前へ  次へ



                                 *



 中原の華をうたわれるクライン帝国の首都、カーティス。メビウスやゼーアの首都とならんで上下水道の完備した街であり、温室の中では一年中すばらしい花々が咲き乱れ、果物が実る。また、中原三大帝国の中でもクラインの国土は変化に富み、東は温暖湿潤なテラニア州からなるルーディア地方、西は風光明媚で過ごしやすいローレイン州にまで広がっている。唯一の難点といえば海を持たぬことであるが、それも商業港を幾つも持つメビウス、沿海州との盛んな交易で解決を見ている。
 そのカーティスの中央に位置するカーティス城の中に二人の皇女の居城、双子宮があった。その中の一室から、素っ頓狂な声が上がった。
「嘘でしょう? 訓練も受けていないただの子が、第三級悪魔を一人で殺したなんて」
 立ち上がった拍子に、テーブルの上のティーセットが派手な音を立てて踊る。声を出したのは妹姫のレウカディア。十八才ながらまだ幼さを残した少女だが皇女の威厳を既に備えている。それでも行動はまだまだ子供っぽいところがある。
 レウカディアの右隣には今年二十才の成人式を迎えた姉姫のルクリーシア、真正面にはサライ・カリフが座っているのだった。三人が三人とも非常な美貌のために、その一幕はまるで一幅の絵のような眺めだった。
 ルクリーシア姫はやわらかな顎の線や目鼻立ちもその内面の優しさ、細やかさを現すように優しく、黒目がちの美しい瞳を持っていた。世の人々は彼女を〈中原一の美姫〉ともてはやしているし、彼女はその名にふさわしい女性であった。その婚約者であるメビウス皇子パリスほど、世の男たちの羨望の眼差しを浴びる男性もいないだろうともっぱらの噂であった。
 今日の彼女は大人の女性らしく複雑な形に髪を結い上げて、そこに真珠の飾りを露のようにあしらっていた。薄緑のドレスはごく軽やかな素材で作られていて、体にぴったりとした形で、ふわふわとしたレースをまとわせており、今をときめくデザイナーであるリディア・ユリアの最新作のものであった。
 〈クラインの黒曜石〉とあだ名される由来ともなった美しい漆黒の瞳を持つレウカディア姫は成人前の子供らしくその長い前髪を結い上げずに下ろし、皇女の証である額輪に白いエウリアの花を挿している。彼女もまた、だんだんに子供っぽさを脱して、成熟した大人の魅力を兼ね備えるようになるのだろう。すでに彼女は魔道師の塔で導師の次の地位、上級魔道師の資格を持つ一流の魔道師でもあった。ドレスは品のよい薄いブルーの肩を出したものだった。そんななか、サライだけはあいかわらずの軍服であった。
「部下が現に見たのですが、信じていただけないでしょうか?」
「私は……信じておりますわ。たとえどんな種族、階級、年齢であっても、そういう者は必ずいますから」
 ルクリーシアは静かに言った。
「私はね、別に、サライを信用していないわけではないの、ただそんな凄い子がなんで士官とかに任命されなかったかが判らないだけ!」
 レウカディアはまたテーブルを叩いた。今度はティーカップから勢い余ってお茶が零れだした。サライはそれを手早く拭いてから言った。
「恐らく、潜在能力が死の淵に立たされたときに目覚めたのでしょう。事実、彼女……アト・シザルは精霊の力を上手く使えません。特別に私が任命されて指導しているのですが全く手応えなしで……」
「サライはスペルを使えないのに? サライは剣術だけじゃなかったの」
 レウカディアは皇族にだけ受け継がれる黒曜石のきらめきを持つ瞳でサライを見つめた。その瞳を見るとサライはなぜか胸が苦しくなる。全てを見透かしてしまうように底の知れない、暗闇色の瞳。
「カディア、お止しなさい」
 ここは分別のある大人らしくルクリーシアが制止すると、サライは一礼してそのまま部屋を出ていった。
「変なサライ」
 レウカディアは唇を尖らせた。
「レウカディア、そう言うものではありませんよ。彼は使えないのではないのです。使わないの。時が来るまで」
「時?」
 整った眉をふとひそめるようにして、レウカディアは訊ねた。ルクリーシアはかるくうなずいた。髪に飾った真珠の粒がゆらめいて、一瞬レウカディアの目を奪った。
「そう。私も前に聞いたのよ。そうしたらサライはこう答えたの、『時が来たなら、使うでしょう』とね。それが何時なのかは教えてくれなかったわ」
「何でかしら。確かにスペルの力無しでも超一流の軍人だけど……」
 レウカディアはそう言って、肩にかかった射干玉の黒髪を後ろへ払った。ルクリーシアはただ首を振った。
 そして昔の出来事に思いをはせた。それは八年前。
 士官見習いの昇級試験の日だったその日、彼女は父に付き添って会場にいた。その士官見習いの少年たちのなかに、当時十二才のサライがいた。銀色の髪に薄紫の瞳のセラード人の中、同じセラード人でありながら太陽のような金髪を持った《突然変異》の少年のことはルクリーシアも知っていた。ただでさえ目立つ上、まるで美少女のように可憐な顔立ちが一層目を引いた。
