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 シメイの戦闘が終結し、それに伴う後処理と関係者の処分が行われ、アラマンダ公領――そしてヴァーレンが元の静けさを取り戻したのは、二ヶ月後のことだった。だが、全てが元のままというわけではなかった。
 レギンと、フューン候とサハ伯、ノリス伯の四者はシメイで帝国軍に捕らえられ、オルテアで形ばかりの裁判を受けた後に処刑された。レギンの側には、娘に対して暗殺者が送り込まれたことへの報復という大義があったにせよ、未遂に終わったのであるから当主あるいは皇帝を仲裁に立てて穏便に解決もできようものを、事を荒立てて一族を巻き込んだ戦争にまで発展させた罪は重いとされたのである。
 かくてそれぞれに領主を失ったフリアウルはアラマンダ公の直轄領となり、ハーゼルゼット、フューン、サハ、ノリスは大きく領地を削られはしたものの存続を許され、彼らの後継が新たな領主となった。
 多くの者が処刑され、まさしく血の粛清となったその処分の全てを、ジークフリートは一族外の者が絡んでいるので当主の権限を越えているとして皇帝の手に委ねた。どちらもそうすることに異存はなかった。リューディガーは国内最大の勢力を持つアルマンド一族をも己の裁量で処断できると示すことで自らの支配力を他の諸侯に見せつけることができたし、ジークフリートは自らの名で行うよりも容易に求める結果を得られ、直接の非難を回避することができた。
 関係者の処分が全て終わった後、ジークフリートはセドリックの娘エルメリーナに正式に婚姻を申し入れた。それが、この件に関して彼が自らの名において行った唯一のことであった。
 この時すでに、ヴィス伯の称号はセドリックではなく、エルメリーナが名乗っていた。セドリックはレギンの娘ギゼラに対する暗殺未遂と、それがその後の動乱の元となった責任を問われて同様に処刑されていた。父の刑死を受けて、エルメリーナは爵位と領地を相続したのである。
 このような場合、爵位と領地の剥奪が相当であろうに、それらは据え置いたまま当人の死だけで許されたことに首を傾げていた周囲であったが、ジークフリートの求婚とそれを皇帝が許可したことで、この甘いとも思える処分に何かしらの裏があったことをおぼろげに理解した。
 さては全てがヴィスを手に入れるために仕組まれた陰謀だったのではないかと騒ぐ周囲をよそに、エルメリーナは淡々と求婚を受け入れる旨を返答した。反対する家臣たちの言葉を、彼女は冷ややかに一蹴した。
「何を馬鹿なことを――。今のヴィス伯家に、アルマンド公ほどの方に望まれるより良い縁組が他にあるとでも?」
 そう言って、彼女は家臣たちがはっと息をのむような、花開くように鮮やかな微笑みを浮かべた。正式な書状で返答するため執務室に引き取る彼女の足取りは軽やかであった。家臣たちには腹立たしいばかりの求婚の、何が彼女の気分を引き上げたのかは誰にも判らなかったが、それはまるで年相応に恋に浮き立つ少女のようですらあった。
 そして嵐のように二カ月が過ぎ、婚礼まであと一旬となったある日。
「イーヴァイン、話があるんだが」
「何でしょうか」
 《そよ風と雲雀》亭の主人、ハルカトラの父に呼び止められて、イーヴァインは首を傾げた。密命を受けてフリアウルに向かい、そして戻ってきてからもずっとジークフリートの不在を受けてヴァーレン城に詰めていたし、実を備えた公爵として仕事が一気に増えたジークフリートを支えるべく家令としての仕事に追われていたので、彼が宿に帰ってきたのは実に二ヶ月ぶりのことであった。
「うちのハルカトラと結婚するつもりでいるのは確かかね」
「ええ。それはもちろん。ただ、今は……」
 ハルカトラの父は、すまなさそうな表情を浮かべながら両手を軽く挙げ、イーヴァインの言葉を遮った。
「ああ、あんたが忙しいのは判ってるよ。公爵様の叔父上たちがごたごたしていた後始末もあるし、公爵様のご婚礼もあって、それどころじゃないってことは。だが、なるべく早く式を挙げてもらいたいんだ。できればお城での仕事が落ち着き次第にさ」
「そちらがそう望まれるなら、構いませんが……。でも、何故」
 イーヴァインは不思議そうな顔をした。だが、相手もまた怪訝な顔をした。
「何故って、イーヴァイン。まだハルカトラから聞いてないのかね」
「何をです?」
 ハルカトラの父は大袈裟なため息をついてみせた。
