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 ヴァーレン城でアラマンダ公爵に仕えるのだと知らせたとき、周囲の者たちは友人も含めて皆が一様に不安げな顔をしたものだった。
「公爵さまは生まれてから一度も笑ったことがない方なんですって。きっと意地の悪い方に違いないわ」
 だとか、
「きっとジークフリート様の心臓は氷でできているんだ」
「あの方の目に見つめられると、心が凍ってしまうんだぞ」
 とかいった他愛のない噂話やばかばかしい心配の類は聞き流すとして、挙げ句の果てには隣のおやじが神妙な顔で真面目くさって、
「公爵殿は心を持たぬ冷たいお方で、それもそのはず、闇の神(サライル)に魂を売り渡しておいでなのだ。それが証拠に今までも何人もの従者が仕えたが、みな公爵殿に魂を少しずつ奪われて、ついには城を出て行かなければならなくなったそうだぞ。命が惜しくばお前も気をつけるんだ」
 などと言ってきた日にはさすがのイーヴァインも苦笑してしまった。
 これから仕える主人が一度も笑ったことのない人だというのは有名な話であったが、イーヴァインはあまり気にしていなかった。笑顔をあまり見せない人はいるものだし、大公爵ともなると軽々しく他人に笑いかけたり、つまらぬことで声を上げて笑ったりなどしてはならぬものなのかもしれないと思っていたのである。
 どんな方でも誠実に仕えれば、もしかしたらお前だけでなく我が家にも何かの引き立てがあるかもしれないのだから、と父親からもそのようにかたく申し渡されていた。
 そうした損得勘定はあまり好きではなかったが、所詮は身分とてない地方豪族の息子でしかない自分がアラマンダ公爵ともあろう方に仕えるのだから、とにかく偏見や先入観など持たず、一心に仕えなければならないと、十九歳の青年は考えていた。その一途さは彼の生まれつきの性格であったが、若さゆえの部分もあった。
 六日ほど馬に揺られてようやくたどり着いたヴァーレンは、噂どおり海と森に挟まれた寂しげな土地であった。
 遅まきの春を迎えた大地には若々しい緑が萌えていたが、それもどこか物寂しげに見えたのはイーヴァインの気のせいだけではなく、この地がそこに閉ざされた主の悲しみと、殺された者たちの嘆きを分かち合っていたからかもしれない。
 アラマンダ公の居城・ヴァーレン城は元来が夏の居城として建てられたこともあって、海に面した美しい城であった。だが広大な敷地に人影は少なく、城下町とてほとんど開けてはいなかった。先代公爵が街並みを整備し、人を集める前に亡くなり、その後の開発が凍結してしまったためである。
 公爵の従者として領内から送り込まれる若者たちが、二月とて耐えられず逃げ出すのは噂に聞く公爵の人柄のせいなどではなく、若者には耐え難いこの土地の侘しさのせいかもしれなかった。
 城でイーヴァインを迎えたのは、公爵の叔父たちから命じられてこの城を管理する家令、同じく彼らから送られてきた使用人たちであった。公爵自身の領地から直接城に召し出される者はほとんどおらず、いたとしても年季が明けるまえに逃げ出すのが常なのだと、イーヴァインは聞かされた。
 まるでそれは、彼もそうなるだろうと決め付けているかのような話し方であったから、彼は青年の反発らしく何としても仕えきろうと逆に決意を新たにした。公爵の執務室に向かう廊下に差し掛かると、それまでずっと喋っていた家令は急に黙りこんだ。部屋の前につくとドアを数度叩き、入室許可を求めた。
「公爵閣下、新しいお側仕えのものが参りました」
「入れ」
 初めて聞いた声は、予想していたよりも低くはない、柔らかなものだった。
 草花の文様が彫刻された重厚な扉を開け、可能なかぎり窓を大きく取り、高価な板ガラスを惜しみなく使って明るくした室内に踏みこむ。高価そうな装丁の施された本や、何かの書類を綴じた分厚い冊子が並べられた本棚が、窓のない側の壁に隙間なく置かれている。この年から正式にアラマンダ公と呼ばれるようになった十八歳の公爵は、窓の前に据えた机に向かっていた。
 イーヴァインが室内に入るとそれで仕事は済んだとばかり家令は一礼し、公爵も家令の意思を読み取ったように下がってよいと命じた。本棚ばかりなのに狭さを感じさせない室内には、イーヴァインとジークフリートだけが残った。
「もう少し近くへ」
「はい」
