機械仕掛けの迷宮01>>02



「王手」
 透き通るように白い指先、桜色の爪が白く塗られた駒を軽く弾いた。王冠を模した頭部を持つ駒はそのままつまみ上げられ、盤の外へと出された。白の王があった場所には黒い駒が取って代わる。
「午後の授業はあなたの担当ね、マリン」
「嫌だわナフア、そんな約束はしていないはずよ。それにあなた、ラルーチェで私に負けたこと、一度もないじゃない。大体、これを賭けにするのはずるいわ。あなたと私とじゃ、頭の作りが違うんだから」
 遊戯盤を挟んで向かい合って座るマリンは、眉をひそめて恨めしげな目でナフアを見、硬質な輝きを持つ銀の髪をかき上げた。その澄んだアクアブルーの瞳に映るナフアの髪も瞳も、マリンと全く同じ色をしていた。
 だが、彩る色は同じであったが二人は対照的な姿をしていた。マリンは波打つ豊かな髪を背中の中ほどまで伸ばし、まろやかな顎の線、二重の夢見るような大きな目を持っていて、柔らかな雰囲気がある。対してナフアは細面で、肩にかかる程度の長さで切りそろえた真っ直ぐの髪と切れ長の目を持ち、眉も線を引いたように細くまっすぐで、どこか冷たい雰囲気があった。
「冗談よ。午後は私の担当だもの」
 言いながらナフアが立ち上がると、体にぴったりと密着した継ぎ目のないドレスが衣擦れの音を立てた。装飾などは一切なく、喉元まで覆うデザインの黒いドレスは神に仕える者の衣装を思わせたが、あいにく彼女たちに信仰などというものはなかった。
 部屋を出たナフアは、枯れることのない花々で美しく整えられた庭園を臨む、優美な曲線を描く鋼鉄の柵が巡らされた外廊を歩いていった。まるで自分たち以外に生きて動いているものなどいないのではないかという感覚を抱いてしまうほどしんと静まり返り、誰の気配もない。
 さんさんと照る太陽は常に同じ時刻に昇り、また沈む。軌道も年間を通じて変わらない。それが人工の光源であることを知っているのは、かつてはナフアとマリンだけだった。太陽だけではない。ここでは目に見えるもの全てが――目に見えぬものもあったが――人の手によって作られたものだった。
 ここは、地下深くに作られた魔法仕掛けの迷宮であった。
「あら、もう勉強の時間?」
 目指していた部屋の扉を開けると、可愛らしい声が彼女を迎えた。人工の太陽よりも眩しい色の髪を揺らし、ナフアへと駆け寄る少女の年の頃は十歳ほど。彼女はかつて仕えた主人の娘であり、今の主人であった。
「はい。午前は何を学ばれましたか?」
 ナフアは言いながら、机の上に雑然と広げられた教材を見た。こういう状態の時は、あまり真面目に勉強したくない気分だということはこれまでの傾向からすぐに判る。その読みは外れず、少女はナフアに近づくとその手を取った。
「ねえナフア、今日は外のお話をして」
「ではそういたしましょうか」
 ナフアは微笑み、頷いた。少女が学ばなければならないことは多いが、多少の脱線があった所で問題はない。同じ毎日の繰り返しで主人を飽きさせたり、気分を損ねたりすることこそ、最も避けねばならないことだった。
「何のお話をいたしましょう?」
 勉強用の机から離れ、長椅子に並んで腰かけたナフアに、少女は訊ねた。
「ここがどんな場所なのかはもう判ったの。では、なぜここに私がいるのかを教えて」
 彼女の質問に、ナフアはしばし困ったような微笑みを浮かべた。できればその質問には答えたくなかったが、どんな質問であれ必ず答えなければならないように命令され、その命令は絶対である以上、口を開かないで済ませることはできなかった。
「詳しい事情は、御母上のご命令により、殿下が十二歳の誕生日を迎えられるまでは話すことができません。ですから、本当に簡単なご説明となってしまいます。それでもよろしゅうございますか?」
「ええ」
 素直に少女は頷いた。ナフアは目を閉じ、何かを思い出すようなしぐさをした。
「十年前まで、このメルボニアの皇帝は殿下の御父上、アウグスティヌス陛下であらせられました」