 それ以上にルクリーシアを引きつけたのは彼のスペルの高さだった。スペルというのは中原の中でも沿海州の一部、自由国境地帯のエレミヤ人とセラード人、ジャニュア人にしかない力――ほかの人から見れば特殊で、一種のまやかしか何かのようにみえるだろうが――自然のもろもろの力を司る精霊を従え、その力を行使する能力である。
 試験はごく簡単なものであり、それぞれに用意された対象物を壊す、または消すことであった。
十二歳の少年兵たちでは厚さ二十バルスの石壁にひびを入れる程度が関の山だったが、サライは違った。まるでそれが粘土の壁であるかのようにいとも簡単に消滅させた。それは、当時最強といわれていたラナ・ワーム将軍にも匹敵するスペルだった。
 サライはふと立ち止まった。
 足元で小さな、それこそ取るに足らない低級悪魔が鼠を齧っていた。彼はほとんど反射的にそれを切り捨てていた。
「シャルラ・ラーダですね。何の用ですか」
 後ろを振り向きもせずにサライは呟く。
「そんなに私のスペルが見たいのですか?」
「ええ」
 遠く、どこからともなくいらえる声があった。大理石の床が水のように歪み、そこからふわりとシャルラが現れた。下半身に暗緑色の鱗が生えた人魚。背から尾にかけて半透明の薄い羽が飾っている。髪も瞳も水色に輝き、髪は水中の花のようにゆらゆらと揺れる。レウカディアの配下の女魔道師であるが、なぜか彼女はサライに異常なまでの関心を寄せている。
「そのめくらましは止めてください。好きじゃない」
 サライは彼らしくもなく厳しく言った。シャルラは上品に肩をすくめた。次の瞬間、その姿はサライよりも頭一つ分小さい、小柄なクライン人女性に変わっていた。黒いローブと、首からさげた祈り紐の束で、彼女がかなりの力を持つ魔道師だと判る。
「何故、使わないのです。人間の力としては最高級のものを持っているのに。そう……上級魔道師であっても、貴方なら互角の戦いができるはず。それをたかが……あんな事で封じてしまうのはいささか……」
「シャルラ!」
 彼女の言葉をサライは途中で遮った。瞳を伏せたまま。
「その話をすればいかな貴女でも許せません。かねがね見たいと言っているスペルで消しても文句は言わせません」
 きっぱりとサライは言い切った。
「何故そう気にするのです? 母も父も貴方にはもういない。それを……きゃっ」
 シャルラの目の前にサライのレイピアが突きつけられていた。
「消されて構わないのならどうぞ。それに……私の妹は生きているはずです。死んだとは確認されていませんから」
 静かに言っているのでそれだけでは判らないが、その瞳は完全に怒りを表していた。
 冷たく光る黄金の瞳。
 シャルラはそれを何処かで見たことがあると思った。彼女を現実に引き戻したのは、剣を鞘に納める音だった。当のサライはさっさと歩いていってしまっていた。シャルラは短いため息をついた。何があんなに彼の心を閉ざすのだろう。事故で妹に死なれただけで。彼女は現れたときと同じように床に消えた。
 闇が全てを包み終わる時間。
 漆黒の空には十五日目の完全な月が浮かんでいる。満月はサライの嫌いなものの一つだった。彼は開け放した窓枠に腰掛け、月を観ていた。蒼い月光が金糸のような髪を洗うように照らす。
「リナ。生きているのなら会いたいのに」
 ぽつりと彼は言い、微かに頭を振った。長い睫毛がその瞳に愁いた影を落とす。
「あの時私がスペルを使わなければ、リナだって生きていたのに……。いや、それより私が生まれていなかったら……」
 サライは膝を抱えて額を押し付けた。床に水滴が落ちて黒い染みを作る。風が吹いて髪を弄んでいった。セラード――主に北方を起源とする中原の一民族。太陽神サライアを守護神に持ち、銀髪と薄紫の瞳をもつ人々。
 そのスペルは光。金の髪と瞳を持つ、サライアの力。


「助けて、父さん、母さん、姉さんっ!」
 アトは真っ暗闇の中を走り続けていた。後ろから悪魔が追ってくる。見えはしないが、なぜだか直感でそうだと判った。逃げなければ、捕まってしまったら殺されてしまう。ふと、前方に明かりが見えるのに気がついた。
 そこまで走れば助かるような気がして、アトはさらに速度を上げて走った。
(あと、もう少し)
 闇のトンネルを抜け、彼女は光のなかに飛び出した――かと思った。
「何処……?」
 さらさらと揺れる草原に座りこみ、アトはきょとんとして辺りを見回した。光の正体は十五日目の
月だった。そこは夜だったのだ。
 ぱたぱたと二つの足音が聞こえた。
 音のした方に目を凝らすと、兄妹らしい少年と少女が走っていた。少年は金髪、少女はお下げの銀髪だったが、顔立ちがどことなく似ていたのでそう思った。二人は後ろを振り返りもせずにただひたすら逃げるように走っている。
