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     第三楽章 白鳥の歌




 金と銀の入り混じる輝かしい髪と、それにも増して鮮やかな青い瞳を持つ美貌の竪琴弾きがフリアウル候の居城を抱えるオルイフの城下町に現れたのは、夏の終わりの或る日であった。その噂は三日も経たぬ内にオルイフ城の人々にも届いていた。
「吟遊詩人の歌を聴きに行ってもよろしいかしら、父上?」
 エズマは若い娘らしい興味を大いにそそられて父親に尋ねた。彼女は十九歳。溌剌とした栗色の瞳と、同じ色のつややかな髪を持っていた。もっとも本人はそれが気に入らなくて、色を抜くために灰汁で洗って日にさらすというよく知られた脱色法を試みたこともある。
 陽の恩恵の薄い北国に住む者にとって――そして暗い色の髪を持つ女性にとって、男たちがこぞって褒め称え、太陽を思わせる金髪はいつも憧れの対象であった。古いクライン系の純血を重んじる貴族には黒髪の方がもてはやされたけれども、一般的にはやはり金髪が好ましいものと思われていた。
 フリアウル候ハーゲンは眉をちょっと上げた。彼は一人娘に優しくはあったけれども、彼女を無駄に甘やかすことは決してしなかった。特にエズマはこれから重要な駒となるべき娘であったから、甥のジークフリートに売り込むにあたって間違いがあってはならないと、常々目を光らせていたのである。
「そんなに聴きたければ、城に呼べばよかろう」
「その前に、城に呼んでも良い腕前かどうか確かめたいのです。この前の芸人のように、せっかく連れてきたのに期待はずれ、というのでは困りますもの」
「他の者が聴いてくるのでは駄目だと申すのか、エズマよ?」
 ハーゲンはわざとらしい溜め息をついた。
「評価を下すなら、わたくしが聴いたほうが確実ですわよ」
 エズマも頑固に言い張った。ハーゲンはこの程度のわがままなら許すことに決めた。吟遊詩人なら人通りの多い場所にいるものだし、監視の目の届かぬ所に娘がいく心配もほとんどない。
「日の高い内に、供を連れてゆきなさい」
「わかりました。では今から行ってまいりますわ、父上。――ガリバルデ! これから街に行くわ。ついてきておくれ」
「は――」
 広間の片隅に控えていた若い男に、エズマは声をかけた。ガリバルデはくすんだ肉桂(シナモン)色の髪と灰色の瞳を持つ、寡黙な男だった。彼はフリアウル候の臣の一人で、背はそれほど高くなかったが、服の上からもそれと判る鍛えられた体を持っていた。
 それから半(テル)も経たないうちに、エズマは支度を整えて城を出た。彼女は馬に乗り、その手綱をガリバルデがとって、さらに二人の侍女が後に続く。前もって侍女たちから吟遊詩人は市場近くの噴水周辺に立っていると聞き出していたので、まっすぐにそちらに向かった。
 竪琴弾きはこれから仕事を始めるのか、それとも一段落つけたところなのか、竪琴を噴水の石積みに載せて、その隣に腰掛けてさまようような視線を空に向けていた。周りには露店を開いている商人や通行人がいたが、竪琴弾きに歌を求める者はいなかった。やはり一仕事終えたところなのだろう。
 彼がまとっていた鶯色の胴衣は頭巾つきだったが、それを後ろにはねのけていたので、太陽に向けた顔を縁取る髪がまるで光そのものであるかのように輝いていた。フリアウルには――少なくともオルイフの周辺には、これほど色の薄い髪はほとんど見られない。もっと北から流れてきた者なのだろう。まるでヴェンドの民の血を引いたかのように白く輝く金髪であった。
「お前、そこの竪琴弾き。名は何と言うの?」
 馬から下りることもせず、つんと胸をそらせ、傲慢な響きを持つ声で彼女は尋ねた。竪琴弾きはゆっくりと頭を巡らせた。
「名乗るような名はございません。どうしても名が必要と仰せならばエスメリオンとお呼びください」
 彼は歌ででもあるかのように、言葉の合間に竪琴の弦を鋭く爪弾いた。
 《隼》と名乗るだけあって、その氷河の青みに似た色の瞳には人に媚びることのない孤高の色があった。身にまとう刺繍の入った朱色のドレスや、背後に控えさせた侍女、護衛の騎士によって彼女が身分高い姫であることは知れようものだったが、彼が恐れ入る素振りは全くなかった。
「わたくしはフリアウルの姫よ。さよう心得なさい」
「は……これは姫様、お初にお目にかかります」
 それを聞くと、竪琴弾きは立ち上がって優雅に一礼してみせた。その仕種は充分に敬意を払ったものであったが、彼女の名を聞いて恐れ入ったふうではなかった。それはエズマにとってあまり面白くなかったが、同時に興味を惹かれた。
 そして自分がこの竪琴引きに心惹かれたということを周囲に隠すために――する必要など特にないと判ってはいたが――小さく咳払いした。エズマはドレスの帯に結わえ付けられた小さな巾着からメット銀貨を一つ取り出し、竪琴引きの前に投げた。ちゃりんという音がする前に、彼はエズマを見上げていた。何かを尋ねるように。
「エスメリオンとやら、わたくしのために何か歌いなさい」
「では……」
 エスメリオンは優雅な手つきで小型の竪琴を構えた。一、二度ほど弦の調子を確かめるように軽く爪弾いた後、一呼吸おいて物悲しくも美しい旋律が流れ始めた。それはイル川のほとりに暮らす人々によく知られた哀歌であった。