「それは知っているわ」
 少女は利発そうな青紫の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「ことの始まりは、その十年前の出来事です」
 ナフアの記憶回路に、その時の映像がまざまざと蘇った。火をかけられた宮殿、逃げ惑う人々、大地を伝う血の流れ――。常の人間と違って、いつまでも褪せることなく、薄れて消えることもない記憶。それを振り切るように、ナフアは少女の顔を見下ろした。
「御父上は謀反に遭い、お命を奪われました。当時、殿下を身ごもられていた御母上のリスターナ陛下もお命を狙われましたが、廷臣たちの中でただ一人逃れえた宰相フェンネル閣下によって王宮から脱出し、ここまで落ち延びられました。ここは前にもお話しいたしましたように、正統に帝位を継いだ者しか知りえない、《メルボニア》の魔力に守られた地下の迷宮です。それゆえ、殿下は今日までこの地でお過ごしになっているのです」
「では、私はここで産まれたのね」
 少女――今現在、メルボニア帝国唯一の正当なる帝位継承権者であり、先帝の遺児であるアウグスティーナ・リシュリータ・ドミナテオネスは感慨深い声を上げた。このあどけない少女の世界は驚くほどに狭い。
「ナフアやマリンは、どうしてここにいるの?」
「わたくしどもは、皇族をお護りするように命じられております。それゆえ、リスターナ陛下がここに逃れられた時、わたくしどもも護衛として参りました。そして今はアウグスティーナ様をお護りするためにここにおります」
 その答えがアウグスティーナにどのような印象を与えるかは考えないでもなかったが、虚偽を述べることはできなかった。
「その命令がなかったら、ナフアもマリンも、私の傍にはいてくれなかったの?」
 案の定、アウグスティーナは寂しげな目をしてナフアを見上げてから、ついと窓の外に視線を向けた。大迷宮の名の通り、人工の空間としてはここは広い。アウグスティーナが住まう宮殿を囲むように、彼女の食糧を調達するために造られた田園が広がり、その果ては遠くかすんで見える。家畜がいないのは仕方がない。長年人の手が入らず、魔力だけで保たれてきた場所に動物がいようはずもないからだ。
 この地下迷宮を作った古代の魔力は、宮殿を何百年――ことによると何千年も――造られた当時の姿のまま保ち続けてきた。だが田園を耕すために使っている機械人形は、逃亡後にナフアたちが密かに外から買い入れてきたものだ。魔法石を核とし、魔力を動力源として動く人形である。
 この大迷宮の中で、生きている人間はアウグスティーナだけだった。かつて落ち延びてきた時、すでに重傷を負っていたフェンネル宰相はまもなく死に、彼女の母リスターナも産後一年で病死していた。
 物心つく前から、アウグスティーナは魔法によって世話をされ、人間ではないものに仕えられてきた。
「確かに、私は命令によってここにおります。ですが、たとえ命令が無くとも、アウグスティーナ様のお傍から離れることはございません」
 ナフアは慎重に言葉を選んだ。まだ十歳というのに――それとも、子供ゆえの直感なのか――アウグスティーナは時にはっとさせられるほどの洞察力を見せることがある。
 振り向いて再びナフアを見つめた顔には、屈託のない笑みがあった。
「次の質問をしてもいいかしら?」
 その時、ノックの音とともにマリンが入ってきた。
「お茶の時間でございます、アウグスティーナ様」
 それを潮時にして、二人の会話は一旦途切れた。隣室には既に休憩の支度が整えられていた。血のしずくのように真っ赤な薔薇の刺繍が施された真っ白なテーブルクロスが掛けられた華奢な机の上には、銀製のポットと優雅なティーセット、ささやかな焼き菓子が載せられている。
「まあ、今日はお菓子があるのね?」
 アウグスティーナは子供らしい喜びの表情を見せた。
