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 四日ほど城を空けていたリロイが戻ってきたので、ヴィス伯爵セドリックは早々に周りの者を下がらせてリロイを出迎えた。
「今回はどうだった、リロイ。手ごたえはありそうか」
 リロイは軽く頷いて、肩から提げていた鞄から厳重に巻かれた書簡を取り出して主人に差し出した。
「お手紙をいただいてまいりました」
 セドリックは受け取るや否や慌ただしい手つきで封蝋を破り、よく漂白された羊皮紙を広げた。文字を追ううちに彼の眉間には苦悩するような一本の深い溝が走り、逆に口許は笑むともつかない形に歪んだ。主人のそんな表情を不安げに見上げるリロイに、彼は尋ねた。
「公から直々に何か聞いていないか?」
「いえ、何も。いかがなさいましたか」
「難しいことになってきた。公の叔父、ハーゼルゼット候もおのれの娘との縁組を申し入れているということだ」
「厄介でございますな」
「うむ……」
 セドリックは考え込むように口許に手をやった。
「この程度の縁組は誰でも考え付きそうなことだからな。そちらに探りを入れておかなかったのは迂闊だった。しかし、公爵はこちらとの縁組に乗り気のようだ。ハーゼルゼット候の横槍さえ入らなければ、何とかなるだろう」
 ジークフリートは、自分は一族の女性と――つまり従妹と結婚する気はない、しかし叔父たちはそれを許さないだろう、と書いて寄越したのであった。それが、セドリックが渋面と笑みとを同時に浮かべるような難しい顔をしていた理由だった。ヴィシー家との縁組を受け入れたいとは一言も書いていなかったが、抜け目ないセドリックとしては珍しくもそのことに気づかなかった。
「ハーゼルゼット候は侮れん。どうにかして、向こうの一族の者よりも先にエルメリーナを公に嫁がせねば」
 独り言のようにセドリックは言った。
「では……」
 主の沈黙の内に何かを読み取ったように、リロイが囁いた。同じように暗い目でセドリックは答えた。
「そのあたりのことはリロイ、そなたに任せるぞ」
「かしこまりましてございます」
 何を具体的に命じられたわけでもないのに、リロイには全て理解されているようであった。彼は一礼すると影のようにひっそりと部屋を出ていった。一人になってから、セドリックは一度たたんだ手紙を再び広げて読み直した。
(なに、アルマンド一族が何と言ってこようが、結婚させてしまえばこちらのものだ。エルメリーナが公の妻として子を一人でも産めばそれでよいのだからな)
「また、アラマンダ公のお手紙でございますか、お父様」
 ふいに背後からかけられた、冷笑するような若い女の声にセドリックはどきりとして振り返った。
「エルメリーナ」
 セドリックは娘の姿を見るたびに、妻の亡霊を見るような気がした。
 エルメリーナは古い貴族の末裔であった母と同じ濡れたような黒髪と、灰みの暗い茶色の瞳、深窓に育ったため抜けるように白い肌を持っていた。まだ幼さを残してふっくらした顔立ちは整って美しかったが、若い娘らしい溌剌さや活気といったものには無縁であった。いわば年老いて人生に倦み果てた老婆のような雰囲気、それがエルメリーナのまとわせる空気であった。
 その冷ややかな目はあまりにも彼女の母に似ていたので、セドリックは娘を通して妻に見つめられているように思った。自分を道具として扱った夫を、娘をも道具にしようとしている夫を言葉もなく責めるように。
 セドリックは明るい茶金の髪と薄い灰色の瞳を持ち、メビウス人の骨太の体格と荒削りと見えるほど一つ一つの部分がはっきりした顔立ちを持っていたが、エルメリーナにそれらの特徴は何一つとして受け継がれていなかった。彼女は母の黒髪と暗い色の瞳、クライン系の繊細な顔立ちを持って生まれた。まるで母が、娘の中に一滴たりともヴィシー家の血を入れまいとしたかのように。
 今は亡きヴィス伯夫人ソラヤは、ド・ライデンというかなりの歴史と家格を持つ侯爵家の姫であった。だがライデン侯爵家は家柄こそ高くはあったがそれに伴う領地や財産をほとんど失った有名無実の存在であった。それゆえ新興貴族のヴィス伯爵家との縁組が成立しえたのである。
 セドリックは家格を上げるために彼女と結婚し、ライデン侯爵は娘と引き換えに幾ばくかの経済的援助を得た。ソラヤは幼い頃から互いに心に思っていた従兄と婚約寸前に引き離され、顔も見たことのないセドリックと結婚させられた。
(わたくしは、父上に売られたのだ。この男はわたくしではなく、ド・ライデンの名が欲しかっただけなのだ)
 そう思ったのも無理ないことであったし、また事実そうであった。彼女は聡い女性であったから、自分の結婚が最初から愛ゆえではなく打算によって決められたものであること、自分がヴィス伯父子にとって次の計画へ向けての踏み台の一つ、格を上げるための道具にしか過ぎないことも知っていた。
