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 エルメリーナの一行が到着したという知らせを受けて、ジークフリートは会見のために用意させた一室に赴いた。彼女がその小広間に現れたのは、それから十(テルジン)ほど経ってからであった。
「エルメリーナ様のお越しにございます」
 先触れの使用人がいったん下がり、代わりに侍女を一人だけ従えた若い女性が入ってきた。真ん中分けにした三つ編みを耳の後ろで残りの髪と合わせて束ね、天鵞絨の輪状髪飾りを巻きつけて留めてある。その髪はジークフリートと同じ漆黒であった。青ざめて見えるほど白い顔も、彼と同じくクライン系の血を引いていることを示して端整である。
 小さな金の飾りボタンが付いたくすんだ薔薇色のドレスのスカートは、花柄が浮き出るように織られたサテン織りであった。胸当ては濃紅で、それにも金糸で細かい刺繍が施されている。全体的に落ち着いた色調で、それをまとうエルメリーナ自身も若さに似合わぬ落ち着きを持っていた。
「お初にお目にかかります、アラマンダ公閣下。わたくしがエルメリーナ・ライデン・ラ・ヴィシーでございます」
 彼女はスカートを持ち上げ、一礼した。
「こちらこそ初めまして、エルメリーナ姫。私はジークフリート・ラエルティウス・ダ・ジェンデ・ラフレー・エ・エスメラルダ・ド・ラ・アルマンド。以後よろしく」
 二人は、婚礼を明日に控えた婚約者同士というには素っ気なさすぎる礼を交わした。だがこの姫に、ジークフリートは滅多にない好感を抱いた。初対面のはずなのに、どこか懐かしさを感じさせる雰囲気を彼女は持っていた。それは彼女の冷ややかな(つるばみ)色の瞳のせいかもしれない。その冷ややかさは、もう一人の自分を見るようであった。
 しかし、それが実家を没落させた男への憎しみのためなのか、それとも何か別に原因があってのことなのかは判然としなかった。
「あなたと二人だけで話がしたいのだが、よろしいだろうか」
「結構ですわ。エウニス、下がっていておくれ」
 三十がらみの侍女は黙ったまま頷いて隣の部屋へと退出した。それを待って、ジークフリートは切り出した。
「あなたに謝らねばならぬことがある。私は今回の一族の内紛に際してあなたの父上を利用した。ヴィシー家をこのようにした責任の全ては私にある」
「そうであろうと思っておりました」
 エルメリーナは淡々と返した。
「でも、よろしいのではございませんか、ジークフリート様?」
 冷艶に微笑む彼女に、ジークフリートは首を小さく傾げた。何であれ彼女の父親を失脚させ、その領地を手に入れたのは自分である。激しい言葉を投げつけられる可能性を考えていたので、虚を衝かれたような思いで妻となる娘を見た。
「わたくし、あなたを恨みはいたしませんわ。没落した新興貴族の娘などを娶ってくださる方は、他におりませんもの。それがアラマンダ公夫人にしていただけるのですから、むしろ感謝しております」
「……あなたはなかなか面白い方のようだな、エルメリーナ。私を恨んでいるものと思っていたのに」
 ようやくジークフリートは言葉を取り戻した。驚かされるのは滅多にないことだったので、落ち着くまでしばらくかかったのである。エルメリーナは笑った。
「父もあなたを利用しようといたしましたもの、お互い様と言うものでは?」
 声を出さず笑ってから、エルメリーナはふとおもてを引き締めた。老成したといってもいいような、十七歳らしからぬ表情が浮かぶ。
「これは戦なのです。ならば勝つも負けるも運命しだい。利用されて捨て去られるもまた、父の運命だったのです。それに父は最初はわたくしの母を、次にはわたくしを道具のように扱いました。おのれが誰かに為したように誰かから為されるのがヤナスの理です。あなたは母とわたくしの代わりに父に復讐してくださった。お礼を申しますわ」
 そう言って、彼女はドレスの裾をちょっと持ち上げて頭を下げた。
「もう一つ、言っておかねばならないことがある」
 ジークフリートは顔をあげたエルメリーナと視線を合わせた。黒の奥に茶色の光を持つ、日に透かした瑪瑙のような瞳だった。その瞳に、ジークフリートは自分に似た闇を見たようにも思った。
 エルメリーナも同じことを思った。このひとはやはり、わたくしに似た心を持っている。どちらの闇がより深いかなど、神ならぬ身には判らないけれども。
「私はあなたを愛しているからではなく、一族と必要以上の関係を持たぬためと、ヴィスを手に入れるためにあなたと結婚することを決めた」
「随分正直に仰っていただけて、感謝いたします。でもお気になさらず。愛などと――最初からそのようなもの、期待しておりませんから。ヴィスのことも、貴方にお任せいたしますわ」
