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隻翼の鳥


 カラドルス・エ・ソラヤはアラマンダ公爵ジークフリートの長男であり嫡男であった。伝承の中において、空の遥か高みを目指して飛び上がり、やがて太陽にその身を焼き尽くされて命を終えるという《雲雀(カラドルス)》の名にふさわしい生涯を送った人であった。彼に先立った従者もまた同様に鳥の名を持ち、人の手の及ばぬ空へと飛び立つように世を去った人であった。兄は血のつながった実の弟である私よりもずっと、その姿も生きざまも、そして終わり方も彼に似ていた。
 私、ウィーラント・エ・エイヴィスはカラドルスの三つ年下の弟として生まれた。私は次男であったので成人を以てフリアウルの侯爵位を父から譲り受け、それと共にド・ラ・アルマンドの姓を失い、ド・フリアウルと名乗ることになった。ヴァーレンを離れオルイフに城主として入った時、私はよもや再びこの姓を――兄が受け継ぐ筈であった名を――自らのものとして名乗ることになろうとは思ってもいなかった。
 成功率は低いと知りながら、ある作戦に自ら志願し、結果として海へと消えた兄の訃報を聞いた時、私の胸に起こったのは『やはり』という思いであった。先立つこと数ヶ月前、兄にとって無二の存在――分かち難い半身とも言うべき存在であったエスメリオンの死を知った時から、このような日が来ることへの予感めいたものがあった。
 エスメリオン――兄の従者であった彼はヴァーレン城の家令イーヴァイン・デ・レユニの長男で、兄よりも一つ年上であった。
 エスメリオンにも弟が一人おり、その弟クレストルは私と同じ年に生まれた。アルマンド家とレユニ家の私たち兄弟は、互いの父親である公爵と家令の他に類を見ないほどの親密さもあって、まるで四人の兄弟であるかのように、幼い頃にはほとんど常に共に遊び、学び、時には身分の垣を越えて寝食を共にするほど親しく育った。
 だが兄とエスメリオンの親密さは、私とクレストルのそれとは少し違っていた。単なる忠誠心や身分を越えた友情だけではなく、ひっそりとした微笑みやつかのま視線を交わすことによって何かを伝えあうような、どこか秘密めいた絆が二人の間にはあるのだと、成長するにつれて何となしに悟られてきた。
「エスメリオンは私の影だから、あれを失ったら私は生きていけない」
 兄はよく、そう言っていた。お前がいなければ生きている意味はない、そのようなことをエスメリオンに言うこともあった。
「滅多なことを仰ってはいけませんよ。あなたはアルマンド家を負って立たねばならぬ方なのですから」
 そんな時エスメリオンは決まって静かに兄を諭した。
「冗談や軽い気持ちで言っているのではない。お前がそこにいてくれるからこそ、私は今ここに私としているのだ。私の魂の半分はきっと、お前の中にある」
 兄は心の底からそのように信じていたようで、きっぱりとそう言った。
「もしも魂が分かち合えるものならば、そうなのかもしれませんね、カラドルス様。それならばきっと、逆も然り。魂を分かち合っているのであれば、私は死してもあなたの中に生き続けることができるのでしょう」
 ある時、そう言ってエスメリオンは彼の父によく似た少し寂しげで影のある微笑みを浮かべて兄を見つめ返した。それを見て兄はようやく、安心したように美しく微笑んだ。父に似た私とは違い、母に似た繊麗なその微笑みを、私はひどく儚いもののように感じていた。
 二人の間には、私には決して手に入れることもできず、知ることも出来ぬつながりがあったのだと、私は思う。
 そのつながりは自らと兄の間に、エスメリオンとクレストルの間にあるもの――血の絆に似ているのではないかと、私は思うことがあった。けれどもそれだけではない何かがあるのだと、その「何か」をはっきり指し示すことができぬのに、そう思っていた。
 海戦のさなかに兄を庇ってエスメリオンが死んだのは、その年の夏だった。乱戦だったこと、深い海に没してしまったこともあって遺体を引き揚げることはできず、城に戻ってきたのは彼が船で使っていた身の回りの品だけだった。
 兄自身も少なからぬ傷を負っていたこともあり、心配だった私は急ぎオルイフからヴァーレンに向かった。早馬で飛ばせば三日もかからぬ距離である。私がヴァーレンに着いたのはエスメリオンの葬儀の当日であった。
 空っぽの棺には、出航前にエスメリオンが形見として家族に残していた髪の一房と、軍服が収められていた。そして兄は、まさしく人形のような無表情で葬送の最前列にいた。魂をどこかに置き去りにしてきたかのようなその姿は、かつて昔語りに聞いた、笑顔を失った父を見るようだった。