 もしそれほど聡くもなく、人一倍誇り高い性格でもなければもう少しは生きやすかっただろう。だがこの事実はソラヤの誇りを大きく傷つけ、心を粉々にした。打算による結婚でも、愛し合う夫婦は存在する。しかし彼女は打算であったというその事で心を閉ざしてしまった。自分が道具として扱われたことを知ったその日から、考えることも感じることも、道具と同じようにやめてしまったのである。
 ソラヤの暗い茶色の瞳は嫁いだ時からほとんど笑うことはなく、夫に対して愛情のひとかけらも見せることはなかった。セドリックを憎みはしないかわり、愛しもしなかった。彼女の人生はセドリックに嫁いだその日に終わり、後は長い余生を送っているも同然の日々だった。
 エルメリーナを産んだ時にも、娘がいずれ自分と同じように生きた道具として扱われることを思っただけで、喜ぶことはなかった。三年前に死の床についたときも、生きたいとも死にたくないとも言わず淡々と運命を受け入れた。
 エルメリーナは容姿のみならず、そのような母の虚無的な性格や態度までをも多分に受け継いだ娘であった。彼女は母の人生が不幸なものであったこと、その原因が父と祖父であることをよく知っていた。母と娘は互いに互いの将来と過去とを重ね合わせ、哀れむように愛しあった。
 その結びつきが強かった分、エルメリーナは父に対しては憎しみには至らぬまでも冷たい感情しか抱いていなかった。愛していた大切な母を不幸にし、娘である自分をも同じ境遇に置こうとしている男――そのようにしか思っていなかった。
 ただ、エルメリーナは父親が執心しているアラマンダ公には多少なりとも心惹かれるものがあった。自分を道具として嫁がせようとしている父が、さらに成り上がるために利用しようとしている男として。
 聞けば公爵は三歳か四歳で両親と兄を陰謀めいた死によって奪われ、以来ヴァーレンから出ることもなく育ったという。彼の持つド・ラ・アルマンドの名は、権勢欲に取り付かれた男たちにとっては魅力的なものなのだろう。自分の母がド・ライデンの名のゆえにセドリックに売られたように。
(彼も、わたくしやお母様と似たようなものなのだわ)
 聞かされぬまでも明らかなセドリックの計画と、伝え聞くジークフリートの生い立ちと境遇から、エルメリーナはそう思った。
(彼ならば、わたくしは判りあえる気がする)
 若い娘の憧れではなく、同病相哀れむような同情と親近感をもって、彼女はまだ見たこともない婚約者候補を想っていた。


 一方のジークフリートは、三人の婚約者候補に対して平等に無関心を貫いていた。彼が誰かを気にするとすればそれは、いつイーヴァインが暗殺を実行するかということだけであった。婚約者候補たち以外に彼の関心をひく女性が現れたこともその一因であったかもしれない。
 一旬に一度か二度ほどのハルカトラとの会話を、ジークフリートはいつしか待ち遠しく感じるようになっていた。自分に心を蘇らせてくれるイーヴァインが愛する者であるというだけで、彼にとってハルカトラは二人目の特別な存在であった。
 二人が用件以外の言葉を交わすようになったのは、三度目の手紙のやりとりの頃からであった。手紙を受け取り、渡せばそれで別れるのが常だったが、この日ジークフリートはふと思いついたように声をかけた。
「おかしなものだな」
 ジークフリートの呟きに、ハルカトラは首を傾げた。
「――はい?」
「お前は我がヴァーレンに生まれ育ったであろうはずなのに、そしてまた、私はその領主であるのに、お前のことを今まで知らずにいた。ヴァーレンのことは、小路の名からどこに何があるかも全て知っているのに、そこに住む者やその営みがどのようなものであるのかを私は知らない。――してみると、何も知らないのと変わらないな」
「変わらない、ということはございませんでしょう」
 ハルカトラは言った。
「どこに何があるかをご存じなら……たとえば市庁舎広場の右手の通りの名はご存じですか?」
「ああ。聖クレイド通りだ。広場に面して市庁舎側から刃物職人、家具職人、ガラス職人、銅細工職人が店を構えているだろう。銅細工職人は燭台を専門に作っている。城にも幾つかそこの工房から納められた品がある」
「まあ!」
 淀みない返答に、ためしに尋ねてみたハルカトラは驚いたようだった。止められることもなかったので、ジークフリートは記憶のままに続けた。
「銅細工の店から織匠小路を挟んで反物商人の店がある。そこで扱うのはエルボスの絹とアラマンダの毛織物だ」
「まあ……」
「織物ギルドと染色ギルドの集会所もそこにある。その一画には織物職人と染色業者、版木職人が集まっているから織匠小路と呼ばれているのだろう。それから……」