 ジークフリートの予想通り、エルメリーナは上品に肩をすくめただけだった。
「父の道具としての人生を断ち切れただけで充分。少なくとももう、誰にも利用されずに生きていけるのですもの。あなたがわたくしの夫としての役目を果たしてくださるなら、わたくしもあなたの妻としての役目を果たします。それだけで結構でしょう?」
「ああ。だがあなたと判りあうことができるような気がしてきた。あなたと私は似たところを持っているようだ」
 いくぶん寛いだような口調でジークフリートは言った。
「わたくしもそう思います。それが愛なのかどうかは存じませんけれど」
「私にも判らない。だが憎み合うのでなければそれでも良いと思う」
 エルメリーナはまた微笑んだ。その微笑みを見たとき、ジークフリートは思った。イーヴァインやハルカトラを想う心とはまた違うけれども、この女性もまた自分の心を動かす何かを持っている。
 それで、彼は世間話をするような軽い口調で続けた。
「……あなたとこのような出会い方をしていなければ、もう少し違った思いがあったかもしれないな」
「このような出会い方でなければ――単に父の決めた縁組としてあなたと結婚するだけだったなら、わたくしはあなたを憎んだでしょう。でも今のわたくしは、あなたと出会えてよかったと思っています。とすれば、これは必要なことだったのですわ」
 彼女の言葉をジークフリートはすぐに理解し、納得した。互いに道具として利用される人生を送り、そのような人生を間近に見てきたから――自分たちを利用する周囲への復讐の思いを共有できるからこそ、今があるのだと。
 夕焼けの輝くようなあの愛はもう二度と戻らないし、エルメリーナとの間にそのような瞬間が訪れるとジークフリートは思わなかった。だが夕焼けが過ぎた後の黄昏と闇、長い夜を彼女となら生きていけるだろう。一つの光を裏切り、もう一つの光を手に入れることはかなわなかったけれども、この闇はジークフリートを受け入れてくれるだろう。彼も同じ闇であるがゆえに。
 光は光と、闇は闇と共に生きるのがふさわしい。光と闇とは互いに互いを思いながら、すぐ傍にありながら、決して相容れぬものだから。
「明日から、長い付き合いになるな」
「あなたとなら、添い遂げるのも悪くございませんわ」
「私もそう思う」
 ジークフリートの言葉にエルメリーナは初めて、歳相応に若やいだ柔らかな笑みを返した。彼が心の中で微笑んだのを察したように。


 翌日、ジークフリートは朝まだきの霧がかった海を目の前にしていた。二時間(テル)後に彼の結婚式を控えてはいるが、城も街もあまり騒がしくなかった。エルメリーナは内紛の原因の一人、ヴィス伯の娘である。罪人というわけではないが盛大な式を挙げるのも外聞や一族内の風当たりがあり、大公爵家の婚礼とはいえ招待客も一族の主だったもの以外にはほとんどない、小規模なものにする予定であった。
 そのことに、ジークフリートはもちろんエルメリーナも何も思ってはいなかった。愛ゆえではなく計略と復讐によって引き合わされた二人にとって、結婚は単なる契約或いは同盟にしかすぎなかった。そこに大掛かりな儀式など必要なかった。実のところ、内心では神々の祝福すら必要とは思っていなかった。
 ふと、気配を感じてジークフリートは振り返った。昇りかけた太陽の白っぽい光を浴びて、イーヴァインの金髪は白金のように輝いていた。
 口を開きかけて何も言えぬまま、ジークフリートはまた口を閉ざした。あの裏切りを、ジークフリートは何度も打ち明けようとした。だがどうしてもできなかった。イーヴァインを失うことが恐かった。誰に憎まれても、恨まれても構わなかったが、イーヴァインにそうされることだけは耐えられなかった。
 ならば裏切らねばよかったのだと思い、だが裏切ることになっても――後悔しか残らぬと判っていても結ばれたいと思うほどハルカトラを愛していたのだとも思った。同じような思いをハルカトラにさせているだろうことが何よりも辛かった。そして、事実を知ったらイーヴァインがどれほど傷つくかを思っても、同じくらい辛かった。
(それも全て、私ゆえに)
「……イーヴァイン」
 やっと、ジークフリートは彼の名を呼んだ。
「お早うございます、ジークフリート様」
「……もう、戻る時間だろうか」
「いいえ、まだ一テルほどございます。ただ、わたしがお話ししたいことがございましたので参りました」
 ジークフリートは内心でびくりとした。イーヴァインの表情も声音も、まだ何も語っていないというのに、予感のようなものが走り抜けた。
「この月の内に結婚することにいたしました」
「ハルカトラと……か?」
「はい」