「しょうのない子だな。今さら照れる仲でもあるまいに」
 イーヴァインは黙って、次の言葉を待っていた。
「どうやらね、子供ができたみたいなんだ。あんたが無事にお役目から帰ってきてくれてほっとしたよ。でなけりゃ生まれてくる子が父なし子になるところだった」
「……」
 結婚前の男女に関係があっても、それが結婚を前提として付き合っている男女の間のことなら社会的にも法的にも咎められはしない。結婚する前に生まれた子供も、式を挙げる時に認知すれば嫡子として認められ、正当な権利を有することができる。ハルカトラの父も、結婚前に娘が妊娠したことや、手を出されたことを怒るでもなく、かえって孫ができたことを純粋に喜んでいるようだった。
 むしろ衝撃を受けたように見えたのはイーヴァインの方だった。黙って目を見開いたまま、その場に立ち尽くした。
「どうしたね、イーヴァイン。顔が真っ青だよ」
「……大丈夫です。ただ、驚いたもので」
 肩を叩かれて、ようやくイーヴァインは青ざめたまま微笑んでみせた。その反応をハルカトラの父は好意的に解釈した。
「悪かったね、驚かせて。久々に帰ってきたところで、いきなりわしなんかから聞かされちゃ仕方ないか。だけどそういうことなんだ。だから、生まれる前にあんたと夫婦になっておいたほうが面倒がなくていいだろう?」
「ええ、そうですね。……すみませんが、準備はお任せしてよろしいでしょうか。今からとなりますとジークフリート様のご婚礼と重なってしまいますし、そうなるとあまり暇がないと思いますから」
「もちろん構わんさ」
 いかにも頼れる宿の親仁らしく、ハルカトラの父はにっこり笑って頷いた。
「ハルカトラに、伝えてきます」
「ああ。この頃塞いでるもんだからね、喜ぶと思うよ」
 イーヴァインはまだどことなく衝撃を拭い去りきれない表情のまま頷いて、階段を上っていった。二階の一番奥が、ハルカトラの部屋だった。
「ハルカトラ。イーヴァインだ」
 呼びながら扉を叩いたが、返事はなかった。
「入るよ」
 拒絶する言葉は返ってこなかったし、鍵はかかっていなかったので、イーヴァインはそのまま扉を開けた。ハルカトラはこちらを見ることもなく、悄然とした面持ちでベッドに力なく腰掛けていた。
「お父さんから聞いたよ」
 俯いたままのハルカトラの肩がかすかに動いた。イーヴァインの表情も声音も落ち着いていた。だがその落ち着きが、余計にハルカトラを不安にさせた。
「わたしとのことは忘れてくれていい。その人と結婚してくれ。君からは言えないのならお父さんにはわたしから説明しよう」
 ハルカトラは黙ったまま首を左右に振った。
「どうして? その人と結婚しないつもりなのか?」
 もう一度、ハルカトラは首を今度は縦に振った。一分ほど、どちらも口を開かなかったので、室内には重苦しい沈黙が下りた。
「……ジークフリート様か」
 何を説明されたわけでもないのに、やがてイーヴァインは言った。ハルカトラは殴られでもしたかのようにびくりと背を震わせた。おずおずと振り仰いだ顔は青白く、瞳には涙がにじんでいた。その態度で、イーヴァインは全てを悟った。だが、詰る言葉も責める言葉も、彼の唇からは出てこなかった。
「君が、簡単にわたしを裏切るような女じゃないことは判っている。あの方が、戯れにそんなことをする方ではないことも。二人とも最後まで、裏切るまいとしてくれただろうと思う」
「……でも、結局あなたを裏切ったわ」
 ようやくハルカトラは口を開いた。イーヴァインは悲しげに首を横に振り、彼女の隣に腰掛けた。
「ジークフリート様が君を愛したのなら……わたしを裏切り、君を傷つけることになると判っていてなお、君を求めるほどに愛したのなら――それは真実、まことの愛だったのだろう。君にとっても……。ジークフリート様は誇り高い方だ。自らを律しようと戦って戦い疲れた結果、ついに屈してしまったのだろう。そこまで思いつめておられたのなら、それを責めることなどわたしにはできない」
 ハルカトラは再び俯いた。泣いているかのように小刻みにその肩が震えたが、涙は流れていなかった。
「わたしを赦してほしい、ハルカトラ」
 イーヴァインは、意外すぎる言葉を口にした。ハルカトラがはっとしたように顔を上げると、彼は悲しく切なげな顔をしていた。
