんなこと聞いていません」
 アトがおずおずと言った。
「時間がないんだ」
 短く、サライは呟いた。アトに聞こえたかどうかは判らない。サライは何かを思うように静かに瞳を伏せた。
「始めるよ」
 静かな声だった。言い終わるか終わらないかの間に、サライはアトの懐に飛び込んでいた。アトが気がついたときには既にサライは至近距離にいた。
「遅い」
 サライの拳が閃いた。みぞおちの辺りに激痛が走る。華奢なサライの体はアトとそう変わらない細さだが、力は彼女よりずっとあった。
「あぐっ……」
 アトは低くうめいて、そのまま倒れた。固唾を呑んで見守っていたバーネットが声をかけた。
「たっ……隊長。いくらなんでもこんな少女に本気で戦うことは……」
 サライが振り向いた。無感動な瞳だった。バーネットは一瞬ぞっとした。
「本気? もしそうだったら私はこの娘(こ)を殺していたよ」
 抑揚のない声が陰鬱に響く。悪魔と戦う時の冷徹な武人の表情がそこにあった。サライはそっとアトを抱き起こした。
「さあ、起きて。まだ続行中だよ」
 アトの怯えたように潤んだ瞳がサライを映した。言われるままに手を引かれ、おとなしく立ち上がった。
「きゃあっ」
 足を掬われてよろめいたところに膝蹴りがはいった。それでもかなり手加減している様子だった。
「いいか? 戦場じゃ誰も手加減なんかしてくれないんだ。君みたいに怯えているだけじゃすぐに殺されてしまうんだ。判っているか? 悪魔はこちらの都合なんか考えちゃいないんだから。君のスペルはまだ眠っているだけだ。私は君のスペルを目覚めさせるためだったら何だってするよ」
 よく通る澄んだ声が聞こえていた、床に叩きつけられ、なかば意識を失いかけたままアトはその言葉を聞いていた。判ってはいる。もう少しで弾けそうな何か強い力が身体のなかで殻を破ろうとしている。だが、できない。
 激しい焦燥感にかられていた。どうして、できないのか。
 サライは息も乱さずにアトを見下ろしていた。そのアメジストの瞳が物憂げに細められる。何かを思っているようだった。やがて、瞳を開ける。
 ふわりと優雅な手つきで右手を前に差し出した。
「見ていてご覧。こうするんだよ」
 母親が子供に諭すような口調だった。言われるままにアトはそのほっそりした指先を見つめた。バーネットもその一点に目を凝らす。
 やがてサライの指先から淡い、蛍に似た光が放たれはじめた。
 バーネットは一瞬自分の目を疑った。
 彼は前に何度かサライから、時が来るまで決してスペルは使わないと聞かされていた。それなのに、いまサライが使おうとしているのは紛れもなく彼の力だった。光のスペルを司るセラード人ゆえの美しい光がサライを取り巻く。
(きれい……この世のものじゃないみたい。まるで……)
 太陽神サライア、という言葉が脳裏に浮かんだ。
「私のスペルは君のものとは違う。セラード人の私は光のスペルを持っている。どの程度のものか経験してみるといい」
 サライが静かに告げた。
 黄金色の一閃。
 アトの身体は後方に撥ね飛ばされ、固い石床にしたたかに背中を打ちつけた。アトはおぼろげに悪魔に殺されかけたときの事を思い出した。あの時、スペルも弱いただの平民であったのに、父は悪魔を相手に戦った。あえなく殺されはしたものの――家族を守ろうと必死だった。
 アトは何もできなかった。
 ただただ、怯えて隠れていただけ。それはサライの言ったとおりだ。第二の衝撃波が襲い、彼女の思考は中断された。アトは初めてサライに対して恐怖を感じた。多分彼は実力の一割も出していない。その気になればアトのような小娘の命くらい、簡単に奪ってしまえるに違いなかった。
 いつのまにか、この一方的とも言える対戦の観客は増えていた。全員がサライの部下である精鋭軍の隊員だった。隊長と副隊長が一緒に出ていったので、何かがあると思って来たのだろう。そして全員が全員、痛めつけられている少女よりも、初めて見る彼らの隊長のスペルに心を奪われていた。
 それはあまりに美しかった。
 たとえ、サライがその手を自分の最も愛する者の血に染めていたとしても彼らはやはりその美貌に釘付けにされるだろう。
 それほどまでに清冽な美貌だった。アトですら、見つめるたびに感嘆していたのだから。けれど彼女には段々とどそんな余裕もなくなってきていた。サライへの恐怖は死への恐怖に取って代わりつつあった。
「思い出すんだ。あの時君は何をした?」
 サライの問い。
(私がしたこと?)
