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 話したいことがあると言ってから、ジークフリートは再び目を伏せて黙り込んだ。その沈黙に不安を感じて、イーヴァインは思わず先を促した。
「お話しなさりたいこと……とは?」
「これまで、誰にも語ったことのない話だ」
 静かに、ジークフリートは伏せていた目を上げてイーヴァインをまた見つめた。陽の輝く空の明るい色をしたイーヴァインの瞳とは対照的に、たそがれて間もない淡い闇のような、深い青の瞳。
「まあ、座れ。長くなるだろうから」
 ジークフリートの勧めるまま、イーヴァインは彼の左隣に腰掛けた。それを待って、彼は世間話のような口調で尋ねてきた。
「お前は私の父上と母上、兄上が亡くなったときの話を聞いたことがあるか?」
「そのことは……」
 主家の醜聞にも等しいような話題にイーヴァインは口ごもりかけたが、これは答えなければならないことなのだと気づいた。ひたむきにこちらを見上げるジークフリートは、肯定の返事を待っている。
「噂は、何度か耳にしたことがございます」
「叔父たちが財産目当てに三人を殺したというものだろう、それは」
 イーヴァインは声を出さず頷いた。
 公には、三人の死は突然の病死ということになっている。だが現場が当時の居城ではなく、一家が夏のひと時を過ごすための、使用人もほとんどいなかった当時のヴァーレン城であったこと、伝染性の病気と発表されたのにもかかわらずジークフリート一人だけが無事に生き残ったこと、全てがあまりにも不自然すぎた。
 その後の二人の叔父たちの対応も、暗殺だったという噂に拍車をかけるものであった。先代公爵と公妃、公子の遺体は病がうつる可能性があるからと、本来なら三日間許されている領民たちからの別れの挨拶も差し止められ、儀式もそこそこに慌ただしく埋葬されたのである。本来の州都であるラフレーにある代々の墓所に埋葬されることもなく、このヴァーレンに。
「お前はどう思う」
「それは、わたしには判断いたしかねます。むろん、ジークフリート様がハーゲン様とレギン様からお受けになっている仕打ちは不当なものだと思いますし、それを考えればそのような噂が立っても致し方ないとは思いますが」
 彼の答えを聞いて、ジークフリートはゆっくりと瞬きした。
「父母と兄は、たしかに殺されたのだ」
 世間話のような口調だった。その氷顔には何の感情も浮かんではいなかったけれども、口調には哂うような響きがあった。
「私の目の前で」
「……」
 絶句しているイーヴァインをよそに、ジークフリートは続けた。
「あれは暗殺というにもお粗末すぎる、稚拙なやり口だった」
 自分は何を聞かされているのだろうか。ジークフリートは一体何を話そうというのか。既に頭は理解していたが、彼の理性はこれ以上聞いてはならないという思いと、全てを聞きたいという思いの間で揺れた。葛藤の狭間で、喉から搾り出すようにイーヴァインは尋ねた。
「……ジークフリート様は、そのときお幾つだったのですか」
「三歳だ。じき四歳になろうかという頃だった。――何だ。そのような子供が憶えていられるのかと問いたいのか? 家族の死だぞ。いかに幼なかろうと憶えていられる。いや……忘れようとても忘れられるはずがない」
 ジークフリートの視線は傍らのイーヴァインから逸れ、網膜に焼きついている光景がそこに広がっているかのように、正面の虚空を睨むように見つめていた。相変わらず筋一つ動かないそのおもてに、今は怒りが満ちている。
「私はその夜、父母と同じ寝室にやすんでいた。幼かったからな。兄上は隣の寝室にいた。恐らく、最初に殺されたのは兄上だったのだろう。悲鳴一つ聞こえはしなかったが、物音がしたのはそちらからだったから」
 イーヴァインは口を閉ざしたまま、じっと話に聞き入った。
