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     第一楽章 白昼の序曲



(助けて……)
 アトを取り巻くすべてが殺意だった。空気は毒に変わり、息をする度に喉が焼けるように痛む。関節が熱を持ち、だるい。体を支えきれずに、彼女は床にくずおれていた。それでも、まだ意識だけははっきりとしていた。
(苦しい……お母さん、お父さん……姉さん……何処?)
 ショックで、何が起こったのかもう分からなくなっていた。頭の中は真っ白で、ただ人間の奥底に眠る本能でアトは自分が危険にさらされていること、死を目前にしていることだけを理解し、そして逃げ出そうと必死で考えていた。アトはゆっくりと身を起こした。そして家族の姿を探す。後ろを探る手にべっとりと、生暖かな液体が触れた。血だ。
 それが父母のものだと薄々判りかけてきていた。
 次は自分が殺される。
 ぎし、と床板の軋む音がし、続いてフーッといった感じのため息のような息づかいが聞こえた。アトはテーブルの陰に身を潜めつつ、そっと覗く。足が見えた。赤茶けていて、まるで両生類のような滑りを持つ皮膚。それを鱗がびっしりと覆っている。足先には鋭い爪が伸びていた。
 その傍らに家族がいた。
 頭骨を無残に打ち砕かれ、その中の脳髄をぐしゃぐしゃに食い散らされている。手足、内臓もその原形を止めていない。血に染まった布の模様や色で、かろうじてそれが父母の着ていたものと同じだということだけが分かる。彼女は急に強い吐き気を催した。必死に口を押さえて我慢した。少しでも音を立てたらそれに気づかれてしまう。
「うっ……げっ……」
 理性に反して吐き気は強くなるばかりで、とうとう彼女は体を二つ折りにして吐いた。口の中に酸っぱい味が残る。涙と一緒に袖で拭った。かなり大きな音がしたはずなのに、それはぴくりともしなかった。
(気づいていない?)
 アトは拭いきれなかった涙でいっぱいの瞳を動かす。相変わらず、足はそこにある。視線をずっと上げていく。床を這う長い尾。ずんぐりとした胴。退化して鉤爪のついた三本指を生やしただけの短い腕。そして……。
 アトの瞳がぴたりと凍りついた。
 生気のない濁った色の爬虫類の眼。その姿は紛れもなく人間サイズのトカゲだった。無表情にかくかく揺れる顎には見慣れたものが挟まれていた。
 姉の顔が――
 次の瞬間、ぐしゃりと気味の悪い音をたてて、首が噛み砕かれた。糸を引くように血が滴る。悪魔は見せしめのように何度も首を咀嚼する。胃の中にはもう何も入っていないがもう一度吐き気がこみ上げてきた。正視するに耐えられないその光景に、アトは固く瞳を閉じた。再び、フーッという温かく湿った息が漏れた。血の生臭い臭いがする。それが顔にかかった。
「ひっ……」
 アトは身を縮め、小刻みに震えだした。今はこれが夢であることを願うのみ。目が覚めたならこの魔物を朝の光が消し去ってくれる。母が笑って話しかけてくれる。
 すべてが消えればいい。すべて……
「消えてええっ! どこかに行ってえっ!」
 アトは声の限りに叫んだ。
 そのとたん、悪魔の体が不自然に捻じ曲がった。最初に首が千切れ飛び、次に体が大破した。ピンク色の肉片が飛び散る。そして同時に、その肉片は溶けるように消えていってしまった。
「誰かいるのか? 返事を!」
 エセル訛りだが中原語。たった数時間聞かなかっただけなのに、懐かしく響く。安堵のために身体中の力が抜けそうだったが、それでも声を張り上げた。
「います! 助けて!」
 大気に満ちていた殺意がみるみるうちに消えていく。アトはほっと全身から力が抜け、意識が遠のきかけるのをどうにか抑えた。彼女に気づいた兵士が家の中に踏み込み、死体を踏まぬように気をつけながら彼女を抱き上げ、家の外に連れ出してくれた。
「副隊長、少女を一名保護しました」
