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     小鳥よ小鳥 梢の小鳥よ
     人は愛より生まれ、愛を求めるもの
     幸せな小鳥よ 私を哀れんでおくれ
     私の墓を建てておくれ 愛しいものよ
     かの人の愛なくしては
     もはや一時とて 永らえられぬのだから
                     ――オルフェ





     エピローグ




 年代記や歴史書が語るアラマンダ公爵ジークフリート・ド・ラ・アルマンドの足跡はここから始まる。
 二十年近くも実権を握ることなく過ごしてきたうら若き公爵を、はじめ皇帝は軽んじていたと伝えられている。だが彼は以後三十年に亘って権謀術数渦巻くメビウス宮廷の重鎮であり続け、二代の皇帝に仕え、そのよき補佐であり続けた。
 政治においては十年近くも続いた継承戦争によって疲弊したメビウスを立て直すために辣腕を振るい、長らく不和であったゼーアとの国交を正常化させ、軍事においては北方の海賊民の侵入を退け、島々の支配権を確立した。実に第二次中興メビウスの礎を作り上げたのは彼であるといっても過言ではない。
 人を寄せ付けず、冷たい美貌と冷徹さから宮廷では《氷の如きジークフリート》と呼ばれた彼であったけれども、彼はもはや生きた氷の人形などではなかった。彼が微笑むことは滅多になかったが、ひたとび彼が微笑めばさながら氷河に春の光が射すように人の心を和ませたと、同時代の年代記作家ゲルハルドは伝えている。
 彼の心のうちには愛という名の炎が静かに、やわらかに息づいていた。
 人は愛より生まれ、愛を求めるもの――愛なくして生きることはできないといにしえの詩人が謳ったように。
 それは確かに、妻エルメリーナとの間のものではなかったかもしれない。彼は妻や彼女の産んだ子供たちを等しく慈しんだが、それが愛であったのかどうかは記録の伝えるところではない。
 だが彼は同時代の人々が思っていたように不幸ではなかった。
 彼は罪の中に生きていたけれども、同時に愛の中にも生きていた。
 生涯にわたって彼とともに在ったのはひとつの愛、けれども愛という言葉で語るにはあまりに深く、様々な意味を持ちうる大きな概念であった。それは若き日の思い出であると同時に日々新たに生まれ、彼の命の尽きる日まで消えることはなかった。
 ジークフリートと、一生を彼に捧げたイーヴァインと、その妻ハルカトラとをつなぐ、それは絆であった。後にイーヴァインが騎士階級に叙され、レユニ家が貴族の一員となった時に、皇家から獅子の使用を許される以前にアルマンド家の紋章だった『青地に銀の白鳥』を家紋としてジークフリートが与えたことからも明らかであるように、二人がひとかたならぬ主従の絆で結ばれていたことは後世にも伝えられている。
 だが、それだけではない。
 暗い海の色の瞳を持つ公爵と、陽の射し入る水面の色の瞳を持つ従者、黄金の髪の娘。かれらが互いをそれぞれに性質は異なるが同じ深さと激しさで愛したこと。苦悩と罪のうちに在りながらも、確かにそれは一つの幸福でもあったこと。
 それゆえに、死の女神以外のいかなるものもこの世においては断つことのできぬ絆でかれらが結ばれていたこと。
 アルマンド一族の血で描かれ、悲しみと憎しみに彩られた復讐の物語。それを成し遂げさせたのは、憎しみとはうらはらに気高く美しい一つの感情、何者も冒すことのできぬ純粋な愛であったこと――。
 そのことは、どの歴史書を紐解いてみても伝えられてはいない。


「暗い海」 完(2010.7.25up)

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あとがき的なもの(別窓)
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