     あなたはどこに 愛しいひと
     どこに行ってしまったのか
     あなたが去ってから
     わたしの喜びも消えてしまった


     白鳥よ 白鳥よ
     お前はあのひとの魂なのか
     遠い空に飛び立つ前に
     その翼をとどめることができたなら
     あのひとは戻ってくるだろうか


     けれども止めはすまい
     涙の川であなたを送ろう
     わたしの慰めは
     愛しいひとよ、ただあなたのみ


 静かに最後の一音が奏で終えられたとき、周囲の人々は思わずその音色に聞き惚れて動きを止めていた自分に気づいた。エズマもその例外ではなかった。しばらく黙っていた彼女は、やがて口を開いた。
「……なかなか、よい腕のようね」
「ありがとうございます」
「いかがなさいますか、姫様」
 エズマの手前に控えていたガリバルデが尋ねた。彼の鷲のように暗く鋭い目は、最初のうち注意深くエスメリオンに当てられていたけれども、今はその光を和らげて主の娘を見ていた。
「私の心は決まったわ。この者を城に招きましょう。父上もきっと満足なさると思うのだけれど。お前もそうは思わなくて、ガリバルデ?」
「腕は確かのようですな。どこの誰とも分からぬ者ですが」
 そっと低めた声で、ガリバルデは言った。それに対してエズマはちょっと肩をすくめただけだった。
「素性の明らかな吟遊詩人など見たことがなくてよ。城に招いて一日か二日、歌わせるだけのことですもの。そんなに気になるならお前が見張っていればいい。それで問題はないでしょう」
「かしこまりました」
 ガリバルデの返事を聞いてから、彼女は再びエスメリオンに顔を向けた。
「お前、我が城に来て歌いなさい。これは命令よ」
「かしこまりました。お召しいただき光栄でございます」
 エスメリオンはもう一度頭を下げた。その動きで輝いたのは、まるで限界まで細く鍛えられた白金の糸のような髪であった。
 それから二日後。
 市場の噴水ではなく、オルイフ城の広間にエスメリオンの姿が見られるようになった。彼を連れてきたエズマよりも、ハーゲンが彼の歌をことのほか気に入ったのである。エスメリオンは城内に一室を与えられ、そこに起居するようになった。午前の陳情が終わり、午後になると、広間には彼の柔らかな歌声と竪琴の優しい音色が響く。
 彼は歌の所望がないときには城の庭で竪琴を歌うでもなく奏でたり、オルイフ市の背後に広がる森の中を散策しているようであった。彼は過去を語らず、あまり自分から喋ることはなかった。
 これまで城に呼ばれた吟遊詩人は全てそうだったので、彼らのような職業の者はお喋りだとばかり思っていた城の人々にとって、これは意外なことだった。しかしその落ち着きがますますハーゲンの気に入ったらしい。
 彼の夫人もまた、窓辺で糸を紡いだり刺繍をする傍らでエスメリオンに歌わせるのを好んだ。エズマなどは吟遊詩人としてだけではなく、ちょっとした外出の時にも従者の一人として彼を連れていくようになっていた。
 城に務める者たちもこの若く寡黙な――とはいえ求められればいくらでも饒舌に物語を語り、歌うのだが――吟遊詩人を好意的に見ていた。だが、ただ一人ガリバルデだけは挨拶以上の雑談も、歌を求めることもしない代わりに、胡乱なものを見るような目で彼を見るのであった。
 気になるならばお前が見張っていればいい、とエズマが半ば冗談のように言った言葉を彼は忠実に守っていたのだ。ハーゲンの臣であり、その傍に控えているので一日中見張っているわけにもいかなかったが、ガリバルデはそれ以来エスメリオンに注意深く視線を注いでいた。そのことにエスメリオンは何となく気づいているようであったが、特に反応せずにいた。
 一日か二日というはずであったエスメリオンの滞在は、いつしか四日目にも及ぼうとしていた。その日、ガリバルデは森に入る手前の空き地に佇んでいるエスメリオンを窓から見かけた。眩しげに目元を手で覆いながらしきりに空を見上げている様子が気になったので、ガリバルデは外に出ていった。