 緊張しながら、イーヴァインは公爵の机の前に歩み寄った。机を挟んで二バールほどで向かい合い、視線を交わした時に彼は気づいた。公爵の瞳は自分を見てはいるけれども何も映していない。新しく傍近くに仕える者であるのに、本当は一片の興味だに抱いておらず、近づけさせたのも単なる儀礼的な行為にすぎないのだと。
 そして同時に、そのたぐいまれな美しさに息を飲んだ。初対面で取られた尊大な態度に何かを思うことも忘れてしまうほどの美貌。男らしさも、女らしさもない。或いはそのどちらも内包している、といった方がよいだろうか。性別を超越した無機的な美。感嘆の目で見つめられていることにも、公爵は頓着していないようだった。いたってさりげない調子で口を開いた。
「知ってはいるだろうが、一応名乗っておこう。私がジークフリート・ラエルティウス・ダ・ジェンデ・ラフレー・エ・エスメラルダ・ド・ラ・アルマンドだ。ジークフリートなり、アルマンドなり、どのように呼ぼうと構わぬ」
 彼は律儀に自分の正式名を名乗ってから、イーヴァインに尋ねた。
「お前の名は?」
「イーヴァイン・レユニと申します」
「……イーヴァイン・レユニ」
 ジークフリートは物憂げに繰り返した。何かを探すような目を束の間宙に投げてから、彼は言った。
「モエジアの西の境にある町だな、レユニは。そこの出か」
「さようでございますが……レユニをご存じなのでございますか」
 イーヴァインの出身地であり、彼の一族が代々の町長をつとめるレユニは、村と紙一重のごく小さな町だ。そんな些細な町の名をジークフリートが知っていたことに、イーヴァインは素直に驚いた。
「行ったことはないが、当然だろう。おのれの領地だ」
 平静な声で、ジークフリートは答えた。だが、アラマンダ公領はその長い歴史の中で一時は独立国家として存在しえたほどに広い。そこに存在する町や村の名など、主だったものだけだとしても並の努力では到底覚えきれるものではないだろう。
「嬉しそうだな」
 ぱっと晴れたイーヴァインの顔をちらりと見上げたジークフリートは、呟くように言った。イーヴァインは頷いた。
「まさか、公爵様がわたしの町をご存じだとは存じませんでしたので」
「先にも言っただろう。おのれの領地なのだから、知っておらねばならぬことだ。それが、そんなに珍しいことなのか?」
 イーヴァインの弾む声を押さえつけるように、ジークフリートは言った。だがイーヴァインは冷めた態度など気にしなかった。何となく、相手が純粋に疑問に思っているのだということが判った。
「そう思います。フリアウル候はモエジア伯に命じてわたしを召しだされましたが、わたしの町をご存じのうえでのことではないようですから。候にはお会いしたこともございませんし」
「ハーゲン叔父ならさもあろう」
 また冷たい声でジークフリートは言い捨てた。その瞬間、ジークフリートの群青色の瞳にかすかな感情のさざなみが立ったのを、イーヴァインは見た。それは怒りであった。このこともまた、イーヴァインの心に驚きをもたらした。
 公爵は世間で言われているように感情のない人形のような人ではない。この人にも、ほとんど露にしないだけで、感情の動きはあるのだ。たとえ今見えた感情が怒りだけであったとしても、心を持っているのだ。
 そう考えてみると、それまで動く彫像のように見えていた公爵が急に血の通った人間と見えてきた。たとえ人間に興味を持たないとしても、小さな町の名でもきちんと把握するほど、職務に忠実な人なのだ。それは恐らく、この若い公爵がおのれの務めを神聖なものと考え、その治める土地を愛しているからに違いない。最初の無感情な瞳に感じかけた悪感はただちに拭い去られ、驚きは好感へと変わった。
 誰が判らなくても、自分はこの人を理解できるようになりたい。いや、なろう。
 この時からイーヴァインは、時の神ヤナスが許すかぎりの時間、あたうかぎり忠実に仕えたいと心から思うようになった。
 仕えはじめて一月も経たないうちに、イーヴァインはさまざまなものをジークフリートの小さな仕種やまなざしから読み取ることができるようになった。他の者がどうしてできないのか、不思議なくらいだった。確かにジークフリートは決して笑うことはなかったし、その心に喜びが宿ることもほとんどなかったが、無表情ながらに彼の群青色の瞳は驚きや不興を示す。
 それは確かにごく些細なものであったし、城の中で表わされることはなかった。だが城外では彼は夕焼けの美しさに感嘆し、海の彼方へ群を成し飛び去る海鳥に思いを馳せ、田園や草木の緑を愛でた。