 葬儀の時もずっとそうだったが、兄は遺体の無い棺と共に戻ってきた時も、治療を受けている間も、何があったかを語っている間も、感情を無くしたかのように冷静だったという。取り乱すこともなく、涙一粒零すこともなく、淡々と自らに与えられた役割全てをこなしていた。だがそれは冷酷なのでも冷淡なのでもなく、全ての感情を心の奥深い場所に押し込めた結果であると私は知っていた。
 他の誰も入り込めぬほど強い絆で結ばれ、愛し、心を預けた相手を喪ったというのに悲しまぬはずがないのだ。兄は、あまりに深く強い悲しみをどう表わしていいのかわからなかっただけなのだろう。
 その日の夜のこと。一つの終わりと区切りを迎えたどことない虚脱感に包まれた城の中は静かだった。既に夜も更けていたが、兄を一人にしておけない気がして、私は上階にある兄の居室に向かおうとしていた。薄暗い廊下に、ランプの炎がちらちらと揺らめいて長く伸びた影を落としていた。
 そこを曲がれば踊り場に続く角まで来たところで、低くひそめた男の話し声が聞こえた。秘密ごとめいたその声に私は咄嗟に足を止め、壁際にぴたりと背をつけると、細く開いた扉の隙間から室内を窺ってみた。
 薄暗い室内には父とイーヴァインがいた。飾り気はないがしっかりとした見慣れた調度品の数々に、そこが何度となく訪れたエスメリオンの部屋であったことを思い出した。父にもイーヴァインにも、エスメリオンへの思いがそれぞれあるだろうし、二人がこの場で話すことは私が立ち入ってよいような事柄ではないはず。そう思ってそっと立ち去ろうとした私の耳に、意外な言葉が飛び込んできた。
「申し訳ありません、ジークフリート様」
 私は返しかけていた背を戻し、再び扉の影に隠れた。驚く私の目の前で、イーヴァインはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「……申し訳ありません」
 二人がどのような会話をしていて、どうしてこの謝罪に繋がったのかは私には判らなかった。だがそれが何に対するものであるかは、場所によって察せられた。イーヴァインはエスメリオンが死んでしまったことを、父に謝っているのだ。
 何故イーヴァインが謝るのだろう。エスメリオンが死んだのは、兄のため――ひいてはアルマンド家のため、父のためであるのに。父が彼に謝ることこそあれ、彼が父に謝らねばならぬことなど、何一つないのに。
 けれども父はイーヴァインの謝罪を訝ることもなく、同じように悲痛な面持ちで聞いていた。私の立ち位置からでは、父と向かい合っているイーヴァインの表情は窺えない。だが小さく俯いた彼の肩が微かに震えているのは見えた。私の憶測を、父の言葉が裏付けた。
「イーヴァイン、泣いてくれるのか。エスメリオンのために」
 愛しさと悲しさを等分に含んだ、柔らかく沁み入るような声だった。イーヴァインがエスメリオンのために泣くのは当然だろう。彼は、イーヴァインの息子なのだから。なのになぜ、そんな判り切ったことをあえて父が言うのか、俄かには理解できなかった。
「ありがとう」
 父はゆっくりと言った。その白い頬に一筋流れるものを、私は見た。
「私はお前に感謝こそすれ、恨むことなど何もない。エスメリオンは与えられた務めを最期まで果たしたのだ。ありがとう。あの子を見守ることを許してくれて。あの子を慈しみ、愛してくれて。あの子のために泣いてくれて」
 その時、私は悟った。イーヴァインが父に謝った理由、父がイーヴァインに感謝した理由を、エスメリオンと私たち兄弟の関係を。
 かつて耳にした、兄の言葉が蘇る。
『お前がそこにいてくれるからこそ、私は今ここに私としているのだ』
 エスメリオンがイーヴァインの息子として存在しているから、兄はアルマンドの嫡男として存在している。過去の何かが違っていたら、兄のいる場所にはエスメリオンがいたかもしれなかった。そして、私たち兄弟は存在していなかったかも知れなかった。
 あれは、あの言葉は、そういうことだったのだ。
 だがそれは知ってはならない、知るべきではないことだった。
 私はひどく動揺しながら、それでも足音だけは立てぬように細心の注意を払ってその場を後にした。最初からそのつもりで部屋を出てきていたが、兄に会いたかった。今日という日に知ってしまった真実を、はるか以前から知っていただろう兄に。
「ウィーラント」