 エセル訛りの男は副隊長に事務的な報告をすると、それからアトを村の広場に作られた応急の避難所に預けた。そこにはすでに救助されたらしい見慣れた村人たちがいて、アトを見てどちらも痛ましげな視線を交わした。誰も、口をきかない。怪我をしている者もいて、衛生兵の手当てを受けていた。かなり重い者もいるらしく、地面に直に敷いたマットレスに布を掛けた上に寝かされ、とぎれとぎれのうめき声を上げていた。
 辺りを見回すと、兵士たちがきびきびと動き回り、村のあちこちからトカゲの姿をした悪魔の死体を引きずり出していた。救助が間に合わず殺された村人たちの死体も白い布に包まれて、運び出されている。
 村があの悪魔の群れに襲撃されたのだ。ここでは――いや、スペルを持つ人々が暮らす土地ならかならずあることだ。なぜか、悪魔と呼ばれる異形のものたち――だからこそ悪魔なのだ――はスペルを持つ人々が住む場所に現れる。現れるだけならまだしも、こうして人々を襲う。一説には、人々が自ら悪魔と戦えるように神は人々に精霊の力、すなわちスペルを与えたのだという。
 アトは頭を抱えて座った。家族でたわいない話をして、食事をしようとしていた。幸せで、何も言うことなどない時間だった。その時に、いきなりあの悪魔が裏口から飛び込み、まず母に食いついて殺したところまでは覚えていた。だが、それから何があったかは霧の中の出来事のようでよく覚えていない。
「アトちゃん……。シザルさんとピノさんと、ナノちゃんは……?」
 ぼうっとしたまま、アトが兵士たちを眺めていた時だった。ふりむくと、隣のマハルがいくぶん悄然とした顔つきで立っていた。
「マハルさん……」
 彼には妻と、まだ幼い子供がいたはずだが、とアトは思った。それから、マハルの質問への答えとして力なく頭を横に振った。マハルは大して驚いたようでもなかった。そして同病者同士のあの口調でつぶやいた。
「うちもだよ……いきなりだった。メリルもレノも、あっというまだった……」
 慰める言葉も無くて、アトは藍色の瞳をせつなげに瞬かせた。どこも、同じような状態なのだろう。マハルは軍が支給してくれたというあたたかいスープを持ってきてくれていた。
座って二人でそれを少しずつすすった。その間に、マハルはぽつりぽつりと何がこの平和だったシェスの村に起こったのかを話してくれた。
 やはり、あのトカゲの悪魔の群れがこの村を襲ったということだった。そこにたまたま、クラインで最も質の悪い悪魔の一種である鋼鉄虫が大量発生していた現場から戻ってくる途中の皇帝直属精鋭軍の一隊が通りかかり、助けてくれたのだという。
「それでなくちゃこんな小さな村、全滅していただろうな」
 マハルはそう言うと力なく笑った。
 彼の言ったとおりだった。村人の大半はすでに殺されており、生き残ったのは六百人ほどいたはずの中、たった二百人であった。悲しみに沈むうちに、その日は軍の者たちが一家全滅してしまった家の者を埋葬したり、生き残った家族が埋葬を行うのを手伝うだけで暮れていった。他にも人はたくさんいたが、アトはすすり泣きの絶え間なく聞こえる軍の天幕の中で、生まれて初めて孤独な一人だけの夜を過ごした。
 シェスはクラインでも辺境にあたるダネイン州の、乾燥した丘陵地帯に入っている小さな村だ。二日経つと、ダネイン騎士団のほうからの救助が遅れて到着した。
 全ての埋葬が終わったのは、信じられないくらいおだやかな日だった。軍のほうはもう首都カーティスに戻るという。アトはあの日、いっぺんに身寄りを失ってしまった。唯一の親戚だった叔父の家も、一家全滅していた。
 そうなった者たちの大半は村に残ると決め、まだ悲しみの傷跡が残る家に戻り、今までどおりとはいかないが普段の生活を始めていたが、残りの者は他の村や町に移っていくと決めたようで、ぽつぽつと別れを告げる人達が村の木戸を出ていっていた。
 マハルは村に残るという。アトは、自分の身の振り方を決めあぐねていた。村に残ったとしても家族はもういないし、頼れる者もいない。そう思ったとき、アトは軍についてカーティスに行こうと考えた。そうするものも少なくなかった。