 イーヴァインがおのれの心に感じたものに気づくと知ってから、ジークフリートの彼を見る目も変わった。何の興味も示さず、人も物も同じように見るのは相変わらずであったが、イーヴァインに対するときだけ、その感情のない瞳に「誰か」を見ている柔らかさが宿るのだ。
 ジークフリートがことさらイーヴァインだけを優遇したり、傍に置きたがるようなことは決してしなかったが、自分だけがジークフリートに「他の誰でもないもの」と認識されているというそれだけでイーヴァインには嬉しかった。
 城に戻り、夕食までの時間は何をするでもなく過ごすのがジークフリートの常だった。ジークフリートの日常はアラマンダ公としての仕事だけでほとんど全ての時間が埋められていた。本当に彼の自由になる時間は短く、日課にしている午後の散歩以外には滅多に外に出ることもない。
 側仕えといってもイーヴァインは職業的に人の世話をするために訓練されたものではないし、ジークフリートは身の回りのことはほとんど自分でこなしていたので、彼の仕事は散歩の同行や息抜きのゲームの相手をするくらいしかなかった。それで、二ヶ月ほど経った頃、自分にはもっとするべき仕事があるのではないかと尋ねてみた。
 するとジークフリートは意外な提案をした。
「では、剣の相手をしてくれないか」
 騎士身分を目指し、息子にもそれを望んだ父に幼い頃から剣術を仕込まれていたので、軽い気持ちでイーヴァインは承諾した。だが考えていたよりもジークフリートとの鍛錬は厳しかった。
 物心つく前からヴァーレン城に半ば幽閉されて育ったジークフリートは、教養として身につけなければならない学問、音楽や武術以外にすることも楽しみもなかったためか、それらの全てに熟達していたのである。貴族の剣術などたしなみ程度のものだと思っていたイーヴァインにとって、それは驚きだった。
 それしか自分には許されていないから、とジークフリートは時折無表情なまま自嘲の言葉を口にしたが、彼には少年の頃から公爵としての地味ではあるが最も重要な仕事を難なく処理できる能力もある。政治力であれ武力であれ、実力を振るう場所を得ることさえできれば、ジークフリートはその名にふさわしい地位と名誉を宮廷内でも勝ち取ることができるに違いなかった。
 実戦さながらの激しさと勢いで、ジークフリートは剣を振るう。自然、相手となるイーヴァインも全力で応じなければならない。練習用の剣や木剣での打ち合いだったが手加減は一切なく、手抜きは許されなかった。結果として怪我をすることも度々あり、逆に怪我をさせることもあった。
 初めて傷を負わせてしまった時には叱責を覚悟したが、イーヴァインの懸念と狼狽をよそに、ジークフリートは常と変わらぬ静かな目で彼を見つめ、腕を上げたと褒めただけであった。むしろ、本当にイーヴァインが全力で応じていると確信できたことを喜んでいるようでもあった。
 もしかしたら、ジークフリートは魂の底に押し隠した怒りや憎しみ、ままならぬ身のやるせなさを、打ち下ろす剣に込めているのかもしれなかった。それならば、受け止めることが自分の役目だと、イーヴァインはそう思った。そうして本気で向かい合ううちに、イーヴァインの剣の腕前は自分でも驚くほど上がっていた。
 その剣を、ジークフリートの思いを受け止めるためだけではなく、彼のために――彼に笑顔を取り戻させるために振るうことができればと、次第にイーヴァインはそう思うようになった。
 あれから三年が過ぎた。
 ジークフリートは今、彼を傍らにして長椅子に身を預け、物思いに耽っているように見える。主の感情を察することには長けてきたイーヴァインだったが、何を考えているかまでは判らなかった。
(……縁談のことだろうか)
 内心でイーヴァインは色々と推察を巡らせてみた。二人の叔父から前後して縁談が持ち込まれたのは今朝のことである。ジークフリートは生まれてこの方ヴァーレンから出たことがない。彼のいとこたちがヴァーレンを訪れたこともない。当然のことながら従妹たちと面識など全くなかった。それがアルマンドの正統な血筋目当てのものであることなど一目瞭然であった。
 ジークフリートがふと顔を上げた。
「イーヴァイン」
「はい」
 ジークフリートの顔は常と同じように冷たかった。だが、その目にあるものは、いつもとは何か違う気がした。
「お前に――お前だから、話したいことがある」



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