06<<機械仕掛けの迷宮07>>Next chapter



 太陽がすっかり昇りきった頃、やっとアウグスティーナは目を覚ました。彼女が目を覚ましてすぐに思ったのは、いつもより周りが明るく、音に満ち溢れている、ということだった。魔法で再生しなければ聞けないはずの鳥の声や、正体が判らない、ざわざわした音がアウグスティーナを取り巻いている。
「おはようございます、アウグスティーナ様」
 背中を向けていたナフアとマリンが彼女の目覚めた気配に気づいて振り返り、いつものように美しい頬笑みを浮かべた。
「おはよう、ナフア。おはよう、マリン」
 二人の様子は常と変るところがなかったので、アウグスティーナは安心した。だが彼女はすぐに、自分が慣れ親しんだ寝室ではなく、もっと狭い場所におり、寝台にすら横たわっていなかったのだという事実に気づいた。それを言葉にする前に、二体の機械人形は立ち上がり、頭を下げた。
「申し訳ありません、アウグスティーナ様。お目覚めの飲み物も、洗顔の湯も用意することができません」
「……何があったの。ここはどこ?」
「ルドベキア平野――地下迷宮からずっと離れた場所です。アウグスティーナ様は今、地上におられるのです」
 ナフアが答えた。その言葉は叔父ベイオリーフが自分の居場所を知り、殺そうとしている、ということを意味していた。父を殺し、母を結果的に死なせ、自分を地下迷宮に隠れ住まざるを得ない状況に追い込んだ男に対する個人的な憎しみはアウグスティーナの中にはなかったけれども、叔父に見つかるということがすなわち命の危険を意味することはしっかり理解していた。
「ここが外の世界なのね」
 ため息のような呟きをアウグスティーナは漏らし、首を曲げて周りを見渡した。空の色は地下で見ていた天井と何も変わらないけれど、ずっと透明で、高い。太陽はずっと大きくて、彼女の髪と同じ色の光を放っている。空の所々には塗り残したような白い塊。まるで綿のようだ。
 その空を覆うように、緑の木々。密に茂り、風にざわめく葉擦れの音が耳に心地よい。木立の隙間から見える光景は様々な色相を持つ一面の緑で、彼女はこれまでこのような景色を実際に見たことはなかった。
「きれい……」
 これから始まる彼女の世界は限りなく広かった。むろん、二度とは戻れぬだろう心地よい過去の世界に対する懐かしさと、それを失った悲しみはあったけれども、今は外界への感嘆と驚きが彼女の若い心を満たしていた。
 気が済むまで景色を眺めてから、アウグスティーナは彼女の質問なり、命令なりをじっと待っていた機械人形たちを振り返った。何も外のことを知らず、庇護されてきただけの彼女であったが、今日からは日々の生活からあらゆることを学び、自らを守れるようにならなければならないのだ。そのことは薄々感じていた。
「私たちはどこに行くの? 私はどうすればいいのか、教えて」
「どこに参るかを具体的に決定することはできません。帝国軍の目の及ばぬ場所を探し、身を隠すことを考えております。ですが定住は難しいものと思います。アウグスティーナ様はお命を狙われておりますゆえ、どこに参るにせよ身分を隠さねばならないでしょう。非常に申し訳ございませんが、我々も殿下を皇女として遇しかねる事態が出来することもございますでしょう」
「では、名前を変えたりするのかしら」
「人々の中に出なければならない時には、そのような必要も出てまいりますでしょう。それに、殿下の髪の色は正統な皇帝と、第一帝位継承権者のみが有する特別なものですから、これも……」
「染めるのね?」
 これにはむしろ楽しそうに、アウグスティーナは言った。
「また、お食事も生活も不自由なものとなります」
「そんなこと、殺されてしまうことに比べたら、ずっとましだわ」
 すまなそうに言ったマリンに、アウグスティーナは明るく返した。そして周囲をぐるりと見回した。
「それに、私は何も悪いことだとは思わないわ。いつかは来る日だったのだもの。たしかに、叔父様が父上ばかりか私を殺そうとしているのは悲しいことだし、嫌だと思う。でも外の世界を――私の(、、)メルボニアを知るというのは大切なことよ。嫌なことでも、そのためだと思えばなんてことはないわ」
「アウグスティーナ様……」
 どんな逆境も、この少女を拗ねさせたり、絶望させたりすることはないようだった。
「まずは、私の偽名を考えなくてはね。何がいいかしら。お母さまの名前の、リスターナはどう?」
「皇后陛下のお名前は、国民全てが知っていると申しても過言ではございません」
「あら、そうなの」
 ナフアが言うと、アウグスティーナは少し残念そうな顔をした。
「私の名前も、叔父様は――国民も知っているのかしら」
「恐らくは。殿下がお生まれになったのは地下迷宮に入ってからでございますから、性別はまだ知られていないと思いますが、アウグスティヌス陛下はリスターナ陛下のご懐妊直後から、産まれてくるお子様が男児ならばオクタヴィアヌス、女児ならばアウグスティーナとお定めになっておられましたゆえ。それに、住居は焼き払いましたが、殿下が皇女である証拠を全て隠しきれたとは申せません」
「ならナフア、マリン、他の人たちの前では私をティナと呼んでいいわ。リシュリータでもいいけれど」
「かしこまりました。では、ティナ様とお呼びいたします」
 二人が頷くと、アウグスティーナはちょっと恥ずかしそうに胃の辺りを押さえて、小さな声で言った。
「ね、食事がないということは、まだないわよね?」
「少々お待ち下さいませ。ご用意いたします」