「父上が気づかれてお目覚めになったが、すぐに賊どもが入ってきた。丸腰ではなかったとはいえ、持っていたのは寝具に忍ばせられる細身の剣ばかりだ。多勢に無勢もあって、父上は殺された。私をかばおうとなさった母上も」
 全身を斬りつけられて。
 幼子の目の前で、胸を刺し貫かれて。
 父の断末魔の声、母の悲しげな悲鳴が耳の奥に響く。あの日からずっと消えることなく記憶の深淵で響き続けている。それはいつしか、なぜ復讐しないのか、復讐せよという声になってジークフリートを責めたてる。
 目をきつく閉じ、ジークフリートはおのが肩を抱いた。あの時降り注いだ父母の血は焼けつくほどに熱く感じられたはずなのに、今はまるで氷雨のように心を凍らせていく。血の海に溺れて、魂はあの日に囚われていく。
「もし叔父たちが、私が幼く、おのれの言うがままになると考えてことを起こしたのだとしたら、父上たちを殺させたのは私だ。私ゆえに父上たちは殺された」
「いけません。そのようにお考えになっては」
 慌てたようにイーヴァインが言ったが、低く押し殺した声でジークフリートは続けた。かすかにその体が震えていた。今まさに彼が過去の恐怖を追体験しているのだと、イーヴァインはおぼろげに理解し、十七年経った今も彼の心を捕らえたままの恐怖の影を見たように思った。
「彼らは言った。私だけは見逃すが、このことは忘れろ、誰にも言ってはならないと。だが言えば私の命もないと。しかし忘れることなどできようか。だから私は口をつぐんだ。叔父たちが私を名のみの公爵、当主に据え、ならば当然私が継ぐべきもの全てをほしいままにした時も。それ以外に私が生き残る術はなかったからだ」
 肩に置いていた手を腕に下ろし、彼は服の上から指先にきつく力を込めた。
「今の私にはアラマンダ公としての義務がある。アラマンダ公として、内紛を避けるために叔父たちのしたことに見て見ぬふりをしなければならない。それは理解している。だからそうしてきた。だがアラマンダ公ではない私、一人の人間としてのジークフリートは購いの血を求めている。これが同じ一族でなければ彼らに償いの血を流させ、父上たちへの弔いとするものを、私は仇を目の前に手をこまねいている。それも、私がアラマンダ公であるがゆえに。
 この名ゆえに殺されたものの仇を、この名ゆえに取ることができない。その上、私に従妹のどちらかを娶れとは。私から公爵たる全てを奪いながら、あれらは嫡流の血筋すら私から奪おうというのだ。ここまで愚弄されていながら、私にできることはただこの境遇に甘んじることだけとは。何がアラマンダ公爵だ。何が誇り高きアルマンドの血だ。私は、私のこの名が恨めしい」
 表情は全く変わることがなかったが、深く暗い海の色をした目には炎があり、言葉には剣の勢いがあった。
 なんと気高く美しい怒りだろうか、とイーヴァインはジークフリートの声に終末を告げる神の角笛の響きを聞きながら思った。その響きに打たれたように、ただ彼を見つめていることしかできなかった。
「何故そのようなことを……わたしにお話しくださるのですか」
 一(テルジン)近くも経ってから、ようやく口を開くことができた。ジークフリートが腕をきつく握り締めていた手に労るように自分の手を重ね、イーヴァインは尋ねた。こちらを見たジークフリートの瞳には、今度は悲しみが宿っていた。涙を流すことも、顔を歪めることもなく、ジークフリートは泣いていた。
「あの日から、私は笑えないままだ。それどころか、何があろうとも、誰に出会おうとも何も感じられなかった。だがお前だけは違う、イーヴァイン。お前と共にいるときだけ、私の心はわずかだが蘇る。何故かは判らない。だがお前と出会ってから、あの夜で止まっていた心の時が動き出したのだ。私に失われた――欠けたものを、お前なら……お前となら取り戻せるように思う。だからだ」
「ジークフリート様に、欠けたものなど……」
 言いかけたイーヴァインの声を、ジークフリートはかぶりを振って遮った。
