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 最初にイーヴァインからの隼が送られてから、二日目のことであった。ハーゼルゼットから使者がやってきた。その用件は判りきっていたが、ジークフリートはわざと少し使者を待たせておいた。これまでに頭の中で何度も練り直し、推敲を重ねてきた計画に手落ちは無いかを確認し、告げるべき言葉をもう一度考えるためであった。
 これで確実と言えるようなことなど何もなかった。一つでも読みを違えれば、それがどんなに些細なものでもたちまち身の破滅となる。それだからこそ慎重に物事を運んでいかなければならない。
「待たせたな」
「公爵閣下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」
 ジークフリートが現れると、使者は膝をついてうやうやしく一礼した。それは一族の当主を立てた正当な礼儀にかなったものであったけれども、形式的なものに過ぎないことはその仕種のどことない軽さから見て取れた。
「して、用件は?」
「我が主、ハーゼルゼット候レギン・ド・ハーゼルゼットよりの伝言、主に代わりまして述べさせていただきます。わたくしのこれより述べますことは、すべてレギン様のお言葉であるとお考えください」
「よかろう。述べよ」
「申し上げます」
 軽く顎をしゃくって促すと、使者はもう一度頭を下げた。
「かねてよりお伺いしております当方の候女ギゼラとの縁談、公におかれましてはいかがお考えでありましょうか。或いは受けてくださるや否やのご返答をすみやかにいただきたく存じます」
 この上もなく簡潔な伝言だった。使者は顔を上げて公爵の顔をうかがったが、窓から射す逆光のせいで影になって、あまりよく分からなかった。しかし見えていたところで、無表情な彼の面持ちはいささかも変わることはなかったので意味はなかった。
「……一つ二つ尋ねたいことがあるが、その前に確かめたい。そなたの申すことは、これすなわちレギン叔父の言葉であり、そなたとレギン叔父の意思とは完全に同一のものであって、その判断も同様であると考えてよいのだな?」
「はい。さようお考え下さって結構でございます」
「そなたに判断できる範囲のことならば、何でも?」
「何なりと」
「では訊こう」
 ゆっくりと、ジークフリートは言った。彼が無表情でなければ、そこには冷たい微笑が浮かんでいただろう。そのような声だった。
「これは私の一存で受けるか否かを決めてもよいのか? どのような答えであれ、今ここでそなたに答えてもよいのか?」
 使者はためらうことなく頷いた。
「はい。いただけるのならば今すぐにでも」
 それを聞いて、ジークフリートはかすかに首を傾けた。
「それともう一つ。ハーゲン叔父――フリアウル候からも同様の申し出があることをレギン叔父は承知しているのか?」
 返事はなかったが、使者は驚いたように目を見開いた。彼の読みどおり、どうやら知らなかったらしい。情報の漏洩こそジークフリートが最も恐れていたことだったが、彼が最近フリアウルに送った書簡の内容は知られずに済んでいたようだ。
 三者が三者とも、互いの動向を知らずにいるのだろう。表情が顔に出る相手はこのようなときわざわざ言葉を求める必要がないから便利なものだと、他人事のようにジークフリートは思った。
「それは……」
 返事を待たず、ジークフリートは続けた。
「そのような次第ゆえ、我が愛すべき従妹たちのどちらを選んだものか、私も決めかねている。ハーゼルゼットとフリアウル、どちらも我が一門にとり欠かせぬ有力な家だ。一方を選べば一方が面目を潰すことになろう。親愛なる叔父たちの顔をどちらも立てたいという私の思いは理解してもらえようか? そしてまたこのような重大事、私一人の考えで簡単に決められることではないとは思わぬか?」
 二の句を次げない使者に向かって、ジークフリートは冷たく告げた。
「レギン叔父に申せ。私にはどちらも選べぬ。ハーゲン叔父と相諮った上で、どちらを私にあてがうかを決めるがよいと」
 唖然と口を開いたままの使者を残して、ジークフリートは踵を返した。もう一つの計画を実行に移す時が来た、と思いながら。


 このところ、ハーゲンはずっと上機嫌が続いていた。かねてから打診していたエズマとの縁談を、ジークフリートがようやく受け入れる由を内々に知らせてきたからである。その書簡が届けられた時、これでレギンを出し抜ける、とハーゲンは小躍りしかねないほど喜んだ。
 フリアウル候は確かにアルマンド一門の中でアラマンダ公に次いで格式が高い家柄とされていたが、レギンの得たハーゼルゼットの方が豊かな土地を持ち、財産的には勝っていた。そのため、協力して異母兄を暗殺してアラマンダ公の実質を奪いはしたものの、ハーゲンは異母弟に嫉妬し、冷たい敵意しか抱いていなかったのだ。
 しかしこれで次のアラマンダ公を完全なおのれの傀儡にすることができれば、ハーゲンの一族における地位は今とは比べ物にならないほど上がるだろう。一門を支配下におけるといっても過言ではない。レギンに知られる前に婚約を成立させてしまうべく、今のハーゲンは忙しく立ち回っていた。
 そんなオルイフ城内の動きの中心にはいなかったものの、青氷の瞳を持つ青年は俗世から離れた場所からものごとを眺めるようでいて、その実何も見逃してはいなかった。薄暗い広間の片隅に控え、求められるまま竪琴を奏でて歌いながら、彼は注意深く全てを観察していたのであった。
「また隼の手紙か」
「はい」
 その日、エスメリオンは隼を肩に留まらせたまま、膝頭を机代わりにして小さな紙片にペンを走らせていた。彼が座り込んでいたのは城の裏手であった。先日ハーゲンにそろそろオルイフを辞したい旨を告げたのだが、もう少し滞在するようにと言われて引き留められたばかりであった。
 エスメリオンが着ていた、ハーゲンから与えられた孔雀青の絹の衣装は、彼をまるで城の小姓か騎士のように見せていた。傍らにいつもの竪琴がなく、肩に隼がいなければ、遠目では分からなかったに違いない。
 鳥を使って誰かと連絡を取り合う、というのはよくあることではない。ガリバルデはエズマの冗談とはまた別に、この吟遊詩人が何らかの意を受けて誰かに送り込まれたものではないかという疑いの目を向けていた。
 しかし彼が隼と共にいて手紙を受け取ったり、送ったりしている現場に出くわすのはこれで三度目になるが、エスメリオンは何も隠し立てすることなく、求められれば届いた手紙も送る手紙も快く見せた。届くのはいつも詩的な表現に飾られた愛の言葉であり、エスメリオンが返すのも似たような言葉であった。
 この日彼が書いていたのも、言葉は短いながらありきたりの恋文のようであった。ガリバルデは好奇心を抑えきれず、傍らに置かれていた手紙と、返事とを盗み見た。
『あなたへの思いを知られましたゆえ、かの騎士に助けを求めました。あなたのもとにかの者の手が延びてはいないでしょうか』
『ご心配なさることはありません……』
 エスメリオンが顔をあげ、見上げてきたのでガリバルデは慌てて目をそらした。わざとらしく咳払いしながら、彼は尋ねた。
「邪魔なら、俺は外すが」
「いえ、どうぞお気になさらず」
 静かな口ぶりでエスメリオンは答えた。しかしこれ以上見られるのも嫌なようで、素早く手紙を書き終えると隼に手紙を託し、肩から手に移した隼を空へと放った。隼に留まられても怪我をしないように嵌めていた革の手袋を外し、腰に下げた袋にしまいこむ。
「お前と恋人は、なかなか難しい立場のようだな」
「ご覧になったのですか」
「すまない。つい見てしまった。気になったものでな」
「構いませんが」
 すでに空に浮かぶ小さな一点となった隼を見送りつつ、エスメリオンは呟いた。そそくさと去るのも気が引けたし、それ以上のことを彼が言わなかったので、ガリバルデは沈黙にいたたまれぬように再び口を開いた。
「……お前が隼を送る相手は身分高いように思えるが、どのような人なのだ?」
「美しい方です」
 サーガを歌うときのような口調で、エスメリオンは言った。
「美しい、か」
 ガリバルデは呟いた。
「恋する者には誰でもその相手が美しく見えるというが」
 皮肉っぽく言ったガリバルデに、エスメリオンは気を悪くしたようでもなく首を横に振った。
「恋をしておらずともあの方の美しさは変わりません。私の愛する方は、美しく、孤独で、悲しいほどに誇り高い方です。黒い髪と白い肌、青い夜のように澄んだ瞳――まるで夜の闇と、氷と雪でできているかのようなお姿をしておられます」
「お前はその――姫君を愛しているのか」
 エスメリオンは頷いた。彼の答えはきっぱりとしていた。
「はい。わたしの生も死も、あの方のためにあると思うほど」
 ガリバルデは意外なものを見るような目でエスメリオンを見た。物静かで感情の起伏もあまりないように見えるこの青年の心に、それほど激しいものが秘められているとは思いもしなかったので。
「ならばなぜ離れた?」
「身分があまりにも違いますから。それに、あの方に愛を求める者は多いのです。わたしのことが知れましたならば、要らぬ争いも起こりましょう。私は愛を勝ち取るために振るう剣を持ちません。ですから良からぬ求婚者が去り、あの方にふさわしい者が選ばれるまでお傍を離れることにいたしました。ですが、お傍にいられぬことがこれほど辛いこととは存じませんでした。身を引く覚悟はしておりましたはずですのに」
「お前も、人の子なのだな」
 ガリバルデは何となく苦い笑いを向けた。おのれに通ずるものを見つけたような表情であった。
「そのような仰り方をなさると、まるでわたしが人ではないもののようでございますね」
 エスメリオンも苦笑に似た笑みを返した。詰られているような気がしたので、ガリバルデは言い訳した。
「そういうつもりで言ったのではない。お前のその、物に動じぬような様子からはあまり想像のつかぬことだと思ったのだ」
「人は愛より生まれ、愛を求めるもの――。詩聖オルフェの歌うとおりでございます」
 城に戻るために歩き出しながら、エスメリオンは言った。ガリバルデは隣に並ぶようにして続いた。エスメリオンはゆっくりと歩を進めていたので、間もなく彼を追い抜いて少し先を歩く形になった。
「ところで、ガリバルデ殿」
 そっと囁かれた声に、ガリバルデは不審げに眉をひそめながら振り返った。エスメリオンはいつのまにか立ち止まっていた。
「何だ?」
 ガリバルデは小さくため息をつきながら足を止めた。先ほどはかなり親しく口を利いたが、実のところ彼はこの吟遊詩人の、高貴の人を高貴とも思わぬ態度があまり気に入らなかった。だが礼節だけはきちんとわきまえている所には、ひそかに感心してもいた。他にも色々と気に入らぬことと気に入ることとが混在していたので、好意か悪意かどちらを見せればいいのか、根が単純で好悪もきっぱり分かれる彼としては珍しく迷っていた。
「ガリバルデ殿を見込んで、たってのお願いがございます」
「とは、何だ?」
「大変失礼な事とは重々承知ながら、エズマ様がわたしにあまり近づかれないように、それとなく気をつけてくださいませんか?」
「お前は何を……」
 言うことも、言う人も逆ではないのか。思わずガリバルデはエスメリオンを睨み付けた。だが見返すエスメリオンの瞳は常と同じ月色で、声は静かだった。
「エズマ様は、わたしをたいへん気に入ってくださっているようです。それはありがたく存じております。けれども、お若い姫君であられますし、婚約を間近に控えておられると聞いております。そのようなお立場で、わたしのような身分卑しいものをお傍近くに置いていては、あらぬ噂も立てられましょう。実際、エズマ様のご好意にはそれだけではないものもございますように感じられますので」
「……」
 ガリバルデが激しかけたのは一瞬のことで、すぐに彼はエスメリオンの言っていることを理解した。そして、その言葉が全て正しいことも。恋する男なればこそ、相手の女が誰かに投げかける視線、言葉から隠された心を読み取ることができる。
「本来ならわたしが去れば済むことなのでしょうが、それがハーゲン様に許されぬとあっては、もはやガリバルデ殿を頼りとする以外にございません。どうか、お聞き届けくださいませんでしょうか」
 エスメリオンは丁寧に頭を下げた。それを、ガリバルデは観察するように眺めた。
 彼は思った。俺の髪は何の変哲もないぼやけた茶色だが、この男はまるで白金のような髪をしている。そしてまた、俺の灰色の瞳と違って空のような瞳を持っている。俺が剣を振るい死を奏でるとき、この男は竪琴を鳴らし愛を歌うことができる。
 そのような自分との違いの全てが、彼の愛する主君の娘を惹きつけるのだ。そのこともガリバルデは理解し、そのために彼は人物としてこの吟遊詩人を気に入っても、好きになりきれずにいたのだった。
 この男はエズマを愛している。一本気な若者にありがちな激しさで。エスメリオン――イーヴァインはそのことに、ずいぶん前から気づいていた。エズマが気づかぬときにも、彼はエズマを見守っている。
 ややあってから、ガリバルデは深い溜め息と共に言った。
「……よかろう。ではお前も、俺の目の届く所にいるようにするのだな」
「ありがとうございます」
 目的を達するためには、他の誰よりもまずこの男を油断させ、隙をつかねばならない。その糸口をイーヴァインは今ようやく掴んだのであった。



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