 それにしても何故走っているのだろう。アトは彼らの走ってきたほうのかなたを眺めてみた。
 黒い影。
 それに無数の触手があるのをみとめた。
(悪魔だ)
 追われているのだとアトは察した。不思議なことに、少年たちはアトに気づくふうでもなく、目の前を通り過ぎていった。
 一瞬見えた少年の顔は誰かに似ていた。確かに知っている筈だが、ただ誰なのか思い出すことができなかった。
「リナ、早く!」
 少年が叫んだ。
「待って、お兄ちゃん!」
 少女の言葉どおり少年は立ち止まり、遅れて続く妹を待った。丈高く生い茂った草は子供たちの足を阻む。その根に足を取られ、少女が転んだ。
「お兄ちゃあん! たすけてえっ!」
 少女が涙声で叫んだ。兄はそれに気づき、助け上げようと腕を伸ばした。そしてもう少しで届くというその時。
「きゃああああっ」
「リナ?」
 少女はずるずると草の上を引きずられていく。必死で抗うが虚しく土を掴むばかり。ざざっ、と音を立てて丘を滑り降り、少年は走り出す。少女の置かれている状況をアトはやっと飲み込めた。
 さっきの魔物の触手に捕らえられたのだ。
「いやあっ、放してーっ!」
 少年は必死で追ったのだが、触手のスピードに適うわけも無く、やがて少女の体が空中に持ち上げられた。黒い触手はなおも絡みつき、少女はまるで蜘蛛の巣にかかった蝶のようにもがいた。
 触手だけで作られたヒトデのような生物。
 粘液らしいものでぬるぬると光るその忌まわしい触手のなかに、体を所々食い千切られた無残な死体が幾つも巻き取られているのがはっきり見えた。その間にも悪魔はどこにあるのか判らない口で忙しく犠牲者たちを次々に喰いちぎり、呑み込み、こぼれ落ちる部分をまき散らしていた。
 頭の無い男、両手をもぎ取られ、それでも微かに息をしている女。
 悪魔が動くたび、それらの人々の姿が月明かりにあらわになる。アトの中で忌まわしいあの日が蘇りかけ、彼女は必死にそれを意識から追い出した。
「やめろぉっ! リナを、リナを放せーっ!」
 少年の悲痛な叫び。
 風など無いのに彼の金髪がざわりとそよいだ。
 美少年というよりも美少女ばりの美しさはアトにぞくりとさせるものを感じさせた。見る者に一瞬の沈黙を強要するほど美しいアメジスト色の瞳。
 魔物は少女を捕らえている触手に力を入れたらしく、小さく悲鳴が上がった。
「リナ!」
 その時のアトの驚きは、何とも説明がつかなかった。
 少年の薄紫の瞳が、どうしてか須臾の間に金色に変化したのだ。
 月光だけが光源だった筈の草原に、もう一つの光源が出現していた。その光は少年の周りから何処からともなく溢れている。日光のように金色で、全てを包む光。
「あの子……」
 たしかに知っている。あれは金髪のセラード人。美しい精鋭軍隊長。幼いころ見た神殿の壁画に描かれていた眩いばかりの、金色の……。
「光の精霊……」
 思わずその言葉が口をついて出た。だがその声は誰にも届かず消えた。
「リナを……リナを返せえーっ!」
 空気が揺れる。光は目も開けられない程になり、少年を中心に光と風とが弧を描いて砂を巻き上げる。蒼い月光と金色の精霊の光。その中でアトは、自分の意識が消えていくのを感じた。
 光が止んだとき、そこには何の音も無かった。耳が痛いほどの沈黙。そして延々と続く砂ばかりがそこにはあった。とはいえ、その砂の上にはばらばらになった人間の部分がいくつも、悪夢のように飛び散ってはいたが。その中に少年はただ一人生きて無事に立っていた。それも違う。彼は呆然と立ち尽くしていた。
 瞳は元の色に返っていた。
「リナ……父さん……母さ……」
 がくん、と膝を折って、彼はその場に座り込んだ。その目の前に母の指輪を嵌めた腕が転がっている。おそるおそる持ち上げると、抜けてゆく血が土を濡らし、黒く染め上げた。生きていた時、それが母の一部であったときには感じなかった重さ。
 青くけぶるような夜空に、完璧な満月だけが輝いていた。
 少年は母の腕、元は母として生きていたそれを抱きしめて泣いた。衣服が見る間に赤く染まった。
 再び、瞳が金色に変わった。
「母さん……母さんごめんなさい……僕だけ生き残ったりして」
 十年前と同じ言葉をまた繰り返す。何度この夢を見てきたことだろう。そして何度悔やんだことだろう。そして……
 目が覚める。
 頬が濡れているのに気がついた。
「また……あの夢……」
 サライは首だけ動かした。月は既に傾き、サライの横たわる寝台からは見ることができなくなっている。それでも、射し込む月光だけは見えた。久しぶりに十年前の《事故》の夢を見たのは、おそらく月があまりに明るかったからだろう。サライはそれを自分に対する罰だと思っていた。
 夜は静かに更けていく。
 怒りも悲しみも、すべてを包んで。


前へ  次へ
inserted by FC2 system