 言い置いて、マリンはトランクの中を探り出した。簡単な煮炊きはできるように、小型の調理器具と燃料、それに食器なども食料と共に積み込まれている。
「ご用意できるものは粗末なものとなりますが、お許しください」
「私、文句なんか言わないわ」
 アウグスティーナはちょっと胸をそらして宣言した。小一時間ほどして、生まれて初めて外界で味わう、そして初めての「粗末」な食事が用意された。パンと、付け合わせの野菜はよく見るものだったが、メインとなった肉料理は彼女にとって初めて見るものだった。それは朝早く、ナフアが仕掛けた罠にかかった鳥であった。
「これは何?」
「鳩という鳥の肉でございます。お口に合いますか?」
「とてもおいしいわ」
 合成された蛋白ではない自然の食物は、それだけでアウグスティーナには新鮮な喜びと驚きをもたらした。味付けは塩と少量の香辛料だけだったが、彼女はその本来持つ味を堪能した。
 やがて食事を済ませると、上品にナプキンで口を拭いながら、思い出したようにアウグスティーナは言った。
「私の名前を民も知っているだろうということは、ナフアとマリンのことも、きっと皆の知るところなのでしょうね?」
 今までアウグスティーナの事ばかりを考えていたので、二体の機械人形は自分たちのことをすっかり失念していた。しかし、十五年前にはまだ生まれていなかったアウグスティーナの情報よりも、自分たちの情報の方がもっと多く流れているだろうことは、彼女の指摘どおり間違いなかった。
「さようでございますね」
 マリンが頷いた。
「二人の偽名も考えましょう。何がいいかしら?」
「お使いになるのはアウグスティーナ様ですから、アウグスティーナ様がお決めになって下さいませ」
「いいの? そうね……」
 半ば嬉しそうにアウグスティーナは腕組みをした。しばらくしてから、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「それでは、ナフアがメルで、マリンがリタ。それでいいかしら?」
「私がメル、マリンがリタでございますね。ではそういたします」
 一時的な措置であるが、人間とは違い、機械人形は記憶回路そのものを書き換えることができる。ついうっかり返事をし忘れたり、呼び間違えることはあり得ない。アウグスティーナが間違えないかぎりは人前でぼろが出ることはないだろう。
「どのような意味がございますの?」
 マリンが訊ねると、アウグスティーナは笑った。
「メルボニアのメルと、リシュリータのリタよ。安易かしら?」
「いいえ、決して。素晴らしいお名前を頂戴いたしました」
 片づけをしながら、二人は答えた。水もなるべく節約しなければならなかったが、彼女たちが隠れた林の中には小さな泉があったので、当面の生活用水はそこから調達することにして、食器を洗ったり、アウグスティーナをさっぱりさせてやるための湯を沸かしたりしはじめた。
「私たちはどこに行くの?」
 マリンに、湯に浸して固く絞った布で体を清めてもらいながら、アウグスティーナは訊ねた。それにはナフアが答えた。
「近辺の村や町は、殿下を捕らえる命令が回っていると考えて間違いございませんから、そのような場所には近づかず、もっと国境に近い辺境を目指すつもりでございます。地理は覚えておいでですね?」
「ええ。確かキタイに近……」
 頬を拭かれたので言葉が途切れたが、アウグスティーナが理解を示していることは判ったので、ナフアは先を続けた。
「タイムに身をお寄せいただくつもりでおります。タイム辺境伯は、正統なる帝位はアウグスティヌス前陛下の御子――つまりアウグスティーナ様のものであり、ベイオリーフを皇帝とは認めず、今も戦いを続けておりますゆえ」
「でも、私の居場所を突き止めたということは、恐らくは叔父様が《メルボニア》に認められたということよね?」
「《メルボニア》の承認と申しましても、正統後継者のアウグスティーナ様がご存命であるかぎり、それは仮承認に過ぎぬものでございます。ですからアウグスティーナ様がいまだ第一帝位継承権者――いえ、即位こそ未だながら、正統皇帝であらせられることに違いはございません」
「ではタイムに行って、タイム辺境伯の後ろ盾を得て、そこで正統皇帝の名乗りを上げるということ?」
「むろん殿下にそのお心がございますならば、いつなりと。もしもお心なく、市井の者としてお過ごしになることをお望みでございましたならば、他に安全に身をお寄せいただける場所を探します」
「それには及ばないわ。私は父上のメルボニアを取り戻さなければならないもの」
 きっぱりとアウグスティーナは言った。それは庇護されるだけのか弱い少女の顔ではなく、支配者たるべき運命を背負って生まれたと自覚し、そのために生きようとする皇女の顔であった。
「私の味方をしてくれる貴族は、そのタイム辺境伯だけなのか、それとも他にも幾らかはいるの?」
「私どもが知るかぎり、タイム辺境伯カイエン、ボウルズ侯爵ドルシウス、パシージャ伯爵リュグダムスが反ベイオリーフ派の主だった面々でございます。その他につきましては十五年間地下におりましたゆえ、新しい情報を得ることは難しく、情勢をつかみかねていることは先にお詫び申し上げます。問題は、諸侯らが十五年の間にどれほどベイオリーフに従うようになったか、またそれが心からのものであるか、ということでございます」
 ナフアは何もごまかすことなく、ありのままを告げた。アウグスティーナを取り巻く状況は、あまり良いものとは言えなかった。



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