 目を瞠るハルカトラの前で、ジークフリートは広場から門まで、聖クレイド通りに店を構えている者の職種を全てあやまたず列挙してみせた。
「本当にジークフリート様は、ヴァーレンのことは何でもご存じなのですね」
 感心した声で言うハルカトラに、ジークフリートは照れるようでも自慢するようでもなくただ頷いた。しかし、澄んだ瞳で驚きを露にして見つめるハルカトラを前にしていると、野に若い獣の飛び跳ねるような心の動きがあった。
「あまりイーヴが言うので、少し疑っておりましたと申しましたら、お気を悪くなさるでしょうか」
「イーヴァインが? 何を言っていたのだ」
 自分の知らないところでイーヴァインが自分のことを話していたのだと知って、ジークフリートはこそばゆいような、心地よくなくもない不思議な気分になった。
「ジークフリート様はお治めになっている土地を心から大切に思っておられる、その証拠にどんな小さな村の名でもご存じなのだと。初めてお会いした時、自分の町をジークフリート様がご存じでいたことにそれは感動して、何度もそのことを話しておりました」
「そんなに長い付き合いになるのか、イーヴァインとは」
「私の家は、下宿も兼ねた旅籠を経営しておりますので。お城に勤めに上がって、イーヴほど長く下宿している人は初めてですけれども」
 それでジークフリートには、彼女の家がどこにある何という屋号なのかということまで判った。料理を出す店、旅籠のたぐいは全て市長の許可が必要になり、届出は最終的には領主であるジークフリートの元にやってくる。
「ではお前の家は《野うさぎ》亭か、《そよ風と雲雀》亭ということか」
「はい。《そよ風と雲雀》です」
 ますます嬉しげにハルカトラは頷いた。それを見て、ジークフリートは呟いた。
「お前の微笑みは眩しいな、ハルカトラ。イーヴァインもそうだが、お前が笑うと私の心に日が射すように思える」
「勿体ないお言葉ですわ、そんな」
 ハルカトラは恥らうような笑みを浮かべた。
「そのように仰っていただいたのは初めてです。ジークフリート様は言葉を惜しまず褒めて下さると、イーヴが言っていた通りですのね。それに、そんなに嬉しそうにヴァーレンのことをお話しなさるなんて思ってもおりませんでした」
「嬉しそう……? 私がか?」
 ジークフリートは不思議そうに言った。今まで言われたことのない言葉であったし、表情の変化があったとは思えなかった。ハルカトラも同じように不思議そうに、首を傾げて彼の顔を覗きこんだ。
「そのようにお見受けいたしましたけれど、違っておりましたでしょうか?」
「いや……」
 何となく言葉に詰まった様子でジークフリートは曖昧に首を横に振った。イーヴァイン以外の人々からは人形のようだと聞かされ続けてきた領主のそんな仕種に、ハルカトラは心和むものを覚えた。
 二人の間に、イーヴァインを介した単なる連絡相手、領主と領民というだけではない感情が芽生えはじめたのは、その時からであった。何かの約束をしたわけではなかったが、隼がまだ来ていなくてもハルカトラが海岸を訪れる日があり、それをジークフリートは楽しみにするようになったのだった。
「話してくれないか、イーヴァインのことを。私の知らぬ彼のことを。私の知らぬ、私の町のことを」
 ジークフリートが尋ねると、ハルカトラもまた尋ねた。
「この海の向こうにあるという国のお話を、私の知らぬ世界のお話を、聞かせてくださいませんか?」
 ジークフリートは実際の生活上の知識や体験というものがほとんどなかったが、その代わりのように書物から得た知識は幅広く豊かで、最新の学問から古い伝承まで多岐にわたっていた。自分の知らない風物や、日常のちょっとした出来事をハルカトラから語ってもらう代わりに、ジークフリートは教養として身につけたそれらのことを語った。
 もちろん、書物など一般庶民であるハルカトラは持っていない。見たことも聞いたこともない異国の物語を、時にその地の言葉を交えて語るジークフリートを見上げる彼女の目には純粋な尊敬と憧れとがあった。
 そんな彼女を見ると、ジークフリートには幽かな、それでいて不快ではない何とも言えぬ心の動きが生じるのだった。それは星を映す静かな湖面にさざなみの立つようなものであった。さながら、穏やかさは破られても、光が眩しく砕けて広がるような。
 だがジークフリートは、自分のその感情に何という名がつくのかを知らなかった。知らなかったので、それが好悪の感情とはまた別の、特別なものだということも理解していなかった。ハルカトラの瞳にある憧れの光が、彼の語る物語にではなく彼自身に向けられはじめていたことにも、気づいていなかったのである。



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