「君を本当に愛しているのなら、裏切られたと怒らなければならないはずなのに、君を奪われたと、ジークフリート様を憎むべきなのかもしれないのに、わたしにはそう思えないんだ。たとえ直後に後悔があったとしても、あの方が愛することを知れたのなら、それでいいと――そう思っている自分がいる。わたしは、ある意味で君よりもジークフリート様を愛している……わたしこそ君を裏切っていたんだ」
「そんなことを言わないで、イーヴ」
 ハルカトラは立ち上がり、首を振った。それと共に輝く金の髪が舞った。
「裏切りを形にしたのは私だわ。私にはもう、あなたと結婚する資格なんてない。それどころか、あなたに声をかけてもらう資格だってない。私は、私は……」
 勢いに任せて言いかけた言葉は途切れ、ハルカトラは顔を覆いながらわっとその場に泣き崩れた。
「それならなおさら、君にはわたしが必要なはずだ。ハルカトラ」
 イーヴァインの声はあくまで静かだった。彼の言葉の意味はすぐに判った。だが続いた言葉の意味はよく判らなかった。
「わたしにも、君が必要なんだ」
 ハルカトラは涙に濡れた目を上げた。イーヴァインは彼女の傍らに跪いて、そっとその肩を抱いた。同じようでいて違う色合いの、薄い青の瞳が互いを映し出す。
 彼女の瞳が涙をたたえた湖の色ならば、今のイーヴァインの瞳は人を寄せ付けぬ雪深い山の影の色だった。そこにある光が悲しみであるとハルカトラは理解したが、それは彼女の裏切りに対してではなく、何かもっと、彼の魂の深いところに流れている悲しみであるように見えた。
「君は自分が罪を犯したと言う。それは確かに罪かもしれない」
 ハルカトラはびくりとした。イーヴァインは静かに、そして優しく続けた。
「けれどわたしにも、君を責める資格なんてないんだ。君の気持ちよりもジークフリート様のことを先に考えてしまうような、わたしには。それにまた、君に対してではないけれども、わたしは決して償いきれぬ罪を犯した」
「イーヴ……」
「罪なき者など、この世にはないのかもしれない」
 独り言のように、物憂い声でイーヴァインは呟いた。
「もし人が皆、何かしらの罪を抱えて生きねばならないのなら――罪なくして生きることなどできないのならば……。たとえ罪を重ねることになろうとも、わたしは生きたい。だが互いに責め合えば、どちらも傷つくだけだ。そんなことをしたって、何にもなりはしない。それならば、赦しあって生きていくしかない」
 そこに何かがあるように、イーヴァインは自分の左手を見下ろした。ハルカトラもつられて視線を落としたが、やはり何もなかった。彼女の視線に気づいて、イーヴァインは顔を上げた。彼女と視線がぶつかると、彼は広げていた手を握りこんで悲しげな微笑みを浮かべた。
「お願いだ、ハルカトラ。わたしを赦して、わたしに君を赦させてくれ。でなければわたしは、きっと誰からも赦されない。わたしがあの人たちに赦しを請うことは、もはやできないのだから」
 その時、ハルカトラは理解した。
 イーヴァインが一生、自ら犯した罪とそれによって傷ついた心を抱えて生きていかねばならないのだということを。イーヴァインの言う罪がどのようなものかは知らない。だが、自分の裏切りをも罰として受け入れようと思うほどのことだったのだ。それがどんなことなのか、ハルカトラには想像もつかなかった。
 ハルカトラは手を伸ばし、イーヴァインが見下ろしていた左手に触れた。握り締められた指に、涙の雫が落ちた。裏切ったからと、罪を犯したからと、彼から逃げるのは簡単だ。だがそれでは償いにはならないのだとハルカトラは思った。それはただ、逃れられない現実から目を背けるだけのことに過ぎない。
(私もジークフリート様も傷ついたけれど、この人はもっと傷ついたのだわ。私たちによってではなく、別のものに)
 癒せるものなら癒してやりたいと願うのは、彼への罪悪感からではなく、いまだ彼を、ただ一人を除いて何者にも替えがたく愛しているからだった。
「償えないものなら、償えなくてもいいじゃない、イーヴ。誰にも赦されなくたって、自分で赦せる日が来るわ、きっと」
 すすり泣きながら、祈るように彼の手を取ってハルカトラは囁いた。涙がその上に雨のように滴り落ちた。
「過ちを犯した時を変えられないのなら、それでも生きていくしかないのなら、そうするしかないわ……」
「では、わたしと共に生きてくれるんだね?」
 同じような囁きで、イーヴァインは尋ねた。ハルカトラはただ黙って頷いた。そして抱き寄せる腕に身を任せて、涙に濡れた頬を男の胸に寄せた。



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