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     あまたの儚きうつつの中に
     人はその命を燃やし
     運命をおのれのものと信ず
     しかしそれも全ては
     ヤナスの御手に戻るのである
             ――ヤナス頌歌




     プロローグ




 その時代――記録するものも誰一人いないために〈空白の時代〉と呼ばれるその時代。この時代について語るものがいないのと同様に、その時代よりも前の時代に関してもやはりおぼろげで半ば神話めいた口誦、伝承のうちにある記憶だけが残っている。
 人の知りえる範囲だけにしか〈世界〉がなかったころ、彼らは何を信じていたのか。海の果てにあるとされる海神ネプティアの国、マナナン。東の果てにあるという、風神エレミルの風の谷の伝承――そこはまだ神々のしろしめす時代であったのか。
 そうではない。神々はすでにこの世界から姿を消して久しかった。だが人々はそれを信じて生きていた。その実在は誰も信じてはいなかったがしかし、彼らは畏れをもって彼らの〈世界〉を眺めていたのだ。
 我々が空白の時代と呼ぶその時代――そこはすでに我々が失ってしまった異界への畏れ、神々への畏敬がまだ存在していた。
 朝日の中には太陽の馬車を駆って走る太陽神サライア。
 闇の恐怖の中にはその弟であり、全ての災厄を司り、悪魔の王たる暗黒神サライル。
 銀の月の中にはサライアとサライルの妹神、二人の兄がいさかう姿を憂いて日ごとにやせ細り、やがて蘇る月女神リナイス。
 命の神秘の中には白き翼を持つサライアの双子の娘、光の中に踊る生の女神サーラインと、人々の魂を安息の国バローリアへと導く死の女神サーライナ。
 血のごとく紅い鎧を纏う戦闘と火炎の神ナカーリア。その妻にして時にはその炎に焼かれ、春に蘇る大地母神、森女神マナ・サーラ。二人の娘、花の冠を戴く乙女、花女神ユーリース。マナ・サーラの弟神であり、ユーリースの恋人である風神エレミル。
 その職能ゆえに姿を与えられなかった夢幻神レウカディーン。たおやかな湖にして荒れ狂う嵐の水神ルクリーシス。三叉の矛を持ち、波の合間に海豚に牽かせた車で遊ぶ海洋神ネプティア。他の神々をすら魅了したその妻――愛と美の女神ディアナ。
 人々の運命と時を司り、老人と青年の顔を併せ持つ双面神ヤナス。全ての神々の母、この世のはじめにあり、世界の全てを創造したという創造女神アティア。
 どこにでも神はいた。そしてどこにも神はいなかった。

 その時代――人々が中原と呼び習わすその地域、広大な大陸の一つに、不思議な力を持つ人々がいた。その力は神の守護を受けた精霊の力。すなわち〈スペル〉と呼ばれ、彼らの守護である神々の属性を持っていた。彼らはそれぞれに集まり、国を作った。スペルを持たぬ人々もまた、魔道と呼ばれる精神科学を発達させ、彼らのように国を作っていた。
 歴史上、この時代は乱世と呼ばれている。長く続いた戦乱時代の後、暫くの平和が続いたかと見えた、その次の時代。いくつもの強国が興り、栄え、衰え、盛り返し、あるいは滅び去っていった。この時代、世界は何か一つの、あるいはいくつかの理念や旗印のものではなく、また誰か一人のものでもなかった。国々も、王たちも、理念、あるいは何らかの体制も、すべてが、自らが絶対たりえないことを心得ていた――神々とその司祭たちですら、そうだったのである。
 すべてがそこには栄光と同じように暗黒があり、戦火と残虐とともに平和と繁栄もまた共存した。矛盾としかいいようのない時代の中、それゆえに二束三文のがらくたの中に真がかくれているような、そんな時代でもあった。
 国々はたがいに覇を競い、併合し、併合された。王たちには暗殺の危険と同時に彼自身の国民から突きつけられる不信任の危険も常に存在していた。王族は神聖であったが同時に不可侵なものでもなく――これはこの時代の根本的な美点、ないしは冒涜の一部であったが、それは神々についてさえ同じことが言えたのである――しかるべき敬愛を受けてはいたがそれは彼らがそれにふさわしい間だけだった。
 そこではどのようなできごと、あるいはものごともそれぞれの場所を要求する権利があった――クーデター、暗黒政治、暗殺、陰謀、圧政、慈悲、虐殺と裏切り、卑劣と高潔、狂信者、下克上、天変地異、そして奴隷と自由市民、正義のおこなわれることさえ。それは我々がいまや失いつつある、または失ってしまったまことに輝かしい矛盾、何もかもを容認する、素朴で、しかも力に満ちた時代だったのである。
 そこには当然、英雄たちの場所もあった。彼らの時代は、卑劣漢、暗殺者と同様、偉大な皇帝、剣を手にした梟雄の手でもまた形作られるものであった。
 俗に言う「三国時代」――たがいにあれこれの盛衰はありながらも、クライン、ゼーア、メビウスの三強国が、周囲の小国を併合し、あるいは中原に覇をとなえ、あるいは厳しい撤退を強いられつつ、つねに歴史の主役であったところの、この時代はすなわちまた、ある意味では英雄列伝の時代でもあったのである。
 それは個人が、いかようにも偉大たりえ、また卑小たりえた最後の時代であった。その意味ではそれは神話のさいごの一幕である。それをいろどった、聖王、梟雄、美姫、暴君、軍師たちは列挙すれば数限りもない。
 星から下り来たクライン建国の聖大帝アルカンド、その盟友にしてメビウス帝国の祖、高潔王メディウス、ゼーアの初代皇帝ヴァレリアス、王位請求者マイラ、無血革命の皇女レウカディア、第三次中興メビウス帝国の祖となったアルドゥイン――そして炎の破壊王とあだ名されたゼーアのアインデッド。そして――彼とともに自らの愛する故国クラインを血に染めた宰相サライ・カリフ。
 綿々とつづられていく英雄列伝の時代の中で、もしひときわ巨大な光芒をはなつ〈生ける神話〉の足跡を求めるとするならば、それは疑いもなく、地上に降りた神々の物語となるはずである。
 彼はその行くところに悲しみと嘆きとそして死を運んできた。しかしそれは、彼にとってすら悲劇であったのかもしれない。災いと嘆きの運び手とて、その故を以て運命から逃れることはできないのだから。最後の神話時代――それは大いなる悲劇の時代でもあったのだ。


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