「何をお勉強なさっておいででしたか?」
 嬉しそうに焼き菓子にフォークを入れながら、アウグスティーナは答えた。
「歴史のようなものよ」
 本当か、とマリンはナフアに問うような目を向けたが、ナフアは肩をすくめただけだった。
「ナフアとマリンは、いつも何も食べないのね」
「私たちに、食べるという概念はございませんから」
 マリンは微笑み、うなじの髪をかき分けて首を傾けた。そこには人間にはありえるはずのないものがあった。彼女の首筋には親指の太さ程度の直径がある、金属製のソケットがはめ込まれていた。
「ここから魔力を補充すれば済みます」
「ナフアも?」
 アウグスティーナはもう一体の機械人形を見やった。ナフアは口元に曖昧な笑みを浮かべた。
「私は純粋な魔力補充型ではありませんので、魔法石からの補充に加えて人間と同じ食料から魔力を摂取することもできます。多少時間がかかりますし、大した量を摂れませんが、食べるという行為に近いですね」
 アウグスティーナはその質問以降、お茶を終えるまで終始無言だった。
 お茶の時間を終えると、「使用人」の一体が無言のままティーセットを片づけに来た。命じられたことを単純に行うことしかできない「使用人」たちと違い、ナフアとマリンは自ら考え、行動することができ、感情もあらわすことができた。アウグスティーナには、同じ機械人形だと言われても二体と他の人形たちは、全く別のものとしか思えなかった。
 つと立ち上がり、彼女はバルコニーに出た。二体の機械人形もそれに続く。風はないが、暖かな光が体を包み込む。
「ナフア、お茶の前にしたかった質問はね、生きているとはどういうことか、命とは何かと聞きたかったの」
 するとナフアの代わりに、マリンがアウグスティーナの傍らに跪いた。
「私の手を握ってみてください」
 言われたとおりに、アウグスティーナは差し出された手を握る。およそ機械とは思えない、毛穴から産毛、うっすらと透ける血管まで精巧に造られた手だった。
「殿下の手と比べて、私の手をどのように感じますか」
 アウグスティーナは首を傾げた。
「冷たくはございませんか」
 答えを見つけられないでいるアウグスティーナに代わり、マリンが呟くように先を続けた。アウグスティーナははっとしたように彼女の顔を見たが、その水色の瞳からは何も読み取ることができなかった。
「少し、冷たいかもしれないわね」
 ようやくアウグスティーナは言葉を発した。マリンは頷いた。
「そうです。私どもには体温がありません。核の発熱があり、寒暖による故障を防ぐためにある程度の温度を常に保つようになっていますが、人間ほど温かくはございません。それがまず第一の違いです」
 マリンは言いながらアウグスティーナの頭を自分の胸に抱え寄せた。
「何が聞こえますか?」
 アウグスティーナは耳を済ませた。体内に魔力を循環させるための液体を送り出すポンプ――戯れに『心臓』と呼ばれている――が絶え間なく動く音。発声器官に空気を送り出す『呼吸』の音。その他にもさまざまな機械音が響いている。
「たくさん聞こえるわ。色んな音。これがマリンの『生きている』音なのね」
 彼女の答えに、マリンは束の間困惑したような様子だった。機械人形に対しては「活動している」というのが一般的であり、「生きている」という表現は使われない。どうしてもアウグスティーナは機械人形と自分との違いを明確にできないでいた。
「私の『音』は機械の生きる音です。もしこれが止まっても、私は魔力を補充するなり、修理するなりすればまた鳴るようになります。ですが、アウグスティーナ様の『音』が止まってしまったら、それは何をしても二度と鳴ることはありません。それが、私たち機械人形と、人間の生の違いなのです」
 マリンの語る言葉を、アウグスティーナはどこか神妙な面持ちで聞いていた。



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