「数年、声を失うほどの経験だったのだ。今は声を取り戻し、こうしてお前に語ることができるからとて、それで正常に戻ったと言えるだろうか? 私の魂はあの時に半分死んでしまったも同然なのだ。たとえ何かを感じても、それを私はうまく表すことができない。辛うじて他の感情は表わせても、笑顔だけはどうしても浮かべられない。仮面のような顔、人形のような顔。私とて、それが普通ではないことくらい判る」
 吐き捨てるような言葉。
 凄惨な過去を語りながら、おのれの無力を呪いながら、凍りついたままの美しい顔をイーヴァインは見つめた。彼の何かが壊れてしまっていることは、確かにイーヴァインも認めなければならなかった。だが、それを全て認めたくなかった。
「……わたしには、ジークフリート様が他のものたちが言うような、何も感じぬお方とは思えません」
 ややあってから、イーヴァインは静かに告げた。
「それは、お前のおかげだ。イーヴァイン」
 ジークフリートは微笑もうとしたが、できなかった。しかし雰囲気でそれを感じ取ったように、イーヴァインが微笑みを返した。
「取り戻しましょう、失われたものを。そして、奪われたものも、すべて」
 はっとしたように、ジークフリートは目を見開いた。
「お前は……恐ろしいことを言う」
「わたしはまだ具体的なことは何も申しておりませんよ、ジークフリート様」
 イーヴァインはまた微笑んだ。どこか小暗い微笑。
「でも、あなたのためならば、あなたが命じることは何でもいたします。それがどんなことであっても。わたしは、あなたの笑顔が見たいから」
「何故、私にそこまで」
 不思議そうにジークフリートは言った。
「……そのような思いを、私は知らぬ」
 頼りなく、ジークフリートは呟いた。まるで子供のように。イーヴァインと一つしか年は違わないのに、公爵としての彼はずっと年上に見え、逆に今はずっと幼い子供のように見えた。
「それをひとは、何と言うのだろう」
「一言では申しにくいことです。あなたを永遠にして唯一の我が主と定めたことは忠誠とでもいうのでしょうが」
 言いながらイーヴァインは軽く首を横に振った。忠誠などという一言では語れない。こんなにも想っているのに、それに名前をつけようとすると、言葉にしようとすると、何と陳腐で軽いものになってしまうことか――。
「ならばもう一つ聞いてもよいか? 私が、お前と共にいたいと思うこと――他の誰も、お前の代わりにはならないと思うこと。お前を傷つける者を、私は叔父たちに思うように憎むだろう。それを、何と言うのか知っているか?」
 イーヴァインは思いがけない言葉を聞いたように瞠目した。だがそれは数秒のことで、彼は穏やかに言った。悲しみにも似た思いを抱きながら。
 この美しい人形のような青年はおのれの心の動きにつける名を知らないのだ。しかしそれも無理ないことだろう。今まで自分以外の誰も、彼にとって他者にはなりえなかったのだから。他者と交わらなければ自己もまた確立しえないものなのだから。
「……愛と、いうのではないでしょうか」
「私は、お前を愛しているのだろうか?」
 ジークフリートは無邪気に尋ねた。その言葉の意味も知らぬげに。
 三歳で家族を奪われて以来、誰に愛されることもなく、愛することも知らず二十一までを育った青年には、どのような形であれ愛は理解できない概念だった。もちろん自分の心に生じた初めての動きを自覚することもできなかった。
「それはわたしが判断できることではございません。でも、わたしがあなたに抱くものは愛のとる一つの形なのかもしれません。男女の間のそれとは違う、もっと大きな……心のつながり、目に見えぬ絆としての愛です。少なくとも、わたしにとっては」
 すると、挑むようにジークフリートが言った。
「お前にとってだけではない。私にとってもだ」
「……」
 直後にイーヴァインが浮かべた微笑みは、心から喜ばしげなものだった。



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