 視線を落として、ジークフリートは呟いた。
「ずいぶん、急な話なのだな」
「ハルカトラは身ごもっておりますので、認知の手続きが面倒になる前にと思いまして」
 イーヴァインの声は柔らかく低かった。ジークフリートははっとしたように彼を見た。秋の高い空の色、或いは風に震えるアラリアの花に似た色の瞳を見つめてみても、そこには優しい感情しか読み取ることはできなかった。
「それが――たとえ、お前の子ではなくてもか」
 ジークフリートの問いかけに、静かにイーヴァインは頷いた。彼は何もかもを知っているのだと、ジークフリートは理解した。無言のまま、二人の青年はしばらくお互いの目を見つめていた。
 初めて愛した女への想いは、最も愛しい青年への裏切りでもある。だからこそ、ただ一度だけと心に定めた契りだった。罪の証がこの世に生れ落ちる事になるという事実に、ジークフリートはどう感じればいいのか判らなかった。そして、愛する者たちの裏切りの証を、イーヴァインはどう思っているのか――。
 彼の思いを読み取ったように、イーヴァインは薄く微笑んだ。それは冷たいものではなかった。
「生まれる子は、わたしの子として育てます。男でも――レユニの跡継ぎとして育てます。よろしいでしょうか」
 黙ったまま、ジークフリートはイーヴァインを見つめつづけていた。彼の表情にも瞳にも、ジークフリートを恨むような色や憎しみの色は浮かんでいなかった。ただそこにあるのは、柔らかい月光のような穏やかさばかりであった。
 そのような優しい目で見つめられるくらいなら、いっそ罵られた方がましだった。罵り蔑んで、打ちのめして、身も心も傷つけてほしかった。そうされて当然だと、決して赦されぬことだと判っていたからこそ、優しくされればされるほどに罪の重さを思い知らされるような気がした。
「私を――恨まぬのか」
 頼りなく、かすかな声でジークフリートは問うた。イーヴァインは静かに頷いた。
「想いを、愛を罰するなど神ならぬ身にはできぬことではございませんか?」
「……」
 彼の答えに、ジークフリートはすぐには言葉を返せなかった。
「だが、私はお前を……」
「過ぎたことです。仰らないでください。ただ、一つお聞かせください。まだわたしを……わたしに何かしらを想ってくださっておられますでしょうか?」
 ジークフリートの言葉を遮るようにして、イーヴァインは逆に尋ねてきた。ジークフリートは素直に頷いた。誰がどうなろうと、誰にどう思われようと構わないのなら、彼に赦されたいとは思わないだろう。今もイーヴァインが他の誰でもない存在だからこそ、この胸の痛みがあるのだ。
「でなければこのような思いはしない。お前を愛している、イーヴァイン。何ものにも代え難く」
 ややあった沈黙の後浮かべられたイーヴァインの笑みは透き通るように見えた。
「わたしもあなたを愛しております。これからも永遠に。あなたに捧げた忠誠はわたしの命ある限り変わることはございません。そのあなたの子をわたしの子として育てられるのですから、誉れに思うことこそあれ、恨むことなど、何も」
 これが報いか、とジークフリートはそう思った。
 この世に復讐女神エリニスの翼から逃れうるものなど何一つとしてないのだと、今初めて気づいたように思った。エズマの愛を裏切り、命を奪った報いとして、愛する者たちの裏切りをイーヴァインは受け入れた。彼にとって、ジークフリートとハルカトラを赦し、愛し続けることが犯した罪への償いなのだ。
 ならば彼の忠誠と愛を裏切り、ハルカトラに彼を裏切らせた自分もまた、報いを受けねばならない。目に見える罰を受けることだけが償いではない。赦すことがイーヴァインに科せられた罰ならば、罰されない事――この胸の痛みに耐え続けることが、自分にできる償いなのだ。
 神ならずとも人は自らを罰することができる。或いは互いに互いを罰することも。
「……ならば私にも、何も言うことなどない」
 ジークフリートは言った。
 たとえ多くの犠牲の上に成り立つものでも、互いの償いのためにそうするのであっても、想う心はいまだ変わらなかった。
 三人が魂の底から互いを愛し、愛する証がアルマンド家の礎の一つとなるのならば。心から愛する者が、おのれの罪を赦し受け入れてくれるのならば。
 おのれの弱さ、罪深さを知り、他者を想い、赦しあうこと。
 それが、人として生きるということなのだ。
 そう思ったとき、彼の口許は小さく動いた。イーヴァインの瞳が驚きに見開かれた。微笑みというにはあまりにもぎこちない歪めかたであったけれども、その時確かにジークフリートは微笑んだのだった。



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