 羽根が撫でるように優しい声が頭上に響き、私ははっと顔を上げた。上りかけていた階段の最上段に、手燭を持った兄が立っていた。まるで、私が訪れるのを予期して待っていたかのように。
「どうしたのだ? 酷い顔をしているな。おいで、ウィーラント」
 そう言って、兄は二、三段降りて私に手を差し伸べてくれた。溺れるものが縋るように、私はその手を掴んだ。夏の夜だというのに、氷のように冷たい手だった。だが私の手も同じくらい冷え切っていた。
 兄はそのまま、私を居間に連れて行ってくれた。まだ眠る気にはなれなかったのだろう、ゆったりした部屋着に着替えてはいたが寝室の扉は開かれた形跡がなく、テーブルには薬草入りのワインがデカンタごと置かれていた。
「私が使ったもので悪いが、少し飲むといい。本当に顔色が悪い」
「いただきます。ありがとうございます、兄上」
 一つしかないゴブレットに、兄はそう断りを入れてからワインを注いで渡してくれた。ほのかにまだ温かみを残すワインを、唇を湿らす程度に口に入れた。薬草入りのそれは一度火を入れているので、酒精はほとんど感じなかった。
「私を心配して、来てくれたのか」
「そのつもりでした。共にエスメリオンを悼みたいと」
「でした、か。では、今は違う?」
 兄はほんの少しだけ唇の端を持ち上げて、笑うような表情を浮かべた。昼間の氷像めいた姿とは違い、表情を動かそうと思うだけ、今の兄には心の余裕ができているようだった。完全に悲しみを埋めるには長い時を要するだろうが、半身の喪失を少しずつ、受け入れようとしているのだろう。そのきっかけが私であればよいと、そう思った。
「さっき、父上とイーヴァインが話していました。エスメリオンの部屋で」
「そう」
 短く相槌を打っただけで、兄はそれ以上先を促すことも、自分から口を開くこともなかった。私は何を言えばいいのか判らなかった。私が今夜知ってしまった真実に兄が気づいていたのか、いないのか、それすらも判断できなかったからだ。だが沈黙に耐えかねて再び口を開いたのは、当然のことながら私だった。
「兄上。エスメリオンは……私たちの……」
「とうとう、お前も知ってしまったのだね」
 私が言い切る前に、兄は確信に満ちた口調で尋ねてきた。私はその問いに応えなかったが、沈黙のうちに肯定の意思を感じ取ったのだろう。兄は目には深い悲しみを宿しながら、口元に優しい微笑みを浮かべた。
「兄上もご存じだったのですか。いつから? 父上が……?」
「まさか。父上が仰るはずもない。けれども、視線は時に言葉以上に雄弁に語るものだ。私が幼い頃は父上たちも若かったから、何かがあると気づいたんだ。それに……エスメリオンと私の魂はあまりにも似ていたから」
 最後は呟くように言い、兄は小さなため息のような息を吐いた。
「父上を、イーヴァインを軽蔑するかい、ウィーラント?」
 私たちが生まれる前、三人の間に何があったのかを私は知らない。だが父がハルカトラではなく母を娶った理由は理解していたし、どのような感情が三人の間にあったにしろ、それが最善の判断だったと結論付けた。私は結局アルマンドの人間であり、貴族だった。
「いいえ。でも、父上が過ちを犯したことに違いはないのですね」
 私が言うと、兄は少し遠くを見るような眼差しを宙に束の間投げ、それから私に視線を戻した。
「過ち……そう、そうだね。けれど、ねえ、ウィーラント。父上たちの罪は罪として、過ちの証として生きるとは、一体どのような人生だっただろう?」
 その言葉を聞いた時、強く頭を殴られたような気がした。ひたと私を見つめる兄の眼差しは、凪の海に似た静けさを湛えていた。あまりに静かで、そこにどんな感情があるのか、私には判らなかった。
「エスメリオンも……知っていたのですか」
 問う声が喉に絡んだ。とっくに成人した私ですら衝撃を受けた事実を、幼かったであろう兄とエスメリオンは知っていたというのか。
「私が気づいたことだ。彼も知っていたよ」
 ひたすらに静かな、感情を読み取れない目をしたまま、兄は呟くように言った。不意に私は、生前のエスメリオンと兄が交わしていた眼差し、ひっそりとした微笑み、そういったもの全てを思い出した。そしてそれが、まさに秘密を分かち合う者同士のものであったということも。
 父の罪の証として生まれ、或いは自らが立っていたかもしれない場所に立つ、弟であるはずの者を主として命を捧げた人生。それがどういうものなのか、私には判らない。それを兄が、エスメリオンがどう思い、受け入れて――或いは諦めて――いたのかも。
「さあ、ウィーラント。今日は色々な事がありすぎた。考えるのはやめて、もう休みなさい」