 アトの中であの日の記憶が蘇る。微笑んだ顔のまま噛み千切られた母の首。何が何だか判らないままに彼女は叫んで、次の瞬間には全てが消えていた。
(隠れて泣いていた。そして姉さんの首。あの蛇みたいな目。感情なんかないあの乾ききった視線)
(夢ならいいって、目が覚めたらお母さんが笑って、ただの夢だと笑ってくれるはずだった。なのにこれは本当)
 父は自分と姉を守ろうとして死んだ。だが自分は――? 自分には何か守るべきものがあるだろうか。アトはその自問自答にふと詰まった。
(あたしが守らなくちゃならないもの……あたしは今まで守られるばかりで、誰も守ることなどしなかった。でも、今は……)
 アトの当惑した瞳と、サライの瞳が重なった。
(あの瞳……!)
 アトは慄然とした。
(金色の瞳! 魔物の証……)
 バーネット達には遠すぎて判らなかった。
 サライの黄金の瞳。
「いや……」
 アトは呻いた。サライはひどく緩慢な動作で近づいてくる。あの悪魔の醜悪な姿とサライの秀麗な姿がなぜか重なって見える。
「来ないで」
 涙声になっていた。本当に泣いていたのかもしれない。
「来ないで、来ないでえええ――っ!」
 抑えきれない何かをつなぎ止めるとめがねが砕け、とどめられない意識の濁流に飲み込まれてゆく。
 刹那。
 急激に解放されたアトのスペルがサライに向かって牙を剥いた。それは考えていたよりもはるかに強大な力の奔流だった。その力は渦を巻き、アトを中心にスペルが磁場を造っていた。スペルの衝撃波でできた風に煽られ、サライはよろめきかけ、踏みとどまった。しかしそのものの動きは非常に緩やかで、二バール程しか離れていなかったサライにもまだ届いていなかった。
 まだ完全にコントロールできないそれは、ただ膨れ上がるばかりではっきりとした攻撃の形にはならない。そのままにしていたらどうなってしまうのか、サライにはよく判っていた。サライは一瞬の逡巡の後、覚悟を決めたように両手を広げた。
「我が守護神サライアよ……彼女を止めるだけの力を私にお与え下さい」
 祈りの言葉をつぶやいた後、サライは全てのスペルを解放した。目の眩むような光がアトのスペルの作用圏を包み込む。誰にも見えない。ただ、瞼を通してなおまだまばゆい光と狂ったように騒ぐ風のざわめきだけでも、その力と力の邂逅がいかなるものかは感じ取れた。
 人間にあり得ては危険すぎるほどの力。それは人間の域を越え、神にすら近づく。サライは身体で受け止めたそれに悲しいほどの親近感を感じた。自分だけではないのだ。強すぎるスペル、人とは違う能力を授けられてしまった悲しみ。
 だからこそ、この少女を自分と同じにしたくない。
 だからこそ、この力に歯止めをかけなければならない。
 それができるには同じだけの力を持っていなくてはならない。サライは初めて、自分と対等の能力者に出会うことができたのだ。互いの均衡が臨界点に達しようとしたその時、急に力が収束した。十年間ほとんど使わなかったにもかかわらず、そこは熟練した武人らしく、サライはすぐにスペルを押さえ込んだ。
 そしてその瞳は、藍色の髪と瞳の少女に優しく向けられた。アトは放心したようにその場に座り込んでいた。
 並みの攻撃では傷つけられないはずの石床は信じられないほど焼けただれ、無残な姿を晒していた。バーネット達はアトのスペルもさることながら、それを抑え、消滅させたサライのスペルに驚愕していて、誰も何か言おうとしなかった。サライは、その明るい表情とは対照的に手ひどくやられていた。とにかく、怪我人では立っていられないくらい精神力を消耗したはずだった。
「サ……サライさま……」
 アトが泣きそうな声で言った。サライは柔らかな微笑をそれに返した。先日の傷口が開いたらしく、包帯は一刻ごとに赤い染みを広げていた。
「さっきの要領を覚えておくこと。これで今日の特訓は終わりだ」
 本当に、終わりだった。まるで嵐の後の花のように、サライは前のめりに倒れた。


前へ  次へ

次へ
前へ
inserted by FC2 system