「あの……私、カーティスに行きたいんです。もうこの村には身寄りもなくて……。おねがいします、連れて行ってください」
 勇気を振り絞って、アトはそこにいた兵士に頼み込んだ。クライン人の黒髪と黒目の男は困ったように彼女を見て、兵士たちが集まっている一角を指差して教えてくれた。
「俺みたいな一兵卒に頼んだってしかたないよ。あそこに隊長か副隊長がいるから、そっちに話してごらん。話の判らない人じゃないし、あんたみたいな人はけっこういるからね。多分ゆるされるだろうよ」
「はい」
 彼に礼を言いながら別れて、アトは指し示された一角に走っていった。そこでまた手持ち無沙汰にしていた者をつかまえて隊長はどこにいるかと尋ねた。持ってゆけるだけの荷物を詰め込んだ革の袋を肩にさげ、長旅用のブーツを履いている彼女の姿を一瞥して、彼は目的が判ったらしく、微笑みを浮かべながらついてくるように言った。
「こっちにいるよ。あの背の高い金髪の人だ。ただし、話が終わったらね」
 《隊長》の方を見ると、赤い髪と瞳で一目でティフィリス系の血を引いていると判る男と何か話していた。白尽くめの制服に鎧とマントをきっちりと着込んでいる。さすがにマントは短かったが。話が済み、ティフィリス系の男が行ってしまうと、隊長が振り向いた。金髪に淡い紫の瞳。そしてその髪と瞳の色は、彼女の知っているどの民族にも当てはまらなかった。
「あ……あの、あなたがこの軍の、隊長様ですか?」
 アトはおずおずと切り出した。
 彼は彼女の方に歩み寄ってきた。アトの前に立つと、彼女よりずっと背が高いので見上げる形になった。そうして間近で見てみると彼はおよそ軍人らしくない美貌の持ち主だった。体つきもほっそりと華奢で、どこかはかなげな印象すら受ける。
「そうだよ。……君の名前は?」
 一瞬、自分に言われたのかどうか疑ってしまうほど優しい声だった。
「ア……アト・シザルです」
 アトは彼のアメジスト色の瞳にしばし見とれ、つい吃った。これほどに完璧という言葉が
ふさわしい人間がいるとは信じられなかった。
「で、何の用向きで?」
「あの、同行させていただきたいんです」
「ああ……そういうことか。もちろん却下はしないが……どこかに身寄りはないのかな。悲しいことだったがその方がいいと思うけれど……」
 アトの、エレミヤ人特有の瑠璃色の瞳がふと悲しみの陰をおとした。
「父も母も姉も死にました。叔父の一家も……」
「………」
 彼はそれ以上何も言わずに、しばらくアトを見つめていた。そこにさっきのティフィリス系の青年が来て、一言ふた言ささやいた。驚いたように、隊長の目が見開かれてちらりとアトを見て、それから頷いた。
「いいだろう。ついてくるといい。道中の安全は保証する。ただしカーティスにも身寄りはいないんだね?」
 アトはうなずいた。
「そうだな、王宮の侍女なら住み込みだし、衣食住に不足は無いと思う。紹介がいるだろうから私が後見人になろう」
「え……?」
 彼女は一瞬、この降って湧いたような幸運が信じられなかった。それから、堰を切ったように喋りだした。
「あの、私、いいんですか? 本当に、カーティスに行っても……それに、王宮で働くなんて……私みたいな……」
「私みたいな? そういう事は気にしなくてもいい。言っただろう? 私が後見人になるって。それに、行きたいから君は頼みに来たんじゃないのか?」
 彼はアトの心配をあっさりと払拭してくれた。
「貴方の名前は……?」
 アトができるかぎり訛りを出さないように気をつけながら中原語で尋ねると、彼は初めて笑った。
「私はサライ・カリフ。精鋭軍一番隊の隊長。呼ぶときはサライで結構」
 マナ・サーラの月のその日、クライン帝国内のダネイン州に位置するエレミヤ人の村シェスが悪魔に襲撃された。生存者は六百人中二百余人。助かったのはほぼ三人に一人という惨劇だった。その生存者の中に彼女――アト・シザルはいたのだった。


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