 言葉を失っている私に、兄は階段の上で呼びかけた時と同じ優しい声で告げた。その声はしっとりと柔らかく、砂糖菓子のように甘かった。兄はいつでも私に優しかった。喪失に深く傷つき、悲嘆の淵に沈む今でさえも。たおやかな見かけによらず、兄は強い男だった。自身が最も辛いはずなのに、私を思いやる言葉を紡ぐことができるほどに。
「私は大丈夫だ。いずれこのような日が来るかもしれないと、覚悟はしていた。影を喪った男なりに、生きてみるさ。それから、お前が今日見聞きしたことは……」
「わかっています。二度と、口にはいたしません」
 私は頷いて、兄の言葉を引き取った。知ってしまったことを忘れられよう筈もないが、知らぬふりを通すことはできる。受けた衝撃は大きかったが、思考や感情を隠すことは私たちのような者にとり、さほど難しいことではなかった。
 矢のように日々は過ぎ、ヴァーレン城全体を包んでいた悲しみと喪の雰囲気が薄らぎ、兄の怪我も癒えた初秋の日、私はオルイフに戻った。
「冬にまたお伺いします。兄上、それまでどうか息災で」
 葬儀の日の夜に知った父たちの過去について、あれから兄と語り合うことはなかったが、知る以前よりも兄との親密さは増した気がしていた。それは兄とエスメリオンの間にあったものとも、私とクレストルの間にあるものとも違っていたけれども。約したとおりヴァーレンで過ごした冬の間、兄はよく翳りのある微笑みを私に向け、私は理解の意を込めた眼差しをそれに返した。
 アルマンドの名を継ぐ者の重圧を、光と重なる影であるエスメリオンの存在によって辛うじて支えていたであろう兄は、彼を喪った代償を同じ秘密を新たに分かち合うことになった私に求めていたのかもしれなかった。
 それは少し哀しいことであったけれども、喪われた者の代理として求められているのであっても構わなかった。エスメリオンと兄の間にあったものとは違っていたとしても、私もまたやはり兄を愛しており、可能な限り援けになりたいと願っていたからだ。
 春の雪解けと共に再び海へと旅立つ兄を、私はヴァーレンで見送った。
「海神のご加護と、ご武運を祈っております。どうぞご無事にお戻りください、兄上。本当はもう、海には出ていただきたくありませんが、お引き留めできないことも判っておりますから」
 私はいつになく強い口調で兄にそう願った。冬を越えて兄は表面上は落ち着いているように見えたけれども、相変わらずその瞳には深い悲しみや嘆き、運命への憤りといったものが陽炎のように揺らぐことがあるのを知っていた。それが言い知れぬ不安となってこの胸を締め付けるということも。
「心配をかけてすまない、ウィーラント。けれど、もう一度あの場所に行かなければ、私は何も終わらせられない。私はエスメリオンの魂を彼に返してやらなければならないし、彼に私の魂を返してもらわなければならないから」
 それは恐らく喩えだったのだろうが、彼岸と此岸に分かれた互いの半魂を取り戻すなど、果たして可能なのだろうかと私は訝った。主従の絆に加えて、兄たちの魂は出生の秘密によって、血のつながりによって分かちがたく結びつき、一つの魂を二つの体が分け合うようなものだと知っていたから。それはまるで、対となる翼をもつ伴侶と巡り会わねば空を飛べず、生きることもできぬという片羽の鳥のように。
「これが最後だ。この航海が終わったら、私はもうどこにも行かない」
 アルマンドの名を継ぐ者としての責務を、その意味を兄が理解していなかったはずがない。私たちの命は私たち自身のものであって、そうではない。家を、名を守るためであれば、時には誰を犠牲にしてもこの命を守りとおさねばならない。たとえそれが自らの最愛の者であったとしても。
 それでもなお兄は全てを――自らの命さえ――捨てても、喪われた片羽を求めずにはいられなかったのだろう。別れ際に残した言葉通り、兄はそれを最後の航海として、二度と何処にも行かなかった。ヴァーレンに戻ることすらもなく、エスメリオンの消えた海の底へと行ってしまった。
 兄にそうさせた思いは理解しつつも、何もかも捨てて、私に押し付けて、手の届かぬ場所に行ってしまった兄を身勝手だと詰る私がいる。
 生きていてほしかった。エスメリオンの弟であると同時に、兄は、私の兄だったのだから。誰もエスメリオンの代わりになれぬことは知っていたから、他の誰でもなく私を選んでほしかった。
 そう思うのもまた、私の身勝手なのだと判ってはいたけれども。


終(2012.3.20)

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