「何をしている?」
 声をかけると、エスメリオンは驚いた風もなく振り向いて微笑んだ。
「ガリバルデ殿、こんにちは」
 来るなとも来いとも言われなかったが、ガリバルデはエスメリオンの傍らに近づいた。今までこれほど近づいたことがなかったので気づかなかったが、隣にするとエスメリオンは思っていたよりも長身であった。ガリバルデより少なく見積もっても十バルスは高いだろう。やはり北の者なのだとガリバルデは思った。
「吟遊詩人とはわからんことをするな。空に探し物か?」
「ええ、あれを待っていたのです」
 尋ねると、エスメリオンは天を指した。眩しさに目を細めつつ見上げると、青く澄み切った夏空を背景にして一羽の鳥が影を落としていた。
「隼か。このようなところを飛ぶとは珍しい」
「あれはわたしの隼です」
 首を傾げたガリバルデの傍らで、エスメリオンが小さな笛のようなものを喉元から細い鎖を手繰って取り出した。唇に当てて吹くようだったが、音は聞こえなかった。しかし上空の隼には聞こえたらしい。エスメリオンが腕を差し延べると、隼は円を描いて飛びながら次第に高度を下げ、差し延べた彼の腕に軽い羽音を立てて舞い降りた。ガリバルデは目を瞠った。いかにも感心した声で言う。
「なるほど、お前がエスメリオンと名乗る訳が判った。そのように人に馴れた隼は、初めて見たぞ」
 エスメリオンは微笑みながら、隼の喉元を指でくすぐった。心なしか青氷の瞳に優しい光が宿った。
「わたしの友です」
「隼が友とはまた、吟遊詩人らしい」
 からかうような言葉に、何とも言えない微笑が返ってきた。主の肩に移動して羽を休めつつ、見知らぬ男に警戒した様子の隼に嵌められた首輪に、ごく小さなポシェットのようなものが付いているのをガリバルデは見つけた。
「それは何だ?」
「ああ……」
 今初めて気がついた、というようにエスメリオンは頭を巡らし、隼が留まっているのとは反対側の手で器用に蓋を開け、中から小さく折りたたんだ紙を取り出した。ガリバルデは覗きこむでもなくちらりと目を走らせ、それが手紙であることを知った。文字を読めるということがまた意外で、彼は内心で首を傾げた。
(こいつは土地を追われた貴族ででもあるのか?)
 見事な竪琴の腕前と、文字が読めることとを考え合わせると、この教養を二つながら同時に満たせるのは貴族か、それとも有力市民くらいしかない。そんな疑念が頭に渦巻いているガリバルデをよそに文面を追っていたエスメリオンの瞳が、さらに和らいだものとなった。
 どうしても気になって、ガリバルデは尋ねてみた。
「それは、誰からの手紙だ?」
「ご覧になりますか?」
 ためらいもせず、エスメリオンは笑顔でそれを差し出してみせた。ガリバルデも文字は読める。上質な亜麻紙には流麗な文字で、短い文章がしたためられていた。
『あなたの歌がかの地に響く時、私の愛の言葉もそこに届くでしょう』
 ガリバルデは困惑した表情を浮かべた。綴られた文字の整った美しさは、書き手の教養と身分の高さを示すようである。貴族の姫君と吟遊詩人の許されぬ恋――という物語が、ガリバルデの心の内にふと思い浮かべられた。
「おまえに恋人がいたとは知らなかった」
 それに対してエスメリオンは煙るような瞳で彼方の空を見やった。そして謎かけのような言葉を漏らした。
「――愛するあの方のもとに、わたしは心を置いてまいりました」
 意味が判らなかったが、ガリバルデは曖昧に頷いた。
「そうか」
 彼は知らなかった。エスメリオンの言葉の意味も、彼の「恋人」と「愛するあの方」が別人であることも、その手紙を隼に託して寄越したのが誰であり、その文面が何を